トモダチごっこ
僕は俗にいう『ボッチ』であった。
そのおかげで、大学生活は僕にとってとても穏やかで有意義なモノだった。散歩に出かけるような心持ちで大学に向かい、講義を受けた。何かに急き立てられることもなく、何かに苛立つこともなく、何かに興奮するわけでもない。そんな良くも悪くも平坦で、次々と湧いてくる雑念を押し込める必要の無い日常は僕が望んだものであった。
ただ、そんな平穏な生活でも執着やら拘泥やら熱狂の類が完全に消え失せることは無かった。僕は大学生活の中で不意に湧き出てくるそれらの『若者らしい激情』を、心から歓迎した。穏やかで平坦だが退屈しない僕の大学生活は、そうして成り立っていた。
稀に訪れる、感情が揺れ動いた日。そんな若者らしいエピソードを、ひとつ紹介しよう。
僕の通っている大学の近辺には、飲食店が数多く並んでいた。ハンバーグ、ステーキ、ラーメン、うどん、牛丼……あの有名な、黄と赤を基調とした史上最強ファーストフード店もある。
中でも、僕には贔屓にしているパン屋があった。その店の売りは牛肉入りのカレーパンで、僕も牛肉の圧倒的な存在感に魅了された者の内の一人だ。しかし、僕がこの店を贔屓にする理由は他にもあった。
このパン屋には、こじんまりとしたテラス席が設けられており、ここでパンを食べていると落ちたパンくずを求めて小鳥が集まってくるのだ。僕はそんな彼らと交わす密やかな対話を楽しみにしていたのである。
こんな純粋な大学生は、僕の他に居ないと思う。
『こんなに惨めな大学生も滅多に居ないと思うけどな。』
そんな風に、意地悪い自意識に嘲笑われながらも僕は毎週パン屋に通っていた。
僕はこの小さな友人たちを手懐けようと画策していた。
パブロフの犬に証明されるような学習理論に則って、僕が手を叩くと近寄って来るように調教していたのだ。手を叩いてから、パンくずを与える。それを毎度繰り返していた。
『友達が居なさ過ぎて気が狂ったか?お前。変だしキモイぞ。』
そんな自意識の訴えが、冷静さを取り戻すことを目的としたものなのか、特に意味の無い、ただの自己否定精神なのかは自分でもよく分からない。しかし、少なくともこの時においては前者としての機能が果たされることは無かった。
パン屋に向かう道すがら、手を叩いて小鳥を呼び寄せる孤独な青年を思い浮かべる。その光景は僕が少年時代に憧れていた映画や小説の世界によく似ていた。
学校に通って、勉強をし、一歩ずつ大人に近づいてゆく中で『将来』とか『常識』とか『現実』といった、クソつまらない言葉達によって否定されてきた僕の空想の世界は、この慎ましい生活の中でほんの少しずつだが色彩を取り戻しつつあった。
僕はこうした営みを、可能性や夢という大仰な言葉で括り、祀り上げるほど子供では無かったが、だからといってスッパリ諦め去ることができるほど大人でも無かった。
たとえ自身の大学生活の中に、友情や恋愛といった『青春らしい単語』の気配が全く無かったとしても構わないと思うほどに、僕はこの空想の実現に熱中していた。
しかし、空想の世界が輝いて見えるのは、それらが現実では実現不可能なモノであるからだろう。あえて言葉にする必要も無いほど分かりきった事であるが、この時の僕は愚かにもそんな簡単な道理を理解していなかった。だから、後に悲劇が待ち受けていることなど少しも予想していなかった。
その日も、僕はいつも通りパン屋に向かった。鳥たちとの距離が徐々に近づいてきているという確かな実感に動機づけられて、パン屋に通う頻度は日に日に増していた。ミイラ取りがミイラになるみたいな話だ。これが商業戦略というやつだろうか。
