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指圧私塾/養生舎


指圧私塾Instagram

なぜ私は指圧私塾をはじめるのか?

いま、ここを感じる

明日、名古屋のうめむら指圧院長の梅村先生と共に、指圧私塾を始めます。

前回、前々回に書いてきたように、去年の秋にうめむら指圧さんで梅村先生の指圧を初めて受けて、私が志向する指圧、受けたい指圧も提供したい指圧も梅村先生が体現されていることを感じた私は、何度も名古屋に先生をお訪ねし、ますますその念を強くしました。

そして、その度に私だけがこの幸せを享受することがとてももったいなく感じるようになってきたのです。

指圧の素晴らしさは、梅村先生のInstagramでのご投稿にもよくあらわれていて、私自身、一番初めの入口がそのInstagram投稿にあらわれるお人柄のよさ、澄んだ氣の柔らかさ、温かさに惹かれての訪問だったので、同じようにいつかは施術を受けてみたいと思っていらっしゃるフォロワーさんがたくさんいらっしゃるはずだと思っていました。

実際に、そうして全国から訪ねて来られる方がいらっしゃることは、梅村先生にお伺いしていましたし、とくに、関西には同じような指圧院を私は見つけることができなかったので、名古屋まで遠征されるのは当然だろうと思っていました。

個々に施術を受けることによって、ご自身が感じた施術の印象は、施術者であれば、自分の現場に還った時に有形無形に色々な形で生かされることになると思います。

ただ、被術者として受けた感じはもちろん体験として、貴重な得難いものではあるのですが、今自分が受けている施術がどのようなものであるかということを、受け手としてではなく、第三者の目、同じ施術者の視点として確認したくならないでしょうか?

私はいつも、ペアを連れて行って、自分も受け、ペアが受けているところも見学させて頂いて・・ということに、お許しを頂いていたので、いつも一度の訪問で、自分だけ受けることの何百倍もの成果を頂いて帰ってきます。

動画も撮らせていただいたことがありますが、見えないものは映らない。

その場にいてこそ感じられるものが、動画には何も残っていません。

極端なことをいうと、梅村先生と同じ空間にいるだけで、身体の粒子が整っていく感じがあり、施術を受けているペアの心地よさが自分の身体に同期してつながっていく感じがします。

これはどんなに言葉を費やしても、高性能なカメラでも伝えられないものです。

でも、その感覚こそが私たちの臨床で一番大切なことではないでしょうか。

今、ここにある感覚。

自分自身の今ここにある感覚と照合しながら、先達としての梅村先生との感覚を感じて、和する感じ。

同化するわけではなく、右へ倣えをするわけではなく、一方向でもない。
そんな場があればいいなぁと。

実は私は2回目に夫とお訪ねしたのですが、夫が施術を受けながら、盛んに「上手だ、気持ちいい、最高だ…」と絶賛する中で、「そうでしょ?最高にお上手だけど、まだまだ梅村先生には伸びしろがあって、そこが一番の魅力なんだよ。」と私が説明する場面がありました。

夫は、「何を上から目線でエラそうなことを言うんだ?」と驚き慌て、梅村先生に、「本当に失礼なヤツですみません」と平身低頭謝るという展開になったのですが、梅村先生にはわかっていただいていたと思いますが、私は今でもまだまだこれから梅村先生はもっとすごい指圧師さんになられると思っています。

すごいという意味は、卓越した技術をお持ちなのはもちろんなのですが、そのことがちっぽけに思えるくらい、豊かな存在感があり、まだまだ豊かになられるということです。

いわゆる大先生の指圧は完成されているからこそ、凄いと思われるのでしょうし、神の手といわれるような技術に普通は人は教えを乞いに群れ集うのかもしれません。

でも私は、被術者によって変幻自在の、自由なのびのびとした施術、被術者を主として、ご自分を従とされているのに、受け手を果てしなく豊かな世界に連れていくことこそが梅村先生の持ち味と思いました。

氣のやりとりが、施術者から被術者への一方向ではないのです。とても柔らかく伸びやかな氣の流れ、氣の巡りが生き生きと空間に温かく満ちていく様子がみえます。

そんな梅村先生の指圧を、リアルタイムで感じられる場を創りたい。それがまず私の発起心でした。

道場?講座?スクール?

