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「受け取りグセ」をつけていきたい

心の処方箋とは言ったもので、今の僕にぴったりの処方は、小田和正みたいでした。初めて言ったのは河合隼雄なのかしら。そもそも「心に処方箋がある」っていうのが革新的で、心にも不調があること、それには薬や対処を処方できる場合があること、それは人によって症状によって違うこと、がいっぺんに伝わるんですよね。これはすごい言葉よ。そんな撲が僕に処方したのが、小田和正でした。特にいつも聴いているというわけではく、好きな曲はあるけれどもよく聞くわけでもなく、ただ、spotifyで小田和正をフォローしていた。ちなみに、一番好きな曲は「この日のこと」。

朝から夕方までスクーリングがあって、くたくたでした。それで、買っておいたコンビニのスープパスタを食べて、なんか落ち着かなくて、映画(マトリックスの最新作)を観て気を紛らわしながら寝落ち。なにやら夢見が悪く目覚め(内容は覚えていない)、起きてもざわつく心。なんか気持ちが落ちているのを敏感に察知。長く精神疾患患っていると、自分の心の動きに敏感なんです。繊細ってよりは、敏感。大したことないだろって油断することなく、理由のない辛さや不調を、ちゃんと受け止めることをいつも心掛けてるし、クセになってる。

僕の場合に多いのが、貧困妄想。実際にお金があるなしに関わらず、必要以上にお金のことが心配になっちゃう。今回の僕は、それとちょっと近い感じみたい。けれど、特徴的なのが、「自分が大切にされていない」という感覚だった。例えば時給、もしくは時給換算の仕事の賃金って、「大切にされているか」を計るには有効だと思う。最低賃金ぎりぎり、もしくは最低賃金以下で働いているってことは、自分が大切にされていないことの証だと思う。どんなに心情面や環境面で大切にされているようでも、結局は賃金に全てが表れる。本当に大切に思っていたら、いかなる事情があれ、賃金に反映されているはずなんです。言い訳はいろいろできるけれど、言い訳をしなきゃいけないくらいに優先順位が低いということの証明でもある。本当に大切に思っていたら、賃金に反映させないってことは、まずないと思うんです。お金って、すごく便利なものだと思う。金の切れ目は縁の切れ目、地獄の沙汰も金次第。ほんとそれ。だから、なんとなく「自分が大切にされていない」と、ふと思ってしまったんです。きっかけがあるのかはわからないけれど、スクーリングの内容がまあまあひどかったこともあるかもしれない。いや、普通に考えたら関係があるよね。二日間に渡って、まあまあ言説が偏向的かつ挑発的かつ悲観的かつ攻撃的だなあとは思ってたけど、最後までそんな感じでびっくり。特に不登校への対応についての部分では、そのことで悩んでいる当事者が学生にいるのを明確に知っていたから、ついつい口出ししてしまった。一応、講師の顔は立てるように配慮はしたつもりだけれど、不登校支援の現状、希望的な側面について補足させていただいた。もちろん、多分に怒りに満たされながら。多様なバックグラウンドのある学生同士の話はめちゃくちゃおもしろいし、勉強になったのが救い。通信制大学のいいところって、日常では交流できない人達の話をざっくばらんに聞ける機会にもなることだよね。それで、自分の役割としてというか、職業倫理として、最低限のフォローはできたというか、目の前で行なわれる悪行に抵抗はできたかなという気持ちと、そんな不愉快な場面に長々と触れてしまったことの不快感はどちらもが自分にとって負担になったんだと思います。そんなんがごちゃまぜになって、それに疲労もあって、気持ちが不調になったんじゃないかと。

小田和正の曲って、すごく意図的に勇気づけてくれるっていうか、とても大局的な視点から、命とか、心とかを見つめ直してくれる感じがするんです。僕は基本的に歌って、歌っている側の気持ちになって聴くことが多いんですね。失恋の曲であれば、失恋した側。励ます曲でも、励ます側。でも、小田和正の曲って、歌われる側で聞けるところがあって。「この日のこと」でも、「嬉しかった、震えるくらい」とか、自分が言われているように感じる。僕にとっては、こういう曲って意外と少ないんです。物語と同じで、当事者側に寄り添って聞いちゃうところがある。でも、歌ってそれだけじゃないですよね。僕自身が表現者としての自分を大事にしすぎちゃてきたのかもしれない。どうも短絡的に歌い手側、歌を届ける側に寄ってしまうクセがある。これはもったいないことかも、と思ったんです。それで、さっき「ラブ・ストーリーは突然に」を聴いていて、ふと気づいて。これ、歌われる側の気持ちで聴いてもいいじゃんね、って。そしたら、めちゃくちゃ勇気づけられる曲じゃないですか、これ。自分が歌う側で捉えちゃってたから、自分の気持ちが届かない辛さを感じてたけれど、歌われる側で捉えると、すごく愛されてるって気持ちになってくる。切ない曲調だと思ってたけど、それが真剣な愛情表現に思えてくる。そうね。もうちょっと、人に愛を与える側じゃなくて、愛を受け止められる人間になりたいね、と反省しました。giverばかり極めて、takerとしての自分を鍛えていかないと、いろんなバランスがくずれちゃうのかもね。

