【オトナになることのうた】山下達郎 その1●『僕の中の少年』、それは少年性との別れ
お米が相変わらず高いですね。これは裏に何かあるな。あまりに高いと、米離れが進むのではと。
うちは先日たまたま特売中の新米が買えて良かったけど。どなたも苦労されていることと思います。
最近は、みんながやたらと使いたがる「~だけ」と「~かな」という言い方について思いをはせることが多い青木です。どっちも好きくない(←古い)。
阪神タイガースはクライマックスシリーズで早々に敗退し、来年は球児監督で再スタートです。岡田監督はどちらかというと好きな指揮官ですが、次のシーズンも今年のやり方でやってたらチームが完全に後退してしまうので、これで良かったとも思います。
実は内心、去年は日本シリーズで負けて美酒がお預けになってたら、選手たちが「こんなんじゃいかん」と奮起して、本当の黄金時代(by近本選手)が到来した気がするのですが……あくまで主観ですけど。ここは飲み屋かよ。
そんなわけで、クライマックスシリーズに向けてスポーツバーの座席や東京ドームのチケットを押さえていたのは、すべてフイになってしまいました(泣)。
えーと、僕が行ったGLAYのニューアルバムについてのインタビュー、そのJIRO編も公開されています。昨年夏、どこにこもっとったんや~。
この前の休日には、TOKYO ISLANDというイベントに家族で行きました。湾岸地帯だったので、飛行機が頭上を何度も通過。妻子も大喜びでした。菊池桃子を目撃。王林も。
それから1Dのリアム・ペイン、それに西田敏行の訃報には悲しい思いを抱いています。
どうか安らかに。
さて。
今回からは、山下達郎について書きます。
自分が大人になっていくことを唄った達郎
山下達郎。以下、敬意を込めて、「達郎」とする。学生時代からこう呼んでいたので。
達郎は、僕がこの【オトナになることのうた】というテーマを考える際に、実はかなり早い段階から頭に浮かんでいたアーティストである。
とはいえ、僕自身はそこまで達郎の音楽に傾倒してきた人間ではない。これまでの作品の何作かには親しんだが、それも飛び飛びのような状況で(その時々の自分の好みもある)、仕事で彼の音楽について書いた記憶もあまりない(後述するフェスのレポートくらいである)。
ただ、達郎のステージは、過去に3度ほど観ている。
最初は1986年7月23日、島根県民会館。その頃の僕は大阪の大学生だったが、地元である島根の友人が達郎のコンサートに行かないかと声をかけてくれて、それに合わせて帰省したのだ。おかげで1階の、かなり前方の席で達郎の歌に浸った。
当時すでに彼はビッグ・アーティストで、あの達郎がこうして地方を細かく廻っているのに感激したこと、そしてハイクオリティで完璧なパフォーマンスに驚いたことを記憶している。
当時の達郎はもう結婚していて、MCで「島根は、妻の(竹内)まりやの故郷ですからね」と言った時には、場内に拍手が起こった。それからギタリストが椎名和夫で、彼の演奏を見ながら「この人はムーンライダーズにいた人なんだな」と思った記憶がある。このギターはたしかにそののちのライダースの方向性とは異なるよな、とも。
この次に達郎を見たのは、長いインターバルがあって、2010年8月14日。場はRISING SUN ROCK FESTIVALだった。真夏の北海道の大地で、24年ぶりに生の達郎の声を聴いたのだ。あれは本当に気持ちのいい時間だった。
そして3回目は一昨年の秋、2022年10月13日、神奈川県民ホールにて(12年ぶり)。最新アルバム『SOFTLY』のツアーだった。それまで何度も達郎のコンサートのチケット購入には抽選で落ちていたのが、ようやく当たったのだ。この日は早めに会場に行った。達郎のコンサート会場でCDを購入するとサインが付いてくるというので、それを目当てに。
なので、大きな顔ができるほど、彼を観ているわけではない。