早速、梅村先生に勢いにまかせて、こういう場を創りたい・・という希望を伝え、ご快諾はいただいたものの、実はそこから結構な紆余曲折がありました。

素晴らしい梅村先生の指圧ですが、大人数を集めて、見世物のように「ほうら、すごいでしょう!!」と、ショーを見せるような取り組みにはしたくありませんでした。

増永静人師の『治療百話』は私のバイブルで、今まで何度となく読み返してきましたが、その血のにじむような記述に、鶴女房が我が羽を抜きながら反物を織るような身を削る業のように思え、年々痛々しく思えて辛くなってきていました。

増永師は享年57歳という若さでお亡くなりになっています。
私は健康について一番よくわかっていらっしゃるはずの師が、早逝されたことの不審があり、医王会にご子息の晴彦先生に施術を受けに行った際にお尋ねしたことがあります。

まるで修行僧の海外布教のように、知らない土地で、知らない人に、布施行を積んでいてとても常人にできることではないと思っていたから、親父が亡くなった時には、とても自分ができることとは思えなかった…と、御真影にみる増永師そっくりの思慮深い面差しで、先生はお話下さいました。

晴彦先生の指圧もまた素晴らしく、経絡指圧の奥行きはしっかり味わったのですが、それはまたの機会にお話しするとして、そのお話には深く納得させられるものがありました。

治療百話では、海外講習でのことが、詳細に語られています。
そこではもう、東洋からきた魔法使いのような扱いで、次々に壇上に上がってくる参加者の上がらない手をあげ、歩けない足を歩かせという奇跡を望む期待に応える師の姿があります。

最晩年の体調が悪い自覚がありありと記述されているのになお、菩薩行のように、請われれば、アメリカにもヨーロッパにも重ねて出かけていき、通訳もなしに講習を続けておられるのです。

外人講習をしていて痛感したのだが、彼らはまず理論と方法の説明を要求する。それが納得できてはじめて自分で学習しようとする。日本の徒弟制度のように理屈抜きで実地の習練をし、しかる後にそれに含まれる法則や意味を会得するのとは全く逆である。もっとも近頃はすべてに学習が西欧化して知識優先の傾向になってきたが…

治療百話 増永静人

次々に証の診断をし、主訴のあるところとは違うところに短時間施術することで、麻痺や痛みをとってしまう。

今でも、ヨーロッパでは経絡指圧や禅指圧として東洋の神秘のように指圧に知名度があるのは、そんな増永師が命を懸けて伝えた魔法のような鮮やかな指圧が大きく貢献してきたことは疑う余地がありません。

でもそのような道のりを梅村先生に辿って頂くわけにはいきません。

梅村先生ご自身が、幸せな気持ちで充実した氣でもって、参加者の方々に対さなければ、先生の魅力は伝わらないだろうとも思いました。

梅村先生を崇め奉らなければならないカリスマ指圧師のような存在にしてしまってはいけない。それが私の命題でした。

それには、少人数で氣の合う方とぼちぼち始めるという形式が一番いいだろうと思いました。

参加者全員で、よい氣の交換ができ、わぁ~、指圧って凄いなぁ‥、面白いなぁって、無邪氣にお互いに言褒めできるような場。

一日で指圧のエッセンスを伝授します…とか、認定証を出しますとか、そういう講座にはしたくありませんでした。

氣と技術の研鑽をする場として、指圧道場はどうだろう?と思い、当初はそのネーミングで企画をしていましたが、なんとなく武骨で競い合うような厳しいイメージをもたれて、違う期待をされるかも・・という危惧があり、却下となりました。

結局、指圧私塾としてはじめるのは、非常に私的な試みであり、学校という公器ではできない、小規模だけれども、理念の通った志ある者の集まりとしたいという思いからです。

梅村先生は、名古屋でご自身でははのて指圧スクールを始めておられます。
梅村先生に指圧を習いたいと思われる方は、シンプルにそこに行かれればいいわけですから、わざわざ奈良で開催する意味が必要です。

