未言源宗 『一夜月』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。
 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。
 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。
 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。
 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
 
・・・・・・
 
 青々とした山に四方を囲まれた盆地は、太陽から注ぐ熱を溜め込むために、酷く暑いものです。
 アスファルトに固められた地面は呼吸も出来ずに陽炎を焚き、そこから逃れるように彼女は店の奥、入り口から射す日向の届かない畳の上で座っていました。
 彼女の前には、座卓がひとつ。様々な色の紐が幾つも並べられ、その幾つかが花柄や梵天手鞠に結われています。
 今も桔梗柄の浴衣から伸びたたおやかな手が、丁寧に、けれど素早く精細に、銀鼠と藍白の紐を二本ずつ編み、先端で硝子玉を石包みしていきまして。
 きゅっ、と石包みを結び締めて、彼女は前に垂れた揉み上げを耳に掛けて後ろに流し、ついでに額に浮いた玉の汗を拭いました。
 この冷房もまともになく、掃き出しの窓と玄関を開け放って太陽に熱せられた外気で涼を取るしかない店は『未言屋 ゆかり』と看板を掲げておりまして。
 この店を取り仕切る彼女は、その名を紫月ゆづきと申します。
「っ?」
 ふと、紫月は声にもならない音を喉で鳴らし、感じたものを追って視線を窓の方へ向けました。それは目に見えるものでもないのに、まず目を向けてしまうのは、視覚に五感のほとんどを費やしたヒトの性でしょうか。
 されど。目を向けることで見えないものが見える、という訳ではないですが、他の五感も視線と共に意識を向けることで鋭くなります。
「雨、降りそうね」
 紫月はその鼻で湿気の香りを嗅ぎ取り、肌で空気の潤みを感じました。
 腰を上げて窓へ寄り、空を見上げれば。
 入道雲が膨らみきって、太陽を隠します。目映い白の塊は山を越えて伸び、雲の根は何処とも知れません。
 もう間もなく、一時間もしない内に夕立は降るでしょう。
 紫月は、カラカラと窓を網戸の縁まで閉めて、玄関も雨が吹き込まないように閉めようと突っ掛けに足を差し込みます。
 玄関の硝子戸を閉めようと足を向けて、外を見ると。
 アスファルトに黒い点が幾つか落ちています。
「もう降りだしてるや」
 最近は、天気が崩れるのが随分と早いと、紫月は憂いを顔に浮かべます。温暖化の対処に否やが飛ぶ馬鹿らしさに溜め息も出るというものです。
 考えても益のないことはさて置いて、紫月は雨がどれ程降るのか見当を付けようと、玄関から顔を出して雲を見上げまして。
「あれ、お店の人いた」
 そんな驚きの声が横から掛けられて、紫月はそちらに顔を向けました。
 そこにいたのは、リュックサックを背負った見知らぬ女性でして。年の頃は、高校か大学か、肌に張りがあって羨ましいです。Tシャツにジーパンとラフな格好で、ショートカットの黒髪と相俟って快活な印象を受けます。
「あら、まぁ……」
 口振りからして、お客さんらしいと気付いて、紫月は愛想笑いを浮かべました。人は間違いをすると、つい笑ってしまうものです。
 さて、どうしようかと、紫月は頭を悩ませていると。
 ぽつぽつぽつ、と。堰を切ったようにどしゃ降りが始まりました。
 紫月と彼女と。二人して空を呆然と見上げます。
「雨宿りくらいしていきますか?」
「お願いします」
 夕立が切っ掛けとなって、紫月は待ち惚けにさせてしまったお客さんを招き入れることが出来たのです。
「お店の名前が珍しくて覗いてみたんですけど、だれも見当たらなくてどうしようかと思っていたんですよね」
 お客さんはからからと笑って言いますが、紫月は居たたまれなくなるばかり。
 暑くて奥に引っ込んでいたなんて言える訳もなく、お客さんが店内を見回すのに任せて、せめてとお茶を淹れてきます。
「よろしければどうぞ」
 紫月がお茶を差し出しますと、お客さんは、はにかんで「ありがとうございます」と受けとります。
 ありふれた煎茶ですが、それが却って飲みやすく、ほっと落ち着きます。
「ご旅行ですか?」