そしてこの中で当【オトナになることのうた】の内容に大きな影響を与えているのは、2回目の、2010年のライジングサンでのパフォーマンスである。
この時は僕自身、2度目の達郎の生体験であり、しかもコーラスのひとりに竹内まりやもいるというスペシャルな編成だった。
ステージは、1曲目が「SPARKLE」……そう、達郎のオープニングの十八番で、この曲に引き付けられながら、以降、やはり文句のつけようのない歌と演奏を楽しんだ。ほとんどの観客がロック・バンドを目当てに訪れるフェスの会場で、達郎はそのオーディエンスをどんどん巻き込んでいったのだ。
後半には「Ride On Time」や「LOVELAND,ISLAND」といったビッグ・ヒットが投下されて、北の夏の太陽の下でのライヴは、まったくもって最上級の思い出になった。
仕事で行った現場ではあったが、僕はこのライヴを大いに楽しんだ。そんな中、ひとつの事実に気付き、ハッ!とした。
セットがクライマックスに近づく中で演奏された、「アトムの子」。この歌には<どんなに大人になっても/僕等はアトムの子供さ>というフレーズがある。
すっかり大人に見える山下達郎が唄う、大人になっても、(まだ)子供さ、という言葉にちょっとビックリした。いや、この曲自体はリリース当時から知っていたが、その歌詞を当人の生の歌声でダイレクトに耳にし、そこにこうした一節があったことにあらためて驚いたのだ。
そして、もう1曲。最後に唄われた「さよなら夏の日」の<僕等は大人になっていくよ>という部分。
当然この歌も知っていたが、情感が色濃く漂っていくサビの最後の部分でのこの言葉には、心に染み入るものがあった。
そんなわけで2010年のライジングサンでの達郎のステージは、僕には「このアーティストは大人になることを歌にしたシンガーなんだな」という印象を残してくれた。
あの日の記憶は、しばらくの間、自分の中に残っていた。盛夏に浸った、高揚感と爽やかさに満ちたサウンド。最高の歌と、最高の演奏。
そして大人になることを唄っていた達郎の曲たち。
それを何かのきっかけで思い出し、反芻していた時。ふと、大事なことを思い出した。
山下達郎に、『僕の中の少年』という作品があったことを。
さようなら もう二度と 振り返る事はない
『僕の中の少年』は、山下達郎が1989年にリリースしたアルバムである。
僕自身このアルバムはリアルタイムで買って聴いていたので、心のどこかに残っている作品だった。
本作からのヒットシングルとしては「ゲット・バック・イン・ラブ」、それに「踊ろよ、フィッシュ」。あとは「寒い夏」という楽曲が印象深い。
本アルバムの楽曲のテーマは、少年性との訣別である。このことについては、発表当時から現在に至るまで、達郎自身がたびたび語っている。
たとえば以下に紹介するのは雑誌『Player』のインタビューだ。と言っても、これは熱心なファンの方によるページで、僕自身が誌面を確認したわけではないことをお断りしておく。
この『Player』誌は『僕の中の少年』発表からちょっとだけ経った1989年1月号で、つまり1988年末の発売の号に掲載されている。当記事自体、ページを作った方が誌面から抜粋して書き出しているものなので、そのつもりで目を通していただきたい。
アルバム『僕の中の少年』について。主に、タイトル曲について話している箇所だ。
* * 新作「僕の中の少年」というタイトルですが、邦題のアルバムは初めてですよね?
ええ、そうです。14作目にあたるわけですが、日本語のタイトルは初めてです。以前からやってはみたかったんですけど、なかなかよいタイトルがなくてね。
「僕の中の少年」という曲ができて、これなら、フォークっぽくもないし、タイトルにピッタリだと思ったんです。その時からジャケットにもあるんですが、“自転車”をイメージしました。
* * タイトル曲は“少年性”との決別がテーマとなっているようですが、何かきっかけがあったのですか?
