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ジャックオーランタンとトイレ

食べ過ぎた。よく行くタイ料理屋で、いつもは麺にお茶をつけるだけなのだが、それに魚料理をひと品追加してしまった。おなかが減っていたのと、そのお店がしばらくお休みするとのことで、なんとなく追加注文してしまった。おいしかったけれど、めちゃくちゃトウガラシが入っていて、ちゃんとお腹に負担がかかっていた。ついさっきまで負担感があったので、およそ二時間くらい辛かった。何事も飽くまで続けるのは良くない。腹八分目を心掛けたい。

今日はスクーリングで一日を過ごす。オンラインスクーリングだから、気楽と言えば気楽なのだけれど、同じ姿勢をとっているだけでも疲れてしまう。ゲーミングチェアにふんぞり返って授業を受けたい。ちょっと困ったのが、毎時間授業時間が伸びること。前回の先生は、授業時間が伸びるたびに休憩時間を調整してくださったので、結果的に授業時間が減り、しかも終わりは10分くらい早めに終わってくださった。いくら楽しみにしていて、実際楽しい学びでも、集中力も体力も続かないので、少しでも早く終わって欲しいと思うのだとわかった。この辺りは本当に反省。自分が授業するときには、ついつい「せっかくこの時間分お金を払っていただいているのだから」と、ぎりぎりまで授業しがちだった。きっとありがた迷惑だったことだろう。きりのいいところで、特に予定の内容が終わったら、そこで終わりにするのが一番うれしいものだとわかった。あれ以来、そのへんは気を付けている。特に、授業時間の延長ほど嫌なものはない。どんなに魅力的な講義であっても、ちょっと負担に感じてしまう。ただ、生徒同士で交流するような授業だと、もう少し時間がほしいと思うこともあった。でも、基本的には短い方がいいかな。

多分先生の性質なんだと思うけれど、けっこう違う土俵や文脈で語られていることも、別の土俵や文脈で論じることが好きな方のようだった。事前にテキストで勉強したり、既存の知識をもっている自分からしたら、けっこう違和感がある説明や捉え方が多かった。例えば、フロイトの精神分析を、パーソナリティ理論の文脈で捉えたときに、いかに実証的なものでないかを語っていたり。また、性格を類型論的なアプローチで理解しようとする立場のことを、性格と体系との相関がないという点で誤りだとしたり。わからなくはないんだけれど、もともとの理論やアプローチのやろうとしたことや、示していることと、その捉え方が食い違っていて、結果的に役に立たないものとか、間違ったものとして単純に否定してしまうことが、様々な箇所で見られた。教育心理学の授業なのに、教育学的アプローチに否定的なのも気になった。もちろん、あえて教育学とは違った心理学的アプローチを用いているという解釈もできたのだけれど、全体の話を聞いた感じだと、そのあたりに専門性があるようでもないんじゃないかと感じられた。確かに、大学の専門科目について、その研究分野がメインではない教員が受け持つことは仕方がないと思う。しかし、もう少しテキストに沿ったり、せめてテキストの立場をある程度尊重したものにしたほうがいいんじゃないかなあと思ったり。教育学に親しんで長い自分としては、そのやや偏向的な視点に、辟易とする部分も多かった。決して全くだめだというわけではないし、得る部分も多くある。ただ、やや先行研究や過去の学者に対しての敬意が欠ける表現や、現代の事象に対する偏見がかいま見えるのが、不愉快に感じられた。教育学部の教育心理学の授業であれば、ちょっと困ったな、と感じていたけれど、心理学部の教育心理学ということで、なんとか許容できるかな、とも思う。様々な挿話がやや偏向的なのはともかく、もう少し学問に敬意を払ってもらえると、不快感が減ると思う。学問を批判することはあってもいいけれども、そこに最低限の敬意はあってもいいんじゃないかと。そしてそれをそのまま受け止めてしまいかねない生徒達のことも心配になった。まずは教科書通りの説明をした後に、各自考えさせ、その上で持論を展開するのであればまだいい。けれど、まずは軽く話題を出した後に、各自でインターネットで調べさせ、その上で持論を展開するという展開だった。だから、今一つ各自が教科書通りの用語の意味や定義がわかっておらず、各々が別々の出典から、適当に解釈した定義を持ち出して議論するという、地獄のようなディスカッションが行われてしまい、閉口した。その上で、教員独自の持論が語られることで、より一層混乱を招き、議論が支離滅裂に感じられた。そんなことを何度も何度も繰り返される中で、すっかり疲れてしまった。聴けば、もう一つ別の授業でも担当する可能性があるらしい。そちらは比較的専門分野のようなので、こんなことにならなければよいが、いささか心配である。まずは、明日の授業が心配でならない。

