![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/129031539/rectangle_large_type_2_0d0c6608df0775a75b3d3988e69c1e1b.png?width=1200)
指圧と身心一如
![](https://assets.st-note.com/img/1706416437714-edl5WypGYt.jpg?width=1200)
身心一如と心身一如
からだが先か、こころが先か
こころとからだということは、永らくわたしの興味の根源でした。
学生時代は、じぶんのこころのあり方や、ひとのこころの思うにまかせなさに振り回され、心理学に答えを求めながらも、結局はひとのこころはわからない、じぶんのこころもわからない…ということが、わかっただけでした。
30代になり、体調を崩し、関節リウマチとの闘病というべきか共存というべきかわからない時期には、こころだけではなく、からだも自分の思い通りにならないということを痛感していました。
こころとからだが一体であることは、概念としては理解していました。
でも、じぶんのからだを通して徹底的に体感としてわかるには、20年ぐらいを必要としました。
40歳を越えて、専門学校に入ったとき、わたしは東洋医学という新しい枠組みに出会いました。
東洋医学の中では、心身一如というワードが、西洋医学より身近に語られます。
そして私自身がなじんできた、臨床心理学の学問領域で語られていた「心身一如」より、からだが先の「身心一如」のほうが、ピタッとくる感じがします。
一般に「しんしんいちにょ」ということばには、こころが先の「心身一如」が先の方が多いように思います。
これを機会にちょっと調べてみると、もともと心身医学のなかでの重要な概念である「心身一如」は曹洞宗の開祖道元の「身心一如」に由来し、臨済宗の開祖栄西もその語をつかっているとおり、歴史的な経緯からいうと禅宗や仏教では身を重視した「身心一如」が使われてきたようです。
専門の詳しい考察はともかく、近代に入って、心身医学のような文脈で使われるようになったときに、心を重視し、心を先にした「心身一如」のほうが、現代人にはピタッとくる表現になったのではないでしょうか。
それで連想するのが、心療内科を標ぼうした病院での科です。
今はメジャーになり、大病院に行かなくても、精神科、心療内科と併記されているような、こころが大きく影響しているような症状を診てもらえるような医院も増えてきました。
心療内科と言えば…
池見酉次郎先生
心療内科の開祖といえる、九州大学名誉教授の池見酉次郎先生。
わたしが持っている本は、なんと昭和38年初版、昭和45年36版のものでした。ほとんど、古典といえる高著ですが、内容はまったく古びていません。
わたしはこの本に高校時代、高校の図書室で出会いました。
今思えば、幼いころから活字中毒といえるほど、本が好きだったわたしは、小学校や中学校の図書室にある本は、片っ端から全部読む!というほどの勢いで本を読んでいました。
でも、通っていた女子高は小規模のミッションスクールであり、図書室もこじんまりとしたもので、生意気ざかりの私には品のいいキリスト教系の蔵書に偏っているように思えて、高校の図書室は全然食い足りなく思っていました。
その中にあって、唯一の出会いがこの高著でした。
高校時代に出会った、スクールカウンセラーの先生への憧れが、心理学を学びたいと思うようになった動機となることは、何度か書きましたが、その気持ちを大きくアシストしてくれた本です。
池見酉次郎先生は、大正4年のお生まれで、平成11年にお亡くなりになっていて、私の尊敬する野口晴哉先生、増永静人先生とは、同時代を生きた方ですし、直接の言及は確認したことはありませんが、お互い影響を受けておられたのではないかと想像するのも楽しいことです。
そして、フォーカシングの池見陽先生の叔父様でもあります。
心理療法のひとつである、フォーカシングについては、また記事を改めて書きたいと思いますが、わたしが臨床心理学を再び学ぼうと模索していた30代のころは、フォーカシングやエサレン研究所を念頭において動いていました。
それを仕事にしようとしていたわけではなく、自分自身の身心一如のためにフォーカシングはとても有効な方法だと思っていて、日本精神技術研究所のセミナーに通学していたこともありました。
結局、臨床心理の道には進まず、指圧師となったので、直接、自律訓練法やフォーカシングを患者さんに指導したりしているわけではありませんが、わたしのなかでは、指圧の技法と、フォーカシングや自律訓練法はとてもなじみよく共存しています。
そして指圧師となり、今、後進のセラピストさんに伝えたいことがあるとすれば、テクニックとしての指圧ではなく、「身心一如」として表現される人間観に基づいた指圧だなあという気持ちが年々強くなってきました。
こころだけでもなく、からだだけでもない。
本来わかつことのできない、こころとからだですが、医学の中で高度に専門化されればされるほど、部分に意識が向かうのでしょう。
西洋医学においては、とくにそれは顕著で、頭痛と月経痛と動悸と耳鳴りに悩んでいれば、脳外科と婦人科と内科と循環器科と耳鼻科と…というように、症状の数だけ、それぞれ標ぼうされる科を受診しなければならないようになっています。
それを心療内科として、大きく診ようとされた池見先生の先見の明は素晴らしいですが、それが即「心身一如」の流れに一方向に流れてきたかというと、当然そんなことはないわけです。
指圧にできること
西洋医学が開拓してきた平野は広大で無辺のように思えます。
そして歴史的な蓄積において、東洋医学をはじめとする伝統医学の知恵もまた膨大です。
そんななかにあって、指圧という東洋医学の中に位置づけられる一技法ができることは、ほんのささやかなことのようにも思えます。
でありながら、また無限の可能性を秘めているようにも思います。
なんの検査機器ももたず、数値の確認もせず、ただ手掌をあて、感じ、触れ、圧する。
その行為の中に、主体としても客体としても無限の応答があります。
原始感覚。
身体感覚。
本能。
無意識。
知恵。
養生。
新しい知見を得るために外海に漕ぎ出すよりも、自分の本来持つ豊かさにそっと触れる内なる海への旅。
そんな旅人の燈火になるような場をならまちに創りたいということが、改めて掲げる新年の抱負です。
立春を前に、そろそろ動き出したくなってきた我が身の氣分です。
いいなと思ったら応援しよう!
![ならまち月燈/こころとからだをつなぐあかり](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106804523/profile_e637f39d5c5cad5eb782292bcd621186.jpg?width=600&crop=1:1,smart)