本当に役立つ国語の試験の解き方
まず結論から。本当に役立つ国語の試験の解き方とは「普通に解く」ことだ。実は、思っていたよりも得点に結びつかなかったり、なかなか成績の伸びが感じられない大きな要因に、「普通に解いていない」ということがある。「普通に解く」というのは、試験を最初から順番通りに、指示に従って解くということ。実際には、このように解いていない受験生も多いのではないか。
例えば、問題を最初から解いていないという場合。二番目の大問から、漢字の問題から、記号問題から、という具合に、途中から解き始める人も多いのではないかと思う。また、指示に従っていないという場合。「文章を読んで、後の設問に答えなさい」と書いてあるのに、文章を読まないで、設問を確認してから、必要なところだけ読んでいる、という人もいるだろう。
このように「普通に解いていない」理由として、「解くための技術」を用いているからだと考えられる。多くの人は、人から教えられたり、どこかで見聞きしたり、時には自分で開発したりして、「解くための技術」を実践する。「解くための技術」には、例えば次のようなものが知られている。
・解けるところから解く
・まずは語彙問題から解く
・苦手なところは後回しにする
・大事なところに線を引きながら解く
・キーワードを四角で囲む
・登場人物を丸で囲む
・指示語を丸で囲む
・接続詞を三角で囲む
・話が変わるところに斜め線を入れる
・傍線部の前後に注目する
これらの技術が間違っているわけではない。ただ、これらは薬のようなもので、用法用量を適切に用いないと、毒になりかねないものなのである。
ちなみに、これらの技術の出所には、どのようなものが考えられるのだろうか。例えば、学校や塾、予備校の先生や、親、兄弟姉妹、友達、または受験対策本からというものもあるかもしれない。
これらの人達は、自分の経験や知識に基づいて、技術を処方してくれる。ここで勘違いしてはいけないのは、この技術は「そのときの目の前の相手が、そのときの課題に取り組むこと」に対して処方されたものであり、その技術が将来的にも役立つことや、他の人に対しても有効であることや、違った課題に対しても使えることを保証するものではないということだ。
例えば、「登場人物に丸をつける」という技術は、そのときの目の前の相手が、登場人物が多くてわかりにくい文章を読んでいるときに、動作の主語を読み間違えている場合に、正確に読むことを助けるために処方されたものかもしれない。
だから、それから十年経った段階では煩わしいだけかもしれないし、登場人物が一人だけの文章では不要かもしれないし、登場人物を読み間違うことのない人には無用なものかもしれない。
「解くための技術」は全て、万能ではない。あらゆる時に、あらゆる人が、あらゆる文章で使えるわけではないのだ。
しかし、ついつい一度得た技術を濫用してしまうことはよくある。それが効果があるのかはともかく、技術を用いることによる安心と自信が、多少なりとも不安を和らげてくれるからかもしれない。または、その技術を用いないと、解けないと思い込んでいるからかもしれない。
でもそれは、頭痛にも腹痛にも腰痛にも、とにかく葛根湯を飲んでおけば大丈夫というくらいに乱暴な処方である。確かにそれで効果がある場合もあるけれど、それがかえって読むことや解くことを阻害してしまうこともありえる。
よく考えれば、小学生が読む文章に役立った技術が、大学受験に必ずしも役立つとは限らないことはわかる。それでも、有害になるとまでは思っていないかもしれない。しかし実際には、有害になっていると考えられる場合が散見されるのである。
例えば、「解けるところから解く」という技術。これが有効なのは、圧倒的に勉強が追いついていない場合に、少しでも得点するための技術である。試験対策ができなかったときに、せめて赤点だけは回避したいというようなときに処方される。
これは、少しでも高得点を取って、試験に合格するような場合には有効ではない場合がある。高得点を取りたい場合には、一問でも多く取り組む必要があるのにも関わらず、初見の段階で切ってしまっては、分母がどんどん減ってしまう。
また一番の問題は、設問の流れを無視してしまうということである。設問は出題者によって、意図的な順序や流れで構成されている。最初から順番に解いていけば、時には解答のヒントになるように作られている場合もある。
例えば、問1では登場人物の行動について問い、問2では登場人物の行動に基づいた登場人物の心情を問う、といった場合。また、問3では最終段落の主題についてまとめさせ、問4では文章全体に関わる問いであるものの、実は問3の解答がカギになっているという場合もある。
