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十全を期して念を入れる

主語がないとよく言われる(ほら、こんなふうに)、そのことを否定はしない。なんで伝わらないのかとそう憤ったりもしないけれど、やっぱりなんだかもどかしい。

大人になると泣けなくなるから、ワガママも我慢しなくちゃいけないから、かといって、なにか発散できる方法があるかといえばそうでもなく、日々自分の中へと負は蓄積されていく。

一体どうしてこのようなことになっているのだろう。これでは人生の意味を見失ったとしても致し方のないことではないだろうか。

誰が好んで愚痴ったりするだろう、いつの間にかたまった自分の中のものを吐き出して何が悪いの?

吐き出すと同時に何か少しでも自分の痕跡の証や爪痕を残したいと思うのは傲慢?

人は一人で生きられないのもわかる。
自分と自分以外という絶対的で相対的な関係性において、紛れもない事実であると確信できる。

それでもなお、自分の中からやってくる衝動もまた事実。なれば、理由なんてどうだっていい、そこに困っている人がいるから純粋に助けたいと思う。

善悪とか常識とか世間体とか効率とかどうでもいい。
理屈なんてただの屁理屈だ。

結局、人が生きるとは、気づきと赦しの連続。

だから気づくたびに赦すのだ。

そのためにもまずは自分を赦さなきゃ。

己はすでに十分に整っていて、危なげないから。

ゆえに、今よ八千代に続けとそう願うから。

念入りに念を入れて今日を今を生きようと思えるから。

ありのままの自分、自分らしさに思いをはせながら。

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なすの
ここまで読んでくれたことに感謝。 これからも書くね。