 紫月は、取り合えず当たり障りのない話題を持ち掛けました。この辺りに住んで長い紫月ですから、一通りの住人は顔見知りでなくとも雰囲気で判りますし、帰省するような若者はそれこそ顔見知りばかりです。記憶の方から当ては来ませんでした。
 それにラフであっても服装にお洒落を感じますし、十中八九、目の前の女性は都会から来たのでしょう。
「ええ。大学の夏休みを使って、一人旅です」
 どことなく嬉しそうにお客さんは返してくれました。
 きっと、始めて自分一人で旅するのに興奮してしまい、その気持ちの昂りを誰かに話したかった、それなのに田舎で誰にも擦れ違わずに気持ちばかりが燻ってついつい胸に熱が籠っていたのでしょうか。
 紫月は、そんな若さを羨ましく、そして微笑ましく思いながら、旅の思い出の登場人物になろうかと思いました。
「こんな田舎、見る場所もないのではないですか?」
 自嘲でもなく、単なる事実、もしくは客観的評価を告げつつ、紫月は田舎に来た旅の感想を誘います。
 いや、実際、知ってる人は見るところは多いのですよ。新撰組の部隊長の墓や他の地域にない食べ物、山歩きが好きな人は多くの木々に目移りするでしょうし、かつての領主の墓所にはどう見ても特撮映画の怪獣にしか見えない亀石というものもあるのです。そのどれもが、知らないといけないくらいひっそりと日常に紛れ込んでいるだけで。
「退屈ではないですよ。私、田舎って好きなんです。その空気っていうか、雰囲気が」
 そんな風に言ってもらえたら、社交辞令でも嬉しくなるものです。それに、自然な笑顔を浮かべるこの方は、心底そう思ってくれているので、なおさら紫月は心が暖まりました。
「田舎は、のんびりしたところとか、日常が地に足着いてるところとか、素敵ですよね。私は、将来ルポライターになりたいんですけど、そんな田舎の魅力を伝えていきたいです」
 ルポライター志望と聞いて、紫月は彼女の好奇心に得心します。スローライフが雑誌面を埋めるようになってから久しくなりましたし、そこまで突飛な思考でもないとも思いました。
 ずず、と紫月がお茶を啜ります。雨は温く、地熱が湿気で肌に纏わり付くのに、温かいお茶では汗ばんでしまいます。つい、いつも近所のおばちゃん達が上がった時と同じように出してしまいましたが、失敗でした。
 お客さんの方は、もう湯呑みを空にしていて、二杯目は急須から出すか、少し待ってもらってでも奥から冷えた麦茶を出すか、悩ましいところです。
「ここは雑貨屋ですか?」
 飾り紐、硝子細工、写真、サイダー、コースターなどが並んだ店内をきょろきょろと見回しながら、お客さんがそんな疑問を口にしました。
 それに紫月はお茶に彷徨っていた思考を一旦は中断させます。
「そういうジャンルでいうなら、ここはクリエイターズショップですね。本質としては、未言の具現を扱っております」
「ミコトのグゲン?」
 お客さんは聞き慣れない言葉に上手く漢字を当てられなかったようで、片言で鸚鵡返ししされます。
 まぁ、始めて聞いた人は大抵似た反応をしますから、紫月も慌てずに鷹揚に頷き返します。
「未言とは、いまことばにあらず、と読み下します」
「未だ、言葉にあらず……」
 お客さんは反芻するように、紫月の言葉を繰り返しました。
 まだ言葉でない。解るような、解らないような言葉です。
「未言を産み出した人は、こんな説明を付けています。『まだ世界に定着していないお手製の造語。いつか、たくさんの人に使ってもらえる言葉となりますように』」
「世界に定着していない造語、ですか?」
 外の雨はさらに激しく、蛇がのたうつような音を途切れることなく撒き散らしており、その音の隙間を縫うように紫月は言葉を紡ぎ、お客さんはその声を漏らさないために耳を一心に傾けます。
 外更に暑くなって、じわりと汗が雨の代弁として肌に服の生地を張り付けてきます。
 話が一段落したら、やはり冷えた麦茶を出そう、いや、レジ横の冷蔵器で冷えた硝子水を取り出してしまおうと、紫月は密かに決定しました。
「日本語は、造語を作りやすい言語です。しかし、初代の未言屋店主は、小説の設定としての奇想でも、外国書籍の翻訳としての変換でも、流行に浮き出した謳い文句でもなく。現実の中でそれまで目を向けられなかった幻想を表現したのです」
 先に何もない思考の中でだけ捏ねられた言葉でもなく。
 ただ他言語とのラグを埋めるだけの言葉でもなく。
 後のない流行りに乗ってそのまま忘れられていく言葉でもなく。
「現実にあっても目を向けられなかったもの……例えば、一時の伝統工芸みたいに?」
 お客さんの中で、何か嵌まるものがあったようで、その具体な置き換えはしっかりとした声音で発せられました。
