平等性と僕のエゴ
どうも、あなたの街のホモ・サピエンス、河内ヨウタロウです。
別に悩みとか解決しないぞ。
細々と続けてきたnoteもついに閲覧数5000突破だ。本当にありがとう。
信じられん。僕の書いてる文章をそんなに呼んでくれる人がいるとは信じられん。
ちなみに5000のうち200くらいは僕だ。
僕はこのブログのことを「劇場型ひとりごと」だと思ってる。
ひとりごとを公開している僕は構って欲しい隠キャみたいだ。
隠キャってヤバイ言葉だよね。
誰にでも隠と陽の部分があるのは当たり前だろう。
昼より夜の方が好きな人もいるだろう。
僕は名前が陽太郎だが、隠の部分の方が強いし多い。
別に悪いことじゃないし直そうとも思ってない。
明るく元気な状態がベストだと信じてやまない人がお節介をかけてくることもあるが、別に元気じゃなくても大丈夫なのだ。
その薄暗く冷たいひとりの心地よさを味わっているのだ。
世の中には
何でも納得したい、定義づけたい、なんぜなのか知りたい、その始まりと向かう先がないと体が動かない人が多い。
僕にも当てはまる節は多々あるな。ちょっと棚に登るから待っててくれ。
棚からの景色は全然良くない。でも今日はここからお送りしよう。
何でそんなことやるの?何になるの?どうしたいの?
ここまで強い言い方しなくても、人は自分の物差しで測れないことを許せない。
この島国の人は特に強い気がするのは僕だけか?
僕は考えるより先に足が出てしばらく歩き続ける節がある。
全員が全員「理由や目的が明確じゃないと何もしない」人間じゃないのだ。
このブログだってそうだ。
別に深い理由なんてない。
書き進めながら「ああ、メッセージはエンタメ性がないと届かんなぁ〜」みたいな気づきがあるくらいだ。
僕たちは自分たちが思っているよりも多くのことを感じている。
五感六感使って、感じ思っているこの複雑な「感情」を言葉んできるのなんてほんの1割にも満たないと思う。
そろそろ足が痛くなってきたので、棚を降りよう。うん、いつも通りの景色だ。
じゃあ次は回れ右して「は!?!?なんこれ!?!?意味あるん!?!?」を紹介しよう。
【①返事は大きな声でしなさい】
これまじで理解できなかった。
小学校・中学校で明らかに声量のネジがぶっ飛んじゃってる先生いただろう。
返事は聞こえる声でいいだろう。というか聞こえる声がベストだろう叫ぶ必要あるのか!?
バカみたいなでかい声で返事するのってはたして「健全」か?
【②体育座り】
痛いだろう!!!!!尻が!!!!!よく考えろ!!どう考えても人の話を聞く姿勢じゃないだろう!!!
バカなのか? Hey,Siri.尻が痛い。
どれだけ痛いか知ってるのか?やるなら教員も校長も全員体育座りしてくれめっちゃシュールだ。
僕はかなりのO脚だ。しかも腰の骨盤がちょっと歪んでいる。おかげで体育座りはこの世の地獄だ。
この激痛クソダサ座りが僕を生徒会長まで押し上げたと言っても過言ではない。
マジで学校側は何を思ってこの体育座りさせてるんだ。
思うに、この国の学校は「何かを学ばせる」ことよりも「いかに言うことを聞かせるか」に特化していると思う。
僕もバイトで子供と接しているから「頼むから言うこと聞いて!!」と思うことはなくはないが、そのためにルールを敷いたらそこはもう独裁政権だ。
子供の「何でこんな勉強しなきゃいけないの!?!?」と言う問いに自分で考えもせず「そういうもんなのよ」とか「社会で役に立つためよ」とか「いい大学に行くためよ」とかの答えはいかんと思う。僕が採点するならその答えはバッチバチの0点だ出直してこいって感じだ。
この問いに関しては思考停止しなければその人なりの答えを持っていていい。
今回は簡単に書くが僕なりの答えは
1「何に使うのか?」
学校で習った知識自体を社会に出て使うことは残念ながらあまりない。上司に「おい、ちょっとこの方程式会議までに解いといてくれ」とか言われないだろう。でもその過程で培う思考力や整理する力、集中力は社会でバリバリ使う。
2「なぜテストをするのか?」
それは「自分の理解度を知るため」だ。「何でそんなことせにゃならんのだ」それは「大人になっても間違えるから」だ。
3「なぜ勉強するのだ」
美しいと感じる心を養うためだ。行き着く先は人間が人間であるためだ。
これは話すと長くなる。またの機会で。
子供からの質問にはこの3つのどれかで答えるようにしている。
この先変わるかもしれないし、全部間違えでした〜ってなるかもしれないが、適当にあしらって思考停止することはなくなるだろう。
そんな人間になってしまったら死ぬよりつらいな。
【③髪は黒髪短髪で揃えましょう】
何 年 前 の 話 を し て る ん だ !!!!
胎盤からやり直してこいマジで。
髪型制服なにもかも揃えておいて授業で個性求めるなよ頭バグってるとしか思えん。
僕は頭髪検査で先生が言う「よし」が心の底から気に食わなかった。
僕が殺し屋だったら「よs」のあたりで首切ってる。
その言葉には「よし(今日も文句も言わず俺らに従ってるな)」が聞こえてくるのだ。
なにがよしだバーーカお前の頭は「わるし」だよ!!と思っていたこともあった。
反抗期ということにして許してほしい。
とにかく僕は学校の言う「平等性」に疑問を覚えていたんだと思う。
今もホロコーストなど社会派の映画が好きなのもそのせいだと思う。
日本の公的教育機関は、どこかその「平等性」を履き違えていないだろうか?
真の平等は「同じものさしで測る」ことではなくて「それぞれのものさしを認める」ことじゃないだろうか?
今もこの国の教育は「変」だと思う。
人間を育てる上で、自分で判断ができなかったり責任を負えない世代を育てるのに適していないと思う。
自分の子供も日本で育てたいと思わない。
小論文や作文も、僕はきたない生徒だから「どう書けば先生が喜ぶか」を知っていた。
形式に当てはめそれなりに客観的に、語彙を広めに、結末を前向きににすれば先生ははなまるをくれる。
小論模試とかマジで無双だった。
でもそれを自分の名前をつけて世に出すことが心から恥ずかしくなったことがあった。
思いっきり主観的に書いた。形式もない。もっと万人の心に届くような、読んでいて楽しいものを書いたが結果はひどいものだった。
今でも許してない。
僕の大好きな物語の主人公たちは、世の中の大勢が素晴らしいと手を叩く物語の主人公たちは
自分のことに夢中で、主観的だ。
そんな彼らを夢見るのなんてもう、許されないのだろうか?
どんなに文句があったって卒業してしまえがお互いに知らん知らんだ。
自分の人生に対して、学校は責任を取ってくれない。
自分で何とかするしかないのだ。自分でどうにかするしかないのだ。
そのために必要なのは、情熱的で瞬間的な赤い炎の心でなく
ジリジリと燃え続ける、継続的でどこかサディスティックな、復讐心にも似た青い炎だと思う。
今日は柄にもない真面目な文章を書いてしまった。
次回からまたいつも通りに戻る。