リーダー・マネージャー・ひとの親
最近、組織編成上リーダーシップやマネジメントを強く意識しなければならない場面が増えている。自分が所属しているのはそこそこの規模かつピラミッド型で年功序列が強い組織のため、経験するタイミングとしては年齢的に遅いほうかもしれない。だがその分だけプレーヤーとして、技術者としての経験値を蓄えてこれたのだから、これからはその経験の還元を求められているというわけだ。
マネジメント側に移行するということはつまり、プレーヤーとしての経験・能力は今を最高到達点としてこれからは別の能力が求められることになるはずだ。
今までは自分でなんとかできればよかったものが、より経験の浅く、より知識も少ない後輩や若手メンバーにうまく並走し、教え、そして躍動してもらいチームとして自分個人一人の成果よりも大きなものを成し遂げる必要がある。
実はここまでサラッと書いたことを自分で納得するまでにはそれなりに葛藤があったりする。自分が苦労して得てきた経験を教えるのが嫌だというような陳腐な話ではない。
まず、自分のプレーヤーとしての油が乗り切ったとは思っていないタイミングで、もうクリエイティブなことは若い世代に任せて、と半ば世代交代を暗に求められているということ。そしてその先がマネジメント領域という別の(日本型組織では明確に区別されていないことも多いようだが)スキル分野だということだ。ここには名残惜しさというか寂しさのような感情が残る。自分が成し遂げたかったことはまだあったのではないか、と。
とはいえ、ポジティブに発想転換するのであれば、今まで自分が苦手としてきたことに対してもそこが得意なメンバーに補ってもらい、共助の関係を上手く築けるのであれば、それはいいチームになってより大きく、自分のやりたいことができるようになるのではという期待がないわけでもない。
実際のところ、現状にマンネリを感じていなかったわけでもない。
立場上これからは重要な判断を求められる回数が増える。今までも重要な判断はしてきたが、その一次情報を取ってきたのは他ならぬ自分だった。これからは違う。そして判断の結果だけでなく、プロセスもしっかり見られるだろう。もちろん、メンバーの目は厳しいはずだ。かつての自分がそうだったように。
こうなるとやはり人間いくつになっても学びを止めるわけには行かない。勉強は一生続くものだ。別に目先のなにかが上手くいくためではない。
結局自分がどうありたいか。
究極的には自分本位、自分が理想とする生き方ができればいいとさえ思うこともある。
では自分は結局どうありたいのか。
一度考えたことがある。
結局の所、自分は自分の目の届く範囲、影響の輪の中にいる人はみんな幸せになってもらいたいのだよな。もちろん、自分も含めて。
よしすけさんはみんなが仕事をしやすい雰囲気を作ってくれるとか、しっかり向き合ってくれて時間を作ってくれるから助かっているというようなメンバーの言葉を人づてでも聞けると少しはそう進められているのかな、とも思うけどまだまだ。まだ感情的に、相手を責めてしまう瞬間は結構ある。
こうしたものも、自分の天性の人間力がないせいだと卑下することは簡単だが、単純にスキルで済むものを知らないだけだったことも多い。
だから学ぶのだよね。
そしてリーダーシップやマネジメント、ファシリテーションなどの本を読み漁るとだいたい書いてある重要なことは同じような気がしている。
このあたりはもう少し実感が伴った時点で言語化してみたい。
でも問いかけや傾聴などのコミュニケーションスキルや態度は子育てや家族関係に通じるものがあるよね、とは今の段階でも言える。
極端に仕事人間ではない自分がこのあたりの学びを積極的に行っているのは自分の影響の輪の中で最重要である家族との向き合い方にも通じるものがあるからだと思っている。
さて、GW。
インプットもいいですが、貴重な休みを目一杯子供と遊ぶことに使おうと思います。