そういえば、自分にもそんなところがあると思って、反省した部分もある。「世間ではこう言ってるんだけど、僕はこう思うんですよね」ってことは、数限りなく言ってきた。若いころはもちろん、今でも言っている。それによって、いろんな人を傷つけてきたな、と思い返す。あんな言い方しなくても良かった。ドヤ顔で言うことじゃあない。世間一般で言われていることや、昔からやられてきたことの中には、時代錯誤であったり、事実誤認であったりすることも多い。けれど、それを真正面から打ち消すのではなく、そのあり方にも一定の理解を示しながらも、持論を展開するというのが、心理的なマナーではないか。それは、過去の実践家に敬意を払うというよりも、説明を受ける生徒への配慮だ。自分が信じているものや、自分が良いと思っているものを全否定されるというのは、気持ちの良いものではない。それがたとえ間違いや改めるべきものだったとしても、そこにある心理的なハードルや衝撃に配慮はすべきだろう。どうも未だに、感情と議論を分けることができていないというのもあるのだろう。今だって、かなり感情的な不快感を全面に押し出して言葉を紡いでいる。まあ、エッセイというのはそういうものでも良いし、それはそれで良さがあると思っているから、いいと思う。けれど、誰かとの対話や、特に講義においては、こうした聴き手の信じているものへの配慮というのも、大事にしなければならないな、ということを学んだ。

書籍を値上げしました。それはもう、一斉に、全力値上げ。これまでは、ほとんど最低価格で設定していたんですね。一冊につき、電子書籍で30円くらい、ペーパーバックで20円くらいの収益。もう、読んでもらうため、少しでもハードルを下げるために、最初はもう少し高かったものを、一気に値下げしたんです。最初は高めに設定してたんです。そこから下げていった方がいいかなと思ったりしてて。それに、安ければ買うかっていうとそうでもなくて、ある程度高い方が価値があるように感じられるかもと。それでも、ほとんど買ってもらえない現状を考えて、一気に値下げしてみたんですね。それでも、ほとんど冊数はかわらなかった。それに、買ってもらえたとしても、ほとんどお金にならない。それで、どうせ買ってもらえないのであれば、奇特な方が買っていただけたら、より収益につながるように、そしてある程度商品の価値を高いとアピールするために、一気に値上げしました。電子書籍も、ペーパーバックも、一冊概ね500円の収益になるように設定しました。これで、少しでもお金になるといいなあと思っております。人によってははした金でも、僕にとっては貴重な一票なんです。同人誌の金額としては決して高くはないと思うんです。一般の書店に流通している本の相場と比べれば高く感じますが、なにせ、Amazonでしか購入できないものですから。とにかく、試行錯誤をしております。

