刹那的な世界で素直に生きる
コロコロと言動が変わる人に対し、何やら信用のおけぬ相手だと不信感を抱くのは致し方のないこと。
かくいう私も同様に、人生ほとんどをそうした思いで生きてきた。
ただ最近、ふいに次のようにも考えられると思い至ったのです。
それはこの世が無常なる世界であるならば、その仕組みに従い素直に自分を生きたとき、必ずしも自分の信念はどの瞬間も同じではない。
同じでなくてもよい、移り変わってもよいのではないか? と。
あの人は常にブレずに一貫した言動、だから信頼に値する、でもそれって自分自身が他者に対して抱く願望に過ぎないのではないか…と。
自身の切望を自分以外の周りに押し付けているのではないか?
例えば親しい友人がスタバで会おうと言って、でも直前にやっぱり二軒隣のコメダが良いわと心変わりしたら、もうその相手は不誠実?
そんなわけない、むしろその話題でまずはひと盛り上がり、親しい仲だからこそ会話に花が咲くでしょう。
では親しくない人とは?
このように自分の中の思い込みに気付けるはず。
その瞬間だけを切り取って決めつけなくて良いんです。
人は見かけによらぬもの
そもそも人は見かけによらない。
そんなの当たり前、一秒前の自分と今現在の自分はもう別人。
同じように見えるからと言って同じではない、ほとんど同じなんだから同じでしょ、そう決めつけないで。
同じはず、同じじゃなきゃ、同じだよね、そう自分で決めてるだけだよ。
物理的に、文字通りに、瞬きする前の自分とは別人!
ほんの一瞬でいいから、ひょっとしてそうかも? とそんな感じで内観してみて。
だからもう、うつろいゆく自分の心に戸惑わないで。
日常の中で自分の中に泡ブクのように出てくる感覚、それらも毎瞬違う自分の中から出てくるんだし…と考えてもいいんじゃない?
自分はこんな人だと勝手に決めつけている。
自分はこうあるべきだと思い込んでいる。
自分のことをもっと素直に見つめ直してみて。
嘘から出た実
はじめはウソでいい。
なんとなくの言動がやがて真実となる。
信念とはそういうことも孕んでいる。
だからやりたいようにやっていい。
嘘でもなんでもかっこ悪くてもどうでも。
自分の行動の結果、それがやがて大きな果実となる。