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僕は怒りっぽい

僕たちは、なんて大きなものを抱えて生きているのだろうと思う。インターネットの先の世界は大きそうに思えるけれど、実際には現実の世界のほうが、ずっとずっと大きくて広い。そして現実にはそこに「重み」がのしかかる。僕たちは、インターネットよりもはるかに壮大な世界で、とてつもなく重たいものを抱えて生きている。それはそう簡単には手放せないもので、重たくて重たくて仕方がなくても、それを持ち続けるしかない。それが現実というもので、インターネットにはそれがない、もしくははるかに軽微である。現実を無視してインターネットに生きることと、インターネットを無視して現実を生きることのどちらが困難か。言われているほどインターネットは我々を縛り付けているだろうか。現実に比べれば、はるかに軽微ではないか。我々は肉体の牢獄からは、未だに解き放たれていない。我々は資本主義という比較的新しいものからさえ、抜け出せていないのだ。インターネットによる新たな価値観も、どれほどドラスティックなものだろうか。結局は資本主義からすら抜け出せず、ましてや現実の牢獄からは一瞬だって出られないのだ。そんな中で、何をインターネットにこだわっているのだと思う。たかがインターネットである。そこには、この世界と比べれば、はるかに何もない。インターネットが目の前にある限り、本当に何もかもが見えていない。盲目であろうとするあまり、人は目を閉じてしまう。

久しぶりに赤坂達三さんのクラリネットを聴いている。確か高校か大学の同輩かなんかが好きだったような気もするけれど、あまり覚えていない。そのころいくらか聞いたけれど、それ以来ご縁がなかった。それでも覚えていたのは、甘い、甘すぎるほどに甘い音色と音楽。とにかく甘いのだ。甘いマスクだけではなく、演奏もとてもスイートである。久しぶりに聴いてもやっぱり素晴らしい音楽で、特にことの音色と表情はなかなか出せるものではない。ピアニッシモの音色が本当に秀逸だ。クラリネットでこんなに抑揚をつけられるのかってくらいにものすごくデュナーミクの幅が広い。ぜひとも生演奏で聴いてみたい演奏家の一人だ。

『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在』(稲田豊史,2022)を読了。とてもとても勉強になった。これは筆者自身も言っていたことだけれど、我々はどうも映画を早送りで観る若者を頭ごなしに否定してしまう。けれど、よくよく話を聴いてみると、これは理解していく必要がありそうだと気づく。特に芸術家としては重大事である。さらに時間芸術としての音楽や文学を生業とする場合には特に特に重要で、この感覚を踏襲するわけではないけれども、その仕組みについて理解しておくことは、社会を眺める姿勢として必要だと思った。芸術はとても私的な感覚に依拠しているけれども、その鑑賞方法やマーケティング、批評の在り方には社会性を帯びる。鑑賞者や批評をどのように受け止めるか、どのような現象なのかの補正の手がかりとして、そのようなことに思いをはせることは必要である。まあ、その批評というものがもはやオワコンなのかもしれないという状況にあるのだが。ただ、最近生徒が言っているコンテンツへの言動がどうにも噛み合わないということに気づいていたので、その要因の一端を知ることができたような気がして、とても納得がいったのである。

そういえば、『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ヤニス・バルファキス,2019)も読み終わった。ギリシャの経済学者、政治家の書いた本ということが気になって一応手すさびに読んだ。わかりやすく書くというのは難しいことだと思う。わかりやすく書くということは、真実から遠ざかるということでもある。わかりやすくは、結局はわかりやすくなのであって、それは真実ではない。物語としては楽しめたものの、経済の話と銘打つには少々やさしすぎたかという印象。ただ、ところどころギリシャの話が出るのはおもしろかった。

今日は何とか明日消印有効のレポートを提出したので、ちょっと一息。さらに明日は実質仕事が午後からなので、少し余裕があった。そこで、久しぶりに大好きなカレーのあるカフェバーへ。そこでは写真展も開いている。僕はささやかな写真展が好きだ。公共施設のロビー、本屋や古本屋の片隅、飲食店の一角、それがたとえ一畳ほどのスペースであっても、その空間で表現された写真の世界に心が浮立つ。そのカフェバーは東京では大きい方だと思う。その壁が四面に渡って展示スペースになっている。そこには店主の取った写真が様々な大きさで並んでいる。写真は物理的な展示スペースに飾られると、データのままとは全く違った表情を見せる。大きさによって印象は違うし、印刷された紙の材質や厚みによっても違って見える。さらに、その展示の配置によって、そこに文脈やリズムが生まれ、それもまた一つの表現として楽しむことができる。

作品は、被写体、撮影者、鑑賞者の三つの要素によってその姿を変える。被写体自体の魅力を、撮影者がどのように捉え、解釈し、受け入れているかによって、その切り取られ方は変わる。さらに、それをどのようにレタッチするかによって、それはより意図した方向性を持った表現となる。ところが、それだけでは作品は完結しない。よく言われるように、作品の鑑賞は鑑賞者によって初めて完結する。往々にして作品の大部分は鑑賞者によって規定されているといってもいい。鑑賞者にどのような感性や嗜好があるのかということはもちろんだが、作品と対峙した瞬間にどのような状況にあったかも大きく影響する。例えば、午前の眠たい空気の中で出会うのか、昼のけだるい空気の中で出会うのか、夜のお酒の入った騒がしい中で出会うのかによっても違う。また、心浮き立つときに出会うのか、深く思い悩むときに出会うのかによっても違うだろう。クリエイターがどのような作品に仕上げようとも、鑑賞を決めるのは鑑賞者である。このあたりについても、最近悩むことが多かった。自分の作品についてどのようにすれば、どのように受け取られるのか。インターネットの波の中で、その受け取られ方に少々センシティブになっていたかもしれない。安易な言い方をすれば、大衆に迎合した価値観に思いを馳せていたのかもしれない。けれど、そのあたりは早々に思い直して、鑑賞者を意識したたたずまいは辞めた。というより、飽きてしまった。時折訪れる謎の鑑賞者を求める欲求は、大抵は飽きることによって失われる。すぐに、そういうことじゃあねえな、と我に返る。