時に、一部界隈では、誕生日にツイートして、それにフォロワーがリプをしていくという慣習があることをご存知でしょうか。少なくとも僕は、まあまあそんな機会があれば、リプはしています。特に、推しには必ずしてます。推しと面識があろうがなかろうが、応援の気持ちも込めて祝福のリプをします。そして僕自身も先日そのチャンスがあったので、してみたわけです。昨年は日付けが変わってすぐの深夜にツイートしたことによって、リアルタイムでチェックされている方が少なくなってしまうという現象を観測しましたので、今回は、練りに練って、当日の夜19時頃に自分の誕生日ツイートをしました。しかも、ありとあらゆる自分の活動の宣伝をツリーにして。ありがたいことに、そもそもそのツイートの前におめでとうメッセージをくださる方もいらっしゃいました。しかし、肝心のメインのツイートへの反応が少なかったのです。もちろん多少はありましたし、その方々には向こう一年分くらいの幸せを祈りましたし、多大な感謝をしてもしきれません。ですが、気合の入りまくったツリーに恐れをなしたのか、そもそも普段から引かれてるのか、たまたまみなさんの目に留まらなかったのか、そもそもミュートされているのか、シャイな方が9割9分9厘なのか。やはり、欲を出し過ぎたのが良くなかったのでしょうか。チャンネル登録者は増えるどころかやんわり減り、再生回数も増えないのでした。それでも私は、負けません。

一抹の不安としては、もしかして撲、ちょっと恐い人だと思われていないだろうか。実際に会っていただければ、数回会う分には、穏やかでやさしそうな人には見られるはずだ。だから、動画で話したりもしている。確かに、文章だけ読むと、ちょーっとだけ恐く見えちゃうかもしれないが、いたって穏やかな態度を取ることができる人間である。あれか。かわいげか。かわいげがないのか。それとも、肌色か。肌色でちょっと色めいたスタンスをかもしだせばいいのか。なんだ。何がわるいんだ。もしかして、推しにちょーっと押しが強いところか。誰彼かまわず絡んでいくところか。それとも、そもそも表現活動自体がやばいと思われているのか。卓上木琴の即興演奏とか、抽象画とか、よく考えたらとがってるけど、よく考えなかったら、かわいい感じではないか。たぶん言うことをきかないとは思いますが、ご助言ありましたら伺いたいです。

そうか、今日はハロウィンな日だったのか。十月の最終週といえば、ハロウィンになったんだったな。ハロウィンで浮かれたことなど一度もなかったが、コスプレ願望はめちゃくちゃあるので、本来的にはウェルカムなイベントなはずだ。なのに食指が動かないのは、時期的に予定が詰まっていることと、ハロウィンのイベントへの参加経験がないからだろう。変身願望を常に抱えたまま、自分自身をマイナーチェンジさせることで欲求を削ぎつつ、今年もハロウィンは終わっていく。この時期になると、いろんなお店に置かれている、百円均一で売られているジャックオーランタンの小さな容器。手のひらにおさまるそれを、僕はかつて、学校のトイレに配備していた。中に芳香剤を入れ、目にも鮮やか、香りにときめくようなファンタジックな空間を演出していた。ある時期、僕は2階の男子トイレの管理担当になった。トイレは、どの生徒も掃除するのが嫌な場所である。また、なんとなく居心地のわるいところでありながら、腹痛や体調不良と戦う大事な場所でもあった。だから、トイレをなるべく清潔に、快適にするために、僕は装飾と備品の整備を行なった。殺風景でモノクロな空間よりも、多少の彩りや植物があった方が、汚したくないと思うだろうし、きれいにしたいと思うのではないか。また、その場所に落ち着いていられるのではないか。清掃用具も自費で整え、洗面所が水浸しにならないようにかわいらしいタオルを置いた。そして、毎日その場所を確認する中で、どのようにすれば清潔に、快適に使用できるのかを、日々試行錯誤していた。その時に、百円均一にはずいぶんお世話になった。安価で多様な清掃用具やインテリアを入手することができる。その中で、この時期に飾っていたのが、ジャックオーランタンだった。だから、今でも売られているこのロングヒット商品を見ると、僕はなぜか、トイレを連想してしまうのだ。


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吉村ジョナサン(作家)
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