僕が席に着くと、すぐに小鳥たちが寄ってきた。僕はまだ手を叩いていないのに。きっと、僕以外の人間が甘やかしているのだ。僕は近づいてきた彼らに何らかの報酬を与えることはしなかった。『エサ与える』という点ではなく、『手を叩く』という行為に価値を持たせるには、『手を叩いてからエサを与える。』という手順を絶対に乱してはならないのだ。
痛む心に蓋をするかのように僕はパンを口の中へ放り込んだ。
小鳥が僕から離れていったら手を叩こうと決めていた。それまではお互い耐える時間だ。優雅な午後のひとときには似つかわしくない、緊張した空気が流れていた。
その空気を壊したのは、僕でも小鳥でもなく、穏やかそうな老夫婦だった。その老夫婦は僕から少し離れた席に着くと、買ったパンを己の口に運ぶよりも先に小鳥たちに振舞った。
僕は愕然とした。さっきまで僕の足元で右往左往していた純真無垢な友人達は、一瞬で僕の元から去っていった。
『格付け完了!!』
僕の頭の中で、そんな声が聞こえた。
僕は慌てて手を叩いた。しかし、鳥たちは一羽たりとも寄ってこなかった。代わりに老夫婦が僕の方を見た。奇怪な存在に対する警戒心のようなものを覗かせるその視線に耐えきれなくなった僕は、足早にその場を後にした。
大学へ戻る道中。背後から聞こえる様々な雑音の中から、あの薄情な畜生共の鳴き声を探してしまっている自分に気が付いた。
『見苦しいな。』
この時ばかりは、この天邪鬼な自意識とも意見があったものだ。
別に、あの老夫婦が悪いわけでは無いし、小鳥たちが憎いわけでもない。ただ僕は己の中に渦巻き、次第に大きさを増してゆく自嘲の念を抑え込むのに必死だった。だから僕は好きな音楽を聴いて、現実逃避と洒落込んだ。
耳に詰めた安物のイヤホンから、好きなロックバンドの曲が流れてくる。嫌な気持になった時、無理やり元気づけてくるような流行りの音楽よりも、自己嫌悪をむやみに否定せず、寄り添ってくれる曲が好きだ。
昨日まで選ばれなかった僕等でも明日を待っている。(the pillowsのハイブリッドレインボウという曲)
僕は選ばれなかった側の人間だ。きっと僕は一生、この劣等感と共に生きてゆくのだ。そんな哀しい予感を胸に抱きながら僕は帰路についた。
先週、久しぶりに件のパン屋に行った。コロナの影響で、暫く大学方面に足を向けていなかったこともあり、あの忌まわしい記憶は随分と薄れ、僕の心境も幾分か穏やかなものになっていた。
今更、僕があの地に現れたところで小鳥たちは寄ってこないだろう。しかし、それでよかった。彼等が強く生きていることが確認できれば、それで満足だ。
『健気だなぁ。米津のlemonみてぇだ。』
僕の自意識は、時折とても面白くない冗談を言う。
テラス席には、誰も座っていなかった。僕はついさっき買ったパンを携えて、あの日と同じ席に腰かけた。そこで初めて机上に見慣れない貼紙がされていることに気が付いた。
『動物にパンを与えないで下さい!』
僕は思わず二度見した。そして、こんな時に限って小鳥たちは僕の元へと寄ってきた。
「わたしたち、もう何か月もロクに食べ物にありつけていないんです!」とでも言っているかのようだった。やめてくれ。そんな純粋な瞳で僕を見ないでくれ……。僕は痛む心を必死に誤魔化して、パンを齧った。
僕は不意に、昔の日本で、鳥以外の動物を食すことを禁じられていた時代に、ウサギを「羽」と数えることで苦難を乗り越えた農民の話を思い出した。
『友人のことを動物と呼ぶ人は居ないよな。』
その日買ったパンは焼きたてで、パンくずがボロボロと落ちてしまった。
『手叩いてみようぜ!!』
やはり鳥たちは寄ってこなかった。