新たなる希望
ハトムギ美容マスクをしています。わかっています。個人的に気になっているのは、肌よりも輪郭だということも。それに気になるのが、薬指の爪のあたりが痛いことも。そのせいで、さっきからタイプミスが続出している。エンターキーの隣にあるカギかっこ(「)をひたすら打ってしまう。薬指をこんなに多用していたとは気づかなかった。
日付けを越えるくらいまでずっと調子がわるくて、ほとんど寝ていた。昨日のスクーリングの後から妙に心がくすんでいて、ちょっと落ちていた。今日は図書館に行って、レポートやって、近くの公園に行って、整体に行って、ポッドキャストの収録をして、本を二冊くらい読んで。その計画自体がオーバーだとはわかっているけれども、どこかで期待してしまう自分がいた。何に対する期待なのか。自分?
深夜になって、ちょっと楽になったので、少し記録している。いろいろ書きたい事があった気がするけれども、想像以上に薬指が使えないことが痛い。明日には良くなってるといいなあ。
丸一日は誰とも話していないし、言葉も発していないから、アウトプット欲はある。最近は意外にインプット過多だったのかもしれない。特に、自分の言いたいことを話す機会がほとんどない。話したい話題よりも、話すべき話題が多すぎて。そもそも半年くらいは、プライベートで誰かと話すことがほぼない。っていうか、ここ二年くらいは、ほとんどない。
もともとあることだけれども、僕は自分の話したいことを、気にせず話せるような人がほとんどいない。いないわけではないけれども、数年に一回くらいしか話さないような人しかいない。これは、結構リスクヘッジとしては甘すぎる。
だからこそ、日常的にこうやってアウトプットしていかないと、おかしくなってしまうんだと思う。特に、フラストレーションがたまっているときは、どんどん外に出していかないと、内側で負のループが膨らんで、一気に身動きがとれなくなってしまう。だから、ここ数日は特に気を付けて、一日に一回は気持ちや考えを文字にしている。それにしたって、レスポンスがほとんどない環境では、人に話をすることの百分の一に満たない効果しかないのかもしれない。それでも、やらないと、大変なことになるから、やっている。事実、大変なことになってしまっているのを感じる。
不安感が強いときは、何をしたって駄目で、負のループから逃れる手段は限られる。そのループがほんの少し和らいだときに、行動できるかが勝負だ。腹痛でどうしようもないときに、ほんの少し和らいだときに救急車を呼ぶことができるかどうか、みたいな。そのくらいにはシリアスで、辛い状況である。
これが病気によるものなのか、正常の範囲内なのか、それとも何か要因があるのかなんてわからないし、そのあたりを分類、分析することにはあまり意味がない。対症療法の方がまずは大事だ。もちろん、再発防止や対処法の選定のためには、ときにそれらを分類し、分析することも必要かもしれない。ただ、そんなことを一生の半分以上はやってきていて、その上での結論は、「そんな簡単にはわからんよ」ということだった。日々進化を続ける自分の取説は日々書き換えられるが、それにも限度がある。そのへんは、専門家の助けを借りながらも、ある程度省エネも必要だ。途方もない完全攻略本を作るよりも、さしあたりの対処を判断することにベットした方が良い。
実際、こうして書いているときは、とても気が紛れている。どこかの誰かに語っているような、時間的な拘束を感じる。そのことで、一定の意識の集中が得られる。わけのわからない堂々巡りの地獄からは、一端距離を置くことができる。とりあえずは逃げて、見ないふりをしているうちに、消えてくれることもあるのだ。もちろん、また書くことから戻ってきたら、地獄が待っていることの方が多いんだけれど。
やっぱり今はとても悩んでいるんだと思う。一番は、仕事だと思う。仕事のバランスのうち、賃金のステータスが低すぎるという件だ。それ以外の項目は大きく問題はないが、それなりに大変なこともある。その中で、賃金の問題がやっぱり出てくる。低賃金で働くことによって失われる自尊心が、未だに重くのしかかる。これは、長年に渡ってあるものだ。今に始まったことじゃない。教員時代の最初の三分の一くらいはそれを意識しなかったけれど、三分の二くらいは、賃金が低すぎることが精神的な負担になった。何せ、労働時間が長すぎるし、負担も大きかったのに対し、残業代はなく、決して高い月給ではなかったからだ。もちろん、かといって安かったわけでもない。ボーナスだってあった。けれども、それに比して時間も内容も負担が大きすぎた。その事実に気づき、傷つき続けた傷はまだ癒えない。今度もまた、同じような状況に陥っている。教育産業やベンチャーだから、というバイアスで我慢できていたものが、そろそろ我慢できなくなってきている。