小田和正のアレンジでグッとくるポイントに、コーラスがあると思います。歌詞の一部とか、もしくは別のメッセージをコーラスに乗せるんですよね。それは小田さんの歌に対して半分のテンポで歌われるから、はっきりと歌詞が聞き取れるようになっている。それに、フレーズとしてもはっきりしている。吹奏楽で内声パートがグッとくるのに似てるかもしれない。ユーホニウムなんかがおいしいところもってく、アレね。言ってしまえば、和声音に当てはめてるだけとも言えるんだけど、それがまた主張しすぎず、埋もれず、とっても感動的なんです。前述の通り、小田さんの曲はそんなに聴いてないんですが、好きなのは、クリスマス時期に放映されている「クリスマスの約束」が好きだから。言ってしまえば、小田和正がいろんなアーティストとコラボするイベントなんだけれど、始まった当初はもうちょっと壮大なものだった。アーティストとかジャンルとか事務所とかの垣根を超えた、音楽でつながりあい、大きなうねりを作り出すようなイベントだった。その空気感とコンセプト、何より素敵なアレンジが好きだった。小田さんのアレンジでは、先のコーラスの特徴があって、それがクリスマスのファンタジックな空気にぴったりで、まあ感極まってしまうわけですよ。あの番組が好きすぎる同僚と一緒に、若手教員数名で卒業を祝う送別会で、あんなのやりたいねって話になりました。そこで、かりゆし58の「オワリはじまり」を僕がアレンジしてやることになりました。もちろん、小田さんアレンジを真似したコーラスをつけて。目立ちたがりの同僚にはメインボーカルをあてがって、前に出たくない同僚にはコーラスに入ってもらって。ああいう出し物的なやつって、嫌な思いをされる人も多いと思うんですよ。でも、職場の圧力で若手が強引にやらされたりするんですよね。それがかわいそうにも思っていたから、極力負担のないように。それでいて、せっかくだから楽しんでももらいたかった。それに、全くいてもいなくてもいいのも、失礼だし、楽しくないとも思ったんですよね。だから、いろんな小物や役割を工夫したりもして、いわば、アテ書きのアレンジをしたわけです。ちなみに僕のパートは、鍵盤ハーモニカの演奏で多数のオリジナルソロを入れるという存在感でドヤ顔をしました。この時の経験は、後の合唱指導にも役立っているところがありますね。歌って、楽しくあってほしいなって思う。アンサンブルの中でどのパートを担当するかによって、充実感や責任感が変わりますよね。でも、それが思うように人の性格や性質とマッチしないことがある。だから、多少アテ書きできるものであれば、その方が楽しくはできる部分があると思うんです。多少全体の音楽性は損なってもいい場合は多い。もちろん、音楽性も大事です。でも、バランスがあるよねってことです。そんなことも、小田さんの曲を聴きながら、思い出していました。ああいうのは、なんだかんだ楽しかったなあ。このへん、giverにとっては快感なんですよね。

思えばクリスマスというのも、giver過多なメンタリティーが表れちゃうかもしれない。自分自身は、プレゼントを贈りたい、楽しんでもらいたい、という気持ちの一方で、プレゼントが欲しい、楽しみたい、というのが欠けていたんじゃないかなぁと。結果的に、プレゼントを贈りたい相手も、楽しんでもらいたい相手もいないまま(恋人やパートナーというだけではなく、家族や友人も含めて)、青年期は過ごして来てしまったな、と思うわけです。ましてや、自分が「受け取る側」に回るという発想が、たぶん、ほとんどなかった。潜在的にはあったはずだし、今も強くあるはずなんです。でも、それに気づかなかった。満たされない空虚な気持ちのまま、たたずんでいた。満たされないときには、誰かに何かを与える、というのが、自分のルールだったのかもしれません。自分にとって「満たされる」というのは、「与える」ということだと、思っていたのかもしれません。でも、それだけではないはずですよね。僕は、何だって受け取っていい。誰からだって、受け取っていい。僕は究極に受け取りベタなんです。愛でも、お金でも。せっかくの年末、少しずつ「受け取りグセ」をつけていきたいですね。アラフォーからの修行が、まだまだ続きます。


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吉村ジョナサン(作家)
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