僕はオヤジによく「人間、結婚して半人前、子供を生んで一人前」と言われてましてね。
2年くらい前に、娘が生まれた時にその曲を書いたんです。人間生きていくうえではキレイごとばかりじゃ通らない時もあるわけで、ダーティ・ワークも覚えなきゃならない。 そういう意味でも少年じゃないと思ったわけです。
“少年性” は僕より自分の子供の目の中にあった、ということを歌ったものなんです。言ってみれば、少年性に対する決別と、それの継承がテーマです。
この話によれば、楽曲「僕の中の少年」が書かれたのは1986年頃ということになる(実際この楽曲にはまさに1986年に登録されたというクレジットがある)。
山下達郎は、1953年の2月生まれ。また、この『僕の中の少年』をリリースしたのは1988年10月のことなので、当時は35歳だった。
現代であればこのぐらいの年齢はそこまでベテランというほどではなく、まだ中堅と呼ばれてもいいくらいである。しかし80年代当時は今ほど年長の世代のミュージシャンたちの層が厚くはなく、若いほうに集まっていた。そんな中で30代半ばで、初期に在籍したバンドのシュガー・ベイブはとっくに伝説化しており、しかもソロでのヒット曲もかなり出して一時代を築いていた達郎には、すでに大ベテランのようなイメージさえあった。
そんな時期……80年代半ばから後半にかけての達郎が、子供の誕生をきっかけに自分自身を見つめ直したことは、非常に興味深い。さらには自身の父親に「人間、結婚して半人前、子供を生んで一人前」と、いかにもこの時代らしいことを言われてきたという話も聞き流せない(もちろん現在の感覚では公には通らない考え方であるのは当然として、だ)。
達郎、それから故・大滝詠一、さらに細野晴臣といった才人たちは、洋楽のポップスやロック、海外のカルチャー全般について、破格の知識量を誇る存在である。その上に彼らは、日本の大衆娯楽や伝統芸能への見識もじつに深い。
そんな達郎でも、昭和という時代の背景もあり、親世代からの教育やしつけの影響はさぞ濃かったのではないかと思う。
それにしても、山下達郎。まさしくポップス職人で、その匠の技を作品をクリエイトする上では何の妥協も許さないほど頑固な姿勢を貫いている彼だが、ここでは自身のパーソナリティや生きる中で蓄積していた、言わば生々しい感情を吐露している。それはじつに鮮烈だ。
達郎はもちろんシンガーソングライターだが、『僕の中の少年』の楽曲はグッと私的で、まるでフォークシンガーのような独白を見せている。
ここで焦点となる曲は、「蒼茫(そうぼう)」と「僕の中の少年」の2曲。
このアルバムについて達郎は、ベスト盤『OPUS ALL TIME BEST 1975-2012』のセルフライナーノーツで、こう語っている。楽曲「蒼茫(そうぼう)」の解説より。
30代の入り口で我が子を授かったことが、アルバム『僕の中の少年』には大きく反映されている。中でもこの「蒼茫」は、自分の音楽人生にとって最も大事な一曲となった。思想とまで大上段ではなくても、生きることに対する価値観が固まりはじめる年齢になって、ふいに湧き出るように浮かんできた。
達郎はここでも子供を持ったことの大きさについて綴っている。
子供を持つこと、育てていくこと。これについて僕自身の経験というか、体験を言うならば、子供を持つことは、そのまま大きな責任を負うことだと思う。もちろん、これはそれぞれの人によるものだと思うが。
その子を育てるために、成長させていくために、自分は何をしないといけないのか、何をすべきなのか。これでいいのか、良くないのか。そこでは気がつけば、多くの選択肢に迫られることになる。もっとも生まれたての頃は育児だけで手一杯、精一杯の状況で、細かいことを考えている場合ではなかったりもするが。
ただし、くり返すが、こういうことは人によると思う。子供を持ったことの責任とか義務とか、何とも思わない人もいるだろうから。
それに、自分に子供がいるとかいないとかに関係なく、大人としての心構えを持つような人もいると思う。
さて、次の達郎の言葉は、2012年に出版された『ぴあ Special Issue 山下達郎超大特集!』掲載のインタビューからである。
達郎はここで、市井の人々の生き方に気持ちを寄せ、匿名性の賞賛(「“普通に、マジメに働いている人間がいちばん偉いんだ”ということですよね」)についての話をしている。そして石川達三の小説『蒼茫』にも触れながら、アルバムについて語る。
「『僕の中の少年』に関しては、子供が生まれたっていうのも大きく影響してます。女の人にとって出産は圧倒的にフィジカルな経験だと思うんですけど、男の場合は社会性とか思想的にいろいろ変化が出てくるんです。『蒼茫』から『僕の中の少年』へのつながりというのが、あのアルバムのテーマのすべてです。自分の中の少年性が次世代に受け継がれていく、という」
「『MELODIES』をリリースしたのがちょうど30歳のときだったんだけど、当時は“Don’t Trust Over 30”の時代ですからね。僕に限らず、三十になって、この先、音楽でどう生きるべきか?ということを厳しく問いかけられることになる。そこで辿りついたのが“無名性”ということだったんですよね」
ここでも出てきた、Don’t Trust Over 30。