 今度は紫月が伝統工芸のかつての扱いと未言に成り得る物事との類似を思案します。
 ほんの数瞬、そして雨花が幾百幾千と咲き散る、それだけの時間で紫月は思考を纏めました。
「伝統工芸は、それを継ぐ人がいました。それだけは幸運だったのだと思います」
 紫月はその発言を、未言に成り得る物事と伝統工芸の扱いとに共通するものがあると判断した上で、しかしその強弱を以て区別して述べました。
 瞳を軽く閉じて、一念の哀悼と誓願を捧げて、言葉を継ぎます。
「日本語は最早完成していると、考えるまでもなく扱っていた日本人は、言葉を造ることはあっても産み出すことはほとんどなかったのですから」
 例えば、国語の時間に添削されたように。
 例えば、言葉遣いを親に矯正されたように。
 例えば、詩詞や独自の表現として隔離されたように。
 言葉の新しい組み合わせはまだ評価されることがあったものの、創造された言葉はまた再び使われることを拒絶されて否定されてきました。まるで御神体を隠し、その真贋を弁えずに崇め奉るかのように。
 お客さんが眉を顰めるのは、紫月の説明が理解出来ずに頭が痛んだのか、それとも思い当たる節があって心が悼んだのか、どちらだったのでしょう。
 とにもかくにも。
 余り一辺に話し続けるのも、はしたないと紫月は判断して立ち上がり、玄関を開け放ちます。その途端に雨が止んで気化熱で冷やされた風が吹き込み、紫月の髪を揺らしました。
 それから戻りがけに冷蔵器を開けて透明の炭酸で満たされた硝子瓶を二本取り出します。レジに小銭を放り込んでから、栓抜きで王冠を外し、一本をお客さんに渡します。
「いいんですか?」
「いーよ、いーよ。暑いでしょ?」
 戸惑うお客さんを尻目に、紫月はぐびぐびと硝子水をあおります。そのまま一息に飲み切って、ぷは、と息を吐きました。
 それから紫月は帯の根付けに人指し指を引っ掻けて抜き取ります。その根付けは、帯に隠れていた方が懐中時計になっていまして、その針を覗きます。
「折角ですから、未言を一つ、見て行かれますか? 抽象的な話では、感覚は掴めないでしょうし」
 紫月がそう提案するのは、未言の内でも稀にしか目に出来ない未言が、この後現れると判断したからです。
 お客さんは、今一つ分かってない顔をしていて、中身に口を付けてない硝子瓶を両手で包んだまま悩んでおられます。
 自然、その硝子瓶に浮かんだ不思議な模様を指でなぞりながら。人は思考が彷徨うと、手持ち無沙汰な手が勝手に動くものなのです。
「お願いします」
 お客さんが意を決して頷き、硝子瓶を傾けました。
 さて。紫月がお客さんに見せようと思った未言が出るには、まだ時間を待たねばなりません。そうして待つ間に、もう一つの未言の欠片がなくなるかもしれなくて、にこやかに他愛ない会話で時間を稼ぐ紫月は、内心はらはらとしていました。
 とは言え、あれだけのどしゃ降りが来て、すぐに太陽は山陰に暮れ炉だけ残して隠れなさったのです。
 それから暮れ炉も燃え尽き燻りも果てて、とっぷりと宵が辺りを覆いました。
「では、探しにいきましょうか」
 話を切り上げて、紫月は用意していた巾着から店の鍵を取り出します。今日はこのまま店仕舞いとするのです。
「探しに?」
 お客さんは、それまでの会話で、紫月が見せたい未言と言うのが時間が経たないと見られないのは理解していましたが、探さなければならないというのは聞いてませんでした。もしかして、見付かりにくくて探すのに時間が掛かるのかも、と覚悟を改めます。
 マイペースに考え事をして視線を上へ向けながら下駄を突っ掛けた紫月は、そんなお客さんの様子に気付かずにいます。
 紫月は、未言の現れる場所の当たりを付けていて、何処から回るのがいいかと思案していて、そんなお客さんの懸念など思いも寄っていないのです。
 からんころん、と紫月が下駄を鳴らして。ぎゅっ、ぎゅっ、とお客さんのスニーカーが続きます。
 アスファルトはいい感じに湿っていて、道端の土は踏めば泥水を吐きそうです。
 紫月はお客さんを連れて、砂利の小道に入り、畑と雑木林がひしめく中へ入っていきます。
「え、これ、入っていいんですか?」
「いーの、いーの。畑じゃないとこ歩けば」
 気軽に言う紫月は、時折砂利を下駄で転がして遊んだりしています。
 空には弓の弛んだ上弦の月が見上げる位置まで昇っていて、そこから紫月は行く当てを定めました。
 着いたそこは、木々が一本もなく開けたところでした。農作業をする人がよく車を停めるのに使っていて、地面もタイヤで均されて草も少ないです。
