蜜蜂と遠雷【読書のきろく】
音楽を通じて表現されているものを体感できる
読みたくて買ったものの、いわゆる「積ん読」状態だった作品。理由は、ボリュームある作品(文庫本で450ページ超の上下巻)で、できれば途切れずにゆっくり時間がとれるときに読みたいと思っていたから。
その時点で、読むタイミングは決まっていたようなものだけど、ちょうどそれを後押しするかのような出来事がありました。出版社の読書感想文企画で賞をいただき、なんと記念品として『蜜蜂と遠雷』オリジナルクリアファイルが届いたのです。3日前に。
「今読まないなら、いつ読むの?」と言われてるとしか思えません。
ということで、天才ピアニストが主人公の作品、というくらいの予備知識だけを持って読みました。
すごくおもしろかったです。
でも、読んでいるときには、とても不思議な感覚でした。「小説を読んでいる」という感覚が薄く、かと言って「音楽を聴いている」という感覚ではない。
「音楽を通じて表現されているものを体感している」
とでも言うのか、ある時はピアニスト、またある時は審査員、そして、観客となり、その空間を味わうような感覚です。
クラシックの音楽家や楽曲のジャンルを知っている人であれば、さらに味わい深いものになると思いました。いや、もしかすると、頭の中にあるそれらの音楽のイメージと一致したら心地よいけど、ズレていたら心が乱れるのかもしれません。主人公のひとりが、そんな影響を審査員たちに与えていたように。
僕は、名前を知ってる程度だったから、感心しながら物語の世界に浸ることができました。もしそんなことが可能であるなら、音楽を生み出す側と受け取る側それぞれで、読んだ時にどう感じるかの違いを味わってみたい。そう思わせてくれる作品でした。
演奏のステージ、そこに至るまでの各々の葛藤、互いに影響を及ぼし合う出会い。その時の心を動きを感じて、鳥肌が立つ場面がたくさんありました。でも、それと並んで、心に残った記述があります。
かつては歌というものは、記憶のためのものだったのだろう。叙事詩と呼ばれる、歴史を残すための記録代わりに歌い継がれてきたものに違いない。だが、やがてそれは変質してゆく-「その時何が起きたか」ではなく、「その時何を感じたか」が歌われるようになったのだ。人間がつかのまの生のあいだに体験する、普遍の感情、普遍の心情を。
>『蜜蜂と遠雷・下』p.303~304より抜粋
歌、音楽と同様に、小説にも通じるんだろうなと感じました。
冒頭のある場面で、クラシックピアノの世界と小説の世界が似ていると語っていたその影響も大きいと思います。
音楽は音のつながりで、小説は文字のつながりで、何かを表現しています。単体では何も表現できなくても、つながってフレーズになり、それが組み合わされて物語になっています。
見開きのわずか10数センチの紙の上に並ぶ文字は、もしも誰かのいたずらで奇数行と偶数行を入れ替えられてしまったら、もう物語は成立しません。どこかが抜けてもダメ。音楽も、音の順番が変わったら、別物になるでしょう。
あるべきところに収まるような働きがあるのでしょうか。
クラシックの世界と、天才と呼ばれるピアニストたちと、それぞれのオリジナリティと、絶妙に絡み合う物語になっているので、感動に浸りながらも、そんなことまで考えさせてくれました。
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