その他にも、解答漏れを招いたり、解答欄がずれたり、先入観で解くことを放棄する場合があったり、答え方を勘違いしたり、解答を選んでいるだけで時間が経過して解く時間がなくなったりと、マイナス要素はいくらでもある。
そのような解き方をしている人の答案を見ると、記号問題しか解いていなかったり、大問まるまる白紙だったり、解答欄がずれていたり、記号問題を記述で答えていたり、明らかに高得点は望めない状態であることが多い。
また、「最初に設問を見て、必要なところだけ出題文を読む」という人も多い。これはかなり「解く力」に振り切った解き方である。
国語の問題を解くには、「読む力」と「解く力」、設問によってはさらに「書く力」が必要になる。国語の試験は「読む力」と「書く力」を測るためのものだ。しかし時には「解く力」を補うことによって、得点しやすくなる場合がある。この「解く力」の中に「解くための技術」が含まれている。
実は、小学校から中学校の段階の試験問題の中には、この「解く力」を最大限身につければ、試験である程度の得点ができてしまう場合がある。たとえ高得点は取れなくても、最低限は解けてしまう。
「最初に設問を見て、必要なところだけ出題文を読む」という方法は、まさにその代表例で、この方法だけで解けてしまう問題も多い。しかし、高校や大学受験のレベルになると、この方法が通じなくなってしまう。「解く力」だけで乗り切れるほど、大学受験は甘くない。それで得点できなくてもなお「解く力」に頼ってしまうことによって、いつまでたっても安定した得点に結びつかない。
これも勘違いしがちなのだが、予備校や塾で「解く力」を教えているじゃないか、という考えがある。これは確かにそうで、小学校や中学校よりははるかに高度だけれども、「対比関係に注目する」とか、「段落構成によって印をつける」とか、様々な「解くための技術」を処方される。
しかし、実はそれは本質ではない。予備校や塾は、その文章毎に様々な「解くための技術」を用いながら、丁寧に文章に向き合っているに過ぎない。一つの文章に対する視点をわかりやすくするために「解くための技術」という形を取っているのであって、真の目的は、丁寧に文章に向き合うこと自体なのだと思う。
だから、仮にそのような技術をただ覚えても、得点には結びつかない。予備校や塾の活動に沿って、「解くための技術」という視点から、丁寧に文章を読む経験を繰り返すことで、「読む力」が身についていくのだ。
書店で手に入る参考書の中に、「○○○の実況講義」のようなものがある。これらには、様々な「解くための技術」が書かれているけれども、それを暗記したところで、ほとんど役に立たない。大事なのは、その講義の流れにしたがって、丁寧に課題文に向き合うことだ。
だから、このような参考書は、端から端まで丁寧に読まないと、効果を発揮しない。その解説を丁寧に追うことで、「読む力」が身につくというタイプの参考書だからだ。このような活用ができない人は、実況講義タイプの参考書を選ぶべきではない。
「読む力」を測る国語の問題に関しては、やっぱり「読むこと」はとても大切なのだ。だから、まずは課題文を丁寧に読むことが必要になる。しかしこれは、本来問題が要求していることである。大抵の設問は最初に、「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい」と書かれているはずだ。「問題を読んで、必要であれば文章を読んで答えなさい」とは書かれていない。だから基本は、「普通に解く」ことで良いのだ。
また、定期試験や模擬試験の場合は、もっと深刻な影響がある。定期試験や模擬試験の目的には、「自分の国語の力を測る」という部分がある。今の段階での自分の「読む力」と「書く力」を測り、改善に活かすのだ。
しかし、「解く力」や「解くための技術」に頼ってしまうと、正確な自分の「読む力」や「書く力」をいつまでたっても測れない。正確な「読む力」や「書く力」がわからないと、どのような力をつければ良いのかがわからない。どのような対策をすれば良いのかがわからない。
結果として、自分の用いている「解くための技術」と相性の良い問題の時は解け、相性の悪い問題のときは解けない、というように、結果が安定しないし、自分の国語の力と相関しない。そして多くの場合は得点には結びつきにくいから、いつまでたっても得点できない状態が続いてしまう。
もちろん、自分の弱点、志望校の問題の傾向を踏まえて、「解くための技術」を用いる段階は来る。しかし、それは対策の終盤だ。仕上げの段階だ。
