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[エッセイ]何者でも無い私

 何者でも無い私は、いったい何者ですか?

 親からもらった素晴らしい名前は一応ある。でも、私の名前は「誰かの奥さん、誰かのお母さん」でしかなかない。それは、まるで、重要な役割はしているんだけど、正式名称がわからない部品みたい。例えるなら、コンビニで売っているおにぎりを包んでいるフィルム。ご飯と海苔を別け、いつでもパリパリな海苔を食べられる、すごい発明品。正式名称はわからないが、かなりいい仕事はしている。私は、そんな感じ(笑)。けどね、ご飯ありきの私。海苔ありきの私は、ご飯と海苔に依存しながら存在しなければいけない。ご飯と海苔という『家族』が、私を必要としなくなったら、私の存在の意味が無くなってしまう。自分自身でも気付かぬうちに、そんな不安に怯えていたのだろう。そして、その不安を打ち消す為に「私がいなくなったら、この家は回らない」なんて、おこがましい考えを、頭の片隅に隠し持ってしまっていたんだと思う。

 誰かの何者かである為に、そして、誰かに必要とされる存在である為にしていた行動こそが「どうして私ばかりこんな面倒で大変なことばかりやらなければいけないの?」っていう苦しい状況を呼び込んでしまっていたんだと思う。

 『幸せな結婚をして、かわいい