それには、主催する私が何者かを明かさねばならない…という気持ちでこのnoteを始めたのでした。

指圧私塾をはじめる意味

幸いというべきか、当然というべきか、梅村先生のInstagramで告知していただくと、あっという間にフォロワーさんによって、枠は埋まってしまいました。

参加ご希望の方とやりとりをさせていただくと、梅村先生のご投稿に共感される方たちだけあって、とてもご丁寧な、お気遣い豊かな方ばかりで明日お目にかかるのが、本当に楽しみです。

明日は、どういうことを期待して皆様にお越しいただいたのか、どういう場を探していらっしゃるのか、ご希望を最大限お伺いしたいと思っています。

コロナを経て、オンラインスクールや自宅サロンでの個人レッスンなど、学びの場も多彩になりました。

それはとても豊かな有難いことです。

袖振り合うも他生の縁で、一日限り、数時間限りご一緒するだけでも、ご縁があったこと、とても嬉しく思います。

でも、この指圧私塾は、母校のような母港のような場にするという想いで立ち上げます。

公立でも私立でも、学校の先生には任期があります。卒業後、訪ねていっても、よほどの幸運がないと恩師といえるような先生が、いつでも温かく迎えてくれるということはないと思います。

でも、私塾ではそれができます。

指圧という切り口で学びあう場ではありますが、臨床上悩んでいること、経営上困っていること、人生で迷っていること、どんなことでも、未熟ながら、一緒に悩み、考え、伴走する。

一生をかけて、メンターとして寄り添う存在になりたいと思っています。

私が臨床心理学を学んでいたときには、カウンセラーになるには、教育分析とスーパービジョンが必要と言われていました。

自分自身がケースを担当するうえで、そのケースを俯瞰してくれる目と、自分自身の人生をさかのぼり、偏りやトラウマに気づかせてもらえる場が必須であると、私は解釈していました。

それは指圧師として臨床を重ねていく上で、全く同じであると思っていて、自分がどんな風に患者さんに施術しているか?独りよがりではないか?目の前で起こっていることの意味についてアドバイスがあれば、メンターとなって下さる先輩がいらっしゃればどんなにいいだろうと、よく思っていたものです。

同時に被術者となることで、患者さんが普段私の施術を受けてどんな思いでいらっしゃるかの疑似体験により学ぶことも多いと思っていました。

専門学校を卒業して、一応国家資格を持っていても、それはいきなり海に放り出されたみたいなもので、拠り所になるような仲間も先輩も場も、私はなかなか見出すことはできませんでした。

民間資格や無資格でセラピストをされている方は、その場限りではなく真面目にお客様のお役に立ちたいと思えば思うほど、もっと不安になるのではと思いました。

以前、スクールを始めようかと思ったときにお会いした方に、ディプロマ(認定証)が出るかどうかを問われたことがあります。

その方は、自宅サロンを開くことが夢で、その壁にディプロマをずらっと並べたいとのことでした。

彼女にとっては、それが自分の拠り所になるものだと思えるものなのでしょう。私はそのお約束ができず、当然、彼女は失望して去って行かれました。

良し悪しではなく、人はそれぞれの価値観を行動原則として生きていきます。目に見えるものに価値を感じる方に目に見えないものの価値を語ったところで、意味はありません。

指圧私塾は、目に見える価値をお示しすることはできないかもしれません。

その技術によって、集客が10倍になるわけでも、あっという間にリピーターが続出するわけでもないと思います。

梅村先生は、奇跡をおこす聖者ではありません。

地道に患者さんの心に寄り添い、痛みを我がことのようにわかちあい、温かい手掌をただあててくださる先生です。

きっとその氣に触れることで、指圧を受ける喜び、ご家族やお客様に自分が指圧をすることで喜んでもらえる喜び、そんな地味だけど滋味あふれる豊かな時間を過ごしていただけるようになると思います。

そんな指圧私塾になるための、明日は初めの第一歩です。

豊かな時間のご報告ができる日を楽しみになさっていてください。



最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。