白い鏡

五畳半ほどの自室に置いてある本棚は、中学の卒業と同時に買ったものだ。


自分の本棚が欲しいと親にねだった次の日、用事が済んで帰宅すると自室に大小さまざまな白い板が積まれていた。邪魔だったので親に不平を垂れると、たった一言、「本棚。」と返された。自室に戻り、その『本棚』とやらを見る。僕の知っている本棚とは随分と様子が異なるようだ。どこに本を置けばいいのだろう。
「アレのどこが本棚なん?」と聞くと、今度は返事の代わりに金具を渡された。説明書は無かったが、そんなもの必要ないくらい単純な構造だった。出来上がった真っ白な本棚は、シンプルというより無骨といった感じで、僕はそれがとても気に入った。
その日から、『自分の好きな本だけで埋め尽くされた理想の本棚を作る』ということが読書の楽しみに追加された。


僕は友人や親と本の貸し借りをする。自分の好きな本を相手に教えるという行為は一種の自己開示だ。僕がよく使う言葉やモノの見方、もっと言えば性格なんかも、本に由来している部分が少なくない。
中学生の頃、本を貸した友人に「この主人公お前と似てるな」と言われた時、顔が熱くなったのを覚えている。「たまたまだろ。」と平静を装って答えたが、それが偶然ではないということは僕自身がよく分かっていた。
それ以降、人に本を貸したり借りたりするという行為に、一抹の不安や後ろめたさが付いて回る。しかしそうした感情も、今では読書を楽しむ上で欠くことのできないアクセントになっている。

自分の本棚を手に入れてから、中学生の頃に親や友人から借りた思い出深い本をここに並べたいと思うようになった。街の本屋を数件巡り、目当ての本を見つけると、隣に陳列された本に視線が移る。そうして、懐かしい本との再会と新しい本との出会いを繰り返し、真っ白だった僕の本棚は色彩を帯びていく。
大きさも色もバラバラに配置してある本の中には、まだ読んでいないモノが数冊潜んでいる。「次はどれを読もうか。」と思案を巡らせて高揚感を演出するのは本屋の特権のようなものだったが、それが自室でも可能になったのは僕にとってこれ以上ない収穫だった。

そんな風に本を買い足していくと、ある時に限界が来てしまった。
新しい本棚を買おうと思い、通販サイトや家具屋を覗いてみたが、結局購入は見送ることにした。広くはない自室と多くはない貯金が、二重に圧迫されるのを恐れたからである。それに、本棚には不要な本が数多く眠っていた。それ以降、僕は整理整頓の意を込めて本を売ることを覚えた。
本を売るにあたって、『面白かった本』ではなく、『たまに読み返したくなる本』だけを手元に残すようにした。前者の場合、整頓の意を成さないからだ。そんな風に選別していくと、手元に残った本は半分以下になった。
随分とスッキリとした僕の本棚は不思議と、以前よりも強く僕の色を反映しているように感じた。


この本棚は、僕の流行や状況を切り取る鏡だ。高校1年生の時はO・ヘンリやカポーティをはじめとする短編小説、2年生の時はサリンジャーやフィッツジェラルド、ケルアックなど、海外の著名な作家の長編小説に関心を寄せていた。3年になり、受験勉強に追われ始めると、本棚には退屈な参考書が並んだ。しかしその陰では、勉強の圧力から逃れるための短編小説や詩集が息を潜めていた。
大学生になり、学問に興が乗ってくると学術書が並び始めた。それに対抗するように小説や詩集も増え続けている。最近はエッセイが目立ってきた。高校生の時には見受けられなかった傾向だ。
僕の本棚の代謝は日に日に悪くなっていく。今では、1段目に配置されている本はもう殆ど変わらない。
僕は一生かけてこの『理想の本棚』を完成させるつもりだ。4段ある内の1段を既に消費してしまっている事に若干の不安を覚えるが、『人は年齢と共に感情が鈍重になっていく』と聞く。それなら安心だ。
医療の発達等を鑑みると、残りの人生は80年ほどだろうか。ゆっくりとこの本棚と共に老いていこうと思う。

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