見出し画像

今すぐ人生のしがらみを解き放つ

どんなに人生に絶望したとて、ただ一人で生きることなどは不可能。

この世に生を受けた時点で、両親が存在しその他すでに沢山の人々が暮らしている紛れもない現状、国や社会といった自治共同体における互助関係において、それらの全部を無視して自分勝手に生きるなんてできっこない。

現に今こうして自分が生きずらいと感じているのも、乳飲み子から物心つくまでの間、周りの人々によって育まれたという紛れもない事実があるから。

たとえそんなの余計なお世話だ、誰も頼んでいない、生まれてきたくなどなかった、と憤ったところで今更もう全部遅いのである。とはいえ、何もかもあきらめて無気力に生きねばならぬのかといえばそうでもない。

周りとの距離感を適切に保つことで、あたかも自分一人であるかのように振舞い生きることはできるのだ(あくまでも自分や人に期待しないという意味においてだが)。

物理的に山奥で暮らしたり、心を閉ざし自分の殻に引きこもる必要もない。人間関係から逃げられぬのならいっそ受け流せばいい。あるいは、固く結ばれた周りとのしがらみを断ち切ればいい。

そのために必要なのは、もうお分かりの通り勇気のみである。

雨は等しく降り注ぐ、それをどう感じるかは人それぞれだ

あまねく人々は、生まれた時点で規模の大小はあるにせよ、必ず何かに所属した状態からスタートする。
家庭<学校<会社<町<国<地球 といった感じで。

例えば、家庭内でDVが発生した場合、加害両親から逃れるためより大きな共同体、町の自治体などへ助けを求められることを知っていればいい。
あるいは、会社での人間関係に悩んでいるなら、転職するなどの選択肢があることを意識するということだ。

今現在の人間関係で悩んだとき、自分にはより大きな選択肢があるということを知っているのは大切なことなのだ。

仮に今現在、井の中の蛙だとしても、井戸の底から見える月の美しさに感化されることで、世界の広さに思いを馳せることができたなら、自分の可能性に気づき少しだけ心が軽くなるから。

誰もが居場所を求める、どこかに所属するにせよ、自分で好きな場所を選んで生きていけるということだ。
家庭、学校、会社、どこであれお山の大将は存在する、彼らの言うことなんて聞く必要はない。そのために必要なのは、選択する自由のための勇気だ。

誰だって今を変えるのは怖いしめんどくさい。
ゆえに脳死で現状維持、一歩を踏み出せず同じ場所で拗ねたりいじける。
その選択をしているのは紛れもなく自分自身なのだ。

人生なんて簡単だ。
将来への恐れや不安を感じられなくなるほどに、今を生きるのだ。
ただ自分を信じ今を生きるのだ。

選択の自由、勇気のあきらめ、降参、現実逃避

つまるところ幸せとは、世のため人のためになっているという実感。であるならば、生きている限り世のため人のために献身することはなんら自然な営みなのだ。

同時に自分が生きている、生への実感を得られるのもまた、世のため人のために献身的に生きているときなのだ。気づいてしまえばこそ生きるとは、かくも素朴なことであると実感できる。

ある意味では、願望や理想は言い訳じみた逃げ口上。
周りへの不平や現在の自分への不満を愚痴っているようなもの。
いつまでも変われない意気地なしの自分への言い訳。
未来への不安や恐れを周りのせいにしているだけ。

おおよそ信じたくないが、尊敬や羨望さえもダメな自分を否定するために起こる心の動きの一つなのだ。

不自然に不幸や不運をまとって他人との違いを際立たせ、特別な自分になろうとしなくても、すでに自分は特別なのだからそれを自覚することだ。

自分を大きく見せようとせず、今のままの自分で堂々と生きられるように。

そう願いを込めるとともに、読んでくださった方の勇気の一助となればと思い本稿を書きました。

いいなと思ったら応援しよう!

なすの
ここまで読んでくれたことに感謝。 これからも書くね。