この言葉について僕は、【 #年齢のうた 】のムーンライダーズとGOING STEADYの時に取り上げている。
Don’t Trust Over 30という言葉は、60~70年代の若い世代にとっては野放図な生き方や姿勢を示す上で非常にシリアス、かつ、重要なスローガンになっていたはずである。
しかし、いざその立場になった時には、矛先がそのまま自分たちに返り、刺さる言葉になった。そういう側面もあるのだろうか。
そしてアルバム『僕の中の少年』について達郎が語った、さらにもうひとつのテキスト。今度はCD『僕の中の少年 2020 Remaster』版のライナーノーツである。これも本人による解説だ(彼は本当に自分の作品を的確に語る人である)。
まずは、このアルバム全体について。
(前略)
プライベート面でも、30代も後半に入り、おとなこどもの自分が次第に本当の「大人」になっていく実感と抵抗感、ミュージシャンという不安定な表現スタンスの将来への不安、色々な心の葛藤があふれる年齢でありました。
そうしたさまざまな想いが、このアルバムには込められています。
日本語のアルバム・タイトルというのも、私の生涯全作品中唯一です。
タイトル・ソングの「僕の中の少年」は、若い頃に抱いていた夢やときめきが、歳を重ねていくうちにいつか消え失せてしまうという諦観に基づきつつ、それでも少年性との訣別を肯定的にとらえようとした作品でした。あれから30年以上の時が経ち、「少年」などという言葉とも、もうとっくにおさらばしてしまった現在ですが、驚くことに、あの時代の光は今もまだ心の中にとどまっています。
人生なかなか捨てたもんじゃありません。
2020年9月
山下達郎
「おとなこども」や「葛藤」、「諦観」といった表現に、彼なりの揺れる心情が読み取れる。少年性に別れを告げるのは、それだけ重要なことだったのだろう。
次は楽曲「蒼氓」について。
「蒼氓」というタイトルは石川達三の小説の題として有名で、市井の人々の姿を青草が茂っている様子にたとえた言葉です。歌のタイトルとしては少々かたい感じもしたのですが、 この曲の内容を表すのにこれ以上の表現はなく、このタイトルでいくことにしました。無名性・匿名性への熱烈な讃歌であり、私の昔からの思想信条を音楽的に表現した、これがひとつの到達点だったといえます。コーダのユニゾン・コーラスは私と竹内まりや、桑田佳祐・原由子ご夫妻の4人。桑田夫妻の無垢な歌声がこの曲に彩りをそえてくれました。
そして、楽曲「僕の中の少年」について。
モラトリアムとか永遠の少年とかいわれる、私もそうした戦後世代のひとりですが、現実にはそれほど世の中は甘くはなく、少年時代の無垢な心など、歳を重ねるにつれどんどん色褪せていきます。だからといって、それほど悲しむことはありません。なぜなら、かつて自分の中にあったそうした純真さは、きっと新しい世代に受け継がれ、またその先へと営みはくり返されていくでしょうから。娘が生まれた時に、私はもう少年ではなくなったのだという思いを強烈に感じながら、そうした輪廻めいた感慨を歌にしようと作った曲です。すべて一人で打ち込んだデータによるコンピューター演奏。楽器もすべて一人きり。歌詞も抽象的。まったくもって個人的・内省的な歌といえます。結局この歌のタイトルをアルバム名にしてしまいました。
モラトリアムだった自分。それを変えた新しい世代、つまり自分の子供の存在。
こうしたテーマ性ゆえか、アルバム『僕の中の少年』の最後の2曲となる「蒼茫」と「僕の中の少年」の流れは、苦みのような、痛みのような感覚を放ちながら、終わってゆく。
途中で書いたように、僕は自分より上の世代のミュージシャンたちは、とても大人びて見えた。達郎もそうだし、たとえば大滝詠一も、YMOの3人だってそうだ。それは僕自身がまだ10代だったからではあるが、それでも20代後半から30代にかけてのアーティストたちは、誰もが本当に大人のように見えたものだ。
しかし達郎のこうした話を見てみると、仮に大人びて見えたとしても、当の本人に大人である自覚はそこまで強くはなかったようにも思える。
達郎は、これも自身が語っているが、下積みというか売れない時代が長かった人で、とくに70年代は苦労をしたようだ。それだけに自分の理想と現実のギャップについては早いうちから意識的だったのではと思っていたのだが……それであっても、彼は自らの少年性、あるいは夢見がちなところや、時には子供っぽさも生かしながら音楽活動をしてきたということなのだろうか。
ただ、達郎かどうかはさておいても、そうした姿勢については、うなづける部分がある。
アーティストという存在は、純粋さや無垢なところ、野性、あるいは衝動性、さらに言えば暴力性……言い換えれば創作において、そうしたもののすさまじさや狂気を内側に抱えながら息をしている生き物だと思うから。
音楽界の巨人である山下達郎も、大人になっていく自分、なっていかなければならない自分のことを、充分に自覚していた。そしてその思いを、歌に残した。
<さようなら もう二度と/振り返る事はない>
大人になっていくことで生まれる苦み、痛みの感覚。
そしてこれは、それこそ「蒼茫」……市井の多くの人たちが体験するものではないかと、僕は考える。
<山下達郎 その2 に続く>