自分が大切にされていないということを、感じてしまっている。この気持ちは、自分の貢献度に比例する。自分が有能である、貢献している、という思いが強くなればなるほど、それに対するフィードバックの薄さに幻滅させられるからだ。前職を離れて2年以上が経ち、そろそろ社会的評価が上がっても良いのではないかと思いながら、現実は厳しい。厳しいというか、正当ではない。不当であると思う。正当に評価されたい。さらには、自分の方がうまくできる、自分の方が経験がある、という仕事や作品が評価されているのを見つけてしまうと、輪をかけて落ち込んでしまい、いらだってしまう。大人の僕はそんなこと気にするな、とにかく続けていれば、わかってくれる人は現れると言うが、子どもの僕は不快感をあらわにする。「もう、いいんじゃない?」って。
久しぶりにオラクルカードを引いたら、「水分不足です」というえらい具体的なアドバイスが出た。その通り。まさしく僕は水分が不足していた。お気に入りのデカビタのポカリ割りが、ポカリのストックが切れたことによって、できなくなったからだ。それに、一日中寝ていて、水分補給がおろそかになったことも大きい。こんなときは、飲み物を飲むことも、トイレに行くことさえおっくうになってしまうのだ。もう、その通りすぎて、恐れ入った。スピリチュアルにはある程度親しんでいるし、タロットカードや手相に親しんでいる。占いにはしょっちゅう行っていたし、スピ系の本も多少は読んだ。とにかくすがるものが必要な人にとって、スピリチュアルが救いになることは確かだ。ただ、ずっとそれを利用し続けるには、そこまで安定したものではない。多少調子が良い時や、逆にすごく落ちている時には、利用することは避けた方がいい。それでも、それにすがることで、その瞬間を乗り切ることができるのであれば、基本的には利用すればいいと思う。僕は最近は比較的調子が安定していたから、スピ系や自己啓発にはすがらないですんできたが、ちょっとここ数日は怪しいところである。スピ系や自己啓発の使いどころもわかってきているので、先日も久しぶりに自分に処方しようとしてみたが、人生の中でまあまあ多くのものを処方してきたことによって耐性ができているのか、あまり助けにならなかった。本屋に行き、自己啓発のコーナーを眺めてはみたけれども、あまり効果を得られそうな著作には出会えなかった。自己啓発は底が浅くて大衆的で即物的でわかりやすいけれども、だいたいのロジックは同じで、慣れてくると、新作であっても飽きやすいという性質を持つ。結局大事なのは文体やデザインで、ある種物語のように、心地よい読書体験をもたらすことが大事だと思う。だからこそ、非常に文章のセンスが必要なジャンルなのだと思っている。内容なんて、どうだっていいのだ。それで、今回の自分に合うような文体やセンスの本が見つからなかったのだ。
最近の僕は、とにかくフィードバックやレスポンスが欲しいのかもしれない。とにかく、なんらかの反応が欲しいのかもしれない。多分、日常でそれが不足しているから。仕事で多くの人に触れているようで、それらは大抵は受け身になることが多い。教育というのは、教師自身の内面を伝える場ではなく、指導事項を伝えることと、生徒の内面を受け取る活動がほとんどだからだ。結果、自分の表現の場だけではなく、それに対する反応も不足している。さらには、各種SNSでの反応もあまり積極的に、もしくは惰性的にでもいただけるアカウントではないので、自分の中の欲求を補完する手段としては機能していない。これはもう、しょうがないというか、アルゴリズムという名の偶然と、ある程度迎合した戦略と、継続の効果に身を委ねるしかないのだろうけれども。せめてこれが機能していれば、多少は気が紛れていたのかもしれない。しかしながら、多くの偶然の効果を待つのも、迎合的戦略に身をやつすのも、本末転倒というか、処方箋としては心もとないもののように感じられる。だから、大事なのはこんなものに期待しないことなのだ。もっと他に、希望を見出すべきである。そう、僕は新たな希望を探しださねばならない。新しい価値観、これまでないがしろにしていたものを見つめ直し、自分を再構成する必要に迫られている。それを知らせる不調なのではないかと、解釈した。
新たなる希望は、どこにあるのだろう。たぶんそれは、インターネットの中ではないような気がしている。だって、ここ二年はそのあたりでやれることはずいぶんしてきたから。だとしたら、大雑把なくくりだけれど、リアルな世界のどこかにあるのだろうか。僕はどこに行って、誰に会えば良いのだろう。昨日と今日でやっとマトリックス・レザレクションズを観終わったけれど、僕の前にもモーフィアスは現れてくれるだろうか。でも、彼なら言うだろうな。「君は、もう知っている」って。