 お客さんは砂利道からその開けた空を見上げていました。ずっと木々に隠されていて、暗闇に程好く馴れた目は、その夜空に散らばる光の粒をはっきりと捉えていました。
 澄んだ空気は、星の光を絡めることはなくて。日が落ちて然程時間が経っていなくても、既に数えきれないだけの星と、煌々と光を射す月と、天の川の端とが、そこにありました。
 お客さんは、都会ではとても見られない光景に息を呑みます。かつて、星に神話を準えた人々が見出だした神秘性を実感して。
「さて。あれが未言の一つ、『一夜月ひとよつき』です」
 しかして。紫月が指差したのは、空ではなく地面の方でした。
 すっかり星空に浮かぶ宝石に気を取られていたお客さんは、訝しく思いながら、紫月の指先を辿ります。
 まず、意識に入ったのは、水溜まりです。均された土は凹凸が少なく、あのどしゃ降りが大きな水溜まりとして横たわっていました。
 風もなく、水溜まりは鏡のように夜闇を映し、しかしほとんどの星は光が足りずに見当たりません。ただ一つの天体を除いて。
 曇ることのない水鏡に移るのは、半月にまだ足りない上弦の月。矢を放った後の弛みみたいに、どこかリラックスした雰囲気をしております。
 そしてその月が水溜まりにその姿をそのまま映し、そして水が光を吸って、水溜まりの端へ向けて光の筋を幾本か伸ばしています。
 紫月が、左手の中指で水溜まりを叩きます。すると揺れた水面は光を波打たせ、やがてまた静まり返ります。
「一夜月?」
 聞き返すお客さんに、紫月は頷いて、その未言であっていることを伝えます。
「ええ。水溜まりに映った月のことです」
 紫月の述べたあっさりとした語意に、お客さんは肩透かしを食らったような
けれど妙に心が疼くような、なんとも言い切れない感情に晒されます。
 紫月は、くすりと微笑みまして。さらに『一夜月』という未言が湧く源へと誘います。
「月が映るなら、明日は晴れる。問うまでもない当たり前の未来です。しかして、晴れた明日にはこの水溜まりは消え失せるでしょう」
 お客さんは、はっとしました。この場所に、水溜まりが出来るのはまた幾らでもあるでしょう。しかし、先程のどしゃ降りの水溜まりは、これで終わり、明日には消える。次の水溜まりは、次の雨の遺した名残。
 在り来たりな光景を、その時だけの奇跡と捉える感性を持った人が産み出した、その未言が、一夜月。
「平安の頃、月を観るのは、池に映った月を観ていたそうです。舟を浮かべて揺らぐ月の風情を楽しんだとか。けれど、それは人の手で造った結果ありきの風情です」
 古来より自然を楽しみ、自然を愛でるのが日本人の精神性と言えるでしょう。自然をより美しく感じるために拵えた演出が人の心を惹くのと同様に。ただ自然に、自然の美しさが引き立てられた偶然の刹那に感じ入るのも、和の心です。
 たまたま降った雨が、たまたま水溜まりと残り、たまたま月が間に合った。
 偶々、というのは、言い換えれば不思議ということ。
 それが、すぐ明日には失われる無常を思わせたら、その儚さに情を抱くのが、日本人のわびさひというものなのです。
「ただ一夜限りのかなしみを」
 古来から培ってきた日本人の感性のままに、その身で触れるような近しい物事を、想いを尽くして言を当てる、それが未言。
 それは、とても懐かしく、愛しく、恋しいものに、お客さんは思いました。
「あの」
「はい?」
 お客さんが紫月を呼び、紫月がお客さんに応えます。
「私、未言、を、もっと知りたいです」
 初めて恋した少女のように、お客さんは声を溢します。
「未言を、誰かに知ってほしいです」
 この気持ちを懐く人を増やしたい。伝えることを望むその命の在り方に、この女性はルポライターという仕事への直向きさを紫月は感じ入りました。
 だから、いつものように。紫月はこう返事をします。
「ええ。それを未言を産んだ人は望んでいました。そして、誰もが自分の気持ちを自分らしく、一番相応しいと感じた自分の言葉で話すことも」
 未言には、もう一つの意味があるのです。
 胸の奥に秘められた誰にも、時には自分にすら気づかれない想いたち。言葉になって伝えられるときを待っているのかもしれません。
 一晩で消える水溜まりに映った月は、二度とは同じものにはならなくても、そこにある。
 そんな一夜月みたいな、気のせいに思ってしまいそうな想いも、かなしんでほしいと。
 未言屋宗主は想うのです。

未言源宗 『一夜月』 完

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