だから、「あと一週間で本番なのに、国語が2割くらいしか取れない。せめて3割くらいは取れるようにできないか」と相談されたら、仕方なしに「解くための技術」を処方することもあるかもしれない。けれども、まだ数ヶ月以上あるのであれば、まずはなるべく正確に弱点を把握するとともに、「読む力」「書く力」自体を少しでも伸ばすことに注力すると思う。その方が、長期的には得点に結びつきやすいからだ。
時にこれを妨げるのが、「今度の模試で結果を出さないといけない」という考えだ。模試は過程にすぎないし、判定も目安にすぎない。いくら模試で良い判定が出ても、合格するかどうかはわからない。それでも、気になってしまうものだと思う。
けれど、そこで緊急的に「解くための技術」に頼ってしまったり、「火事場の馬鹿力」を発揮しようとしてしまったり、「奇跡」を願ってしまうと、長期的には無駄な時間になってしまう。寄り道をしているよりも、たとえ道は遠くても歩き続けた方がいい。
このような背景もあって、人は「解くための技術」を濫用してしまう。この状態を僕は、「技に溺れる」と呼称している。技に溺れ、気力体力を磨かないから、いつまでたっても強くならないのだ。
ただ、受験生だけを責めることはできないような気もしている。非は教師や講師の側にもあるのではないか。
実は、国語の先生というのは、他の教科とは大きく異なった性質を持っている。他の教科は基本的に「教科書を教える」が、国語の先生は「教科書で教える」ことを専門としている。
教科書を用いて、「読む力」と「書く力」、「話す力」と「聞く力」、そして若干の知識を身につけさせることが、国語の先生の専門性だ。だから、他の教科に比べると、「何を教えるのか」がわかりにくい。それは、生徒にとっても、先生にとっても言えることだ。時には、生徒から不満が出ることもあるかもしれない。自分が行なっている学習活動が、どのような勉強になっているのか、わかりにくいからだ。
すると先生は、わかりやすいことを教えたくなってくる。生徒にも自覚しやすく、試験の得点にも結びつくような知識的側面。だから、若干の知識に焦点を当てることになる。知識の代表格が、漢字や古文単語、古典文法である。とにかく覚える、理解することが、得点に結びつく。勉強している実感があるし、身につける知識が明確だ。そして、漢字や古文単語の小テスト、古典文法の暗記テストに力を入れる。これは、先生にとっては教えやすいし、生徒にとっても、勉強すれば得点できる。
それに加えて「解くための技術」が扱われる場合がある。「このような場合にはこうする」というはっきりとした内容は、教える側も教えられる側も、何を勉強しているのかはっきりしているし、得点にも結びつくように思える。
ところが、これらの知識や技術は、国語の力のほんの一部分に過ぎない。特に受験で問われる「読む力」と「書く力」に絞っても、とても広範な学習内容があるのだ。だが、それは広範であるがゆえに、生徒には実感が難しい。
さらに、国語の力は実に総合的なもので、「話す力」や「聞く力」が「読む力」と「書く力」にも影響を与える。だから、学習指導要領では、これら四技能をバランス良く扱うことが求められているのだ。
それなのに、生徒や保護者、世間からはなかなか理解されないという理由で、それを実現できないでいる先生もいるだろう。知識と技術に逃げ込まざるをえなかった先生もいるかもしれない。
特に模試を前にすぐにでも成果を感じたい人にとっては、何のためにやっているかわからないような学習活動よりも、わかりやすい漢字の小テストや、「解くための技術」を求めてしまうだろうから、先生もそれが長期的には効果的ではないと感じながらも、そこに特化してしまうこともあるだろう。
でも国語の先生達は、くじけないで頑張ってほしいと思う。時には知識や技術を教えることでやり過ごしながらも、どこかでより総合的な「国語の力」を身につける学習活動を、諦めないでほしいと思う。
学校の方針や、周囲の理解、生徒や保護者の反応、くじけたくなる要素はいくらでもある。しかし、大学で勉強してきた内容は、知識や技術ではなかったはずだ。もっと豊かな「国語の力」を知っているはずだ。
理想かもしれないけれど、一度その理想を捨て去ってしまったら、取り戻すのは大変だ。いつか環境が許せば、本来の教科の目的に立ち返ることもできるかもしれない。
少し話はそれたけれども、結論としては、「本当に役立つ国語の試験の解き方」とは「普通に解く」ことだ。「解くための技術」の弊害に留意しつつ、まずは正面から試験に向き合うところに立ち返ることをおすすめしたい。
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