久しぶりの写真展示を見て感じたのは、「コロナは去った」ということだった。前回の展示までの写真群には、どこかコロナ禍の苦しみややるせなさが、どこかノイズとして乗っかっていた。それもまた作品の魅力なのだけれども、どこか厳しさに似た、どこか棘の突き出したような空気があった。そして、その中にある小さな希望にスポットライトが当たったように感じられた。ところが、今回の作品群は、とても穏やかなものだった。まず、被写体の笑顔の質が違う。それまでの苦しみの中の笑顔ではなく、嵐の過ぎ去った後の、安堵の笑顔のように感じた。空気が柔らかく、穏やかさが広がっていた。その中でも、ややしんどさを感じる写真もあったけれども、それが際立つくらいには、全体的に穏やかさがあった。かつての写真が諦念だとすれば、今回は安堵のような響きがあった。先に述べたように、鑑賞は鑑賞者に依存している。だからこの感想は私の感覚や感情に依拠している。私は今日、おそらく数か月ぶりに酒をたしなんでいた。酒を飲んでもあまり酔うということをせず、最近はもっぱらひたすらに体調不良を引き起こす酒。酒を単独で飲んでも特段の楽しさを見いだせず、美食あっての美酒だと思う自分としては、その機会も少なくなってしまう。ひたすらに本に投資する自分の食費への投資率は低い。それでも、おいしいおつまみにつられて、ほんのグラス一杯だけ日本酒をいただいての写真鑑賞となった。そんな自分の得た感想が、安堵であった。もちろん、コロナ禍は続いている。しかしその中でも、「コロナは去った」と思いたい瞬間がある。もしくは、そう思い続けなければいられない日々がある。なんとなくそんなスローガンじみた言葉が浮かんだ。それはある種の嘘でもある。そもそも写真とは嘘である。芸術とは嘘であり、表現とは嘘である。同時に、それはある種の真実でもある。「コロナは去った」はまさに嘘と真実を示している。

推しという概念を用い始めてまだ二年くらいだけれど、推しは推せるときに推しておけ、というのが我が家の家訓だ。一人世帯なので、私だけの家訓だ。人は、簡単にくじける生き物だ。誰の励ましがなくとも自分の活動を続けられる人もいる。新しい活動に挑戦することができる人もいる。けれど、何かを続けたり、挑戦したりするには、誰かの励ましや、せめて「見ているよ!」が大きな力になると、教員生活を通してよくよく感じてきた。推しも、どんなに推されているように見えても、不安や孤独を抱えている人は多い。ましてや、思うような反応や評価が得られなくて辛い気持ちになっていることもある。そんなときに、誰かの励ましが効果的なことがある。それはなるべく他人である方がいい。身内ではない方がいい。案外身内には持続した支援は期待できないものだ。不思議なことだけれど。それよりも、全く見ず知らずの、でも応援してくれるような存在。利害関係のない存在が救いになることがある。それは、下心がないからだ。日々のコミュニケーションや関係性を維持する必要がない。必要がないのに、推している。家族だから、友人だからという理由がない。理由がないのに、推している。そんな存在が一人でもいてくれたら、活動を続けられたり、新しいことに挑戦したりできるものなのだ。しかし、ファンの中にはそれを形にしない、口にしない、アーティストやクリエイターに伝えない人も多い。いいねやハートを送ることさえしないこともある。それでも頑張れるほど、人は強くはない。それがわかるから、多少うざったいとか、場違いとか思われる可能性が少しあったとしても、僕は推しへの応援や反応をなるべくするようにしている。言葉にしなければ伝わらないのだ。それは恋愛だけの話ではない。自分にとって有用なコンテンツを提供してくれる、自分の好きな料理を提供してくれる、自分の励みになるような体験を提供してくれる存在は、思っているよりももろいものなのだ。

それにしても、なぜ人のことばかり助けようと思うのか。そんなことより、自分のQOLを上げた方が良いのではないのか。自分のことを大事にできないやつは、人のことを大事になんてできないというではないか。一つの要因に、僕が怒りっぽいということがある。僕はどうも、怒りっぽい人間である。人当たりはいいし、やさしそうですねと言われる。温和で怒りそうにないとも言われる。でも実は、けっこう常に怒っている。それも、社会とか、企業とか、文化とか、習慣とか、どうにもならなそうなことにばかり怒っている。たいていは怒る相手がいないようなことばかりに怒っている。僕はこの怒りを何とかしたくて、誰かを助けたいと思うのだと思う。怒りは自分だけのものである。誰かの置かれている状況などに勝手に怒って、勝手にアプローチし、どうにもならない現状を一層自覚し、さらに怒りをヒートアップさせるのだ。こうして文章を書いているのも、全ては怒りのためだ。僕はいつも何かに怒っていて、その怒りをなんとかしたいとの思いから、生理的な欲求から、人に対してアプローチをしている。これは非常に不健全なことなような気もする。はなはだ余計なお世話である。それでも、僕の不快感によって、僕は動かされているのだ。どうなのだろう。この怒りは僕を幸せにするのだろうか。どうもそれは怪しそうなので、この怒りをもうちょいなんとかできないか。自分のために、自分の幸せに喜びを感じられるようにすべきではないのか。そんなふうにも思えるのだけれど、この怒り、どうしたらいいんでしょうね。

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吉村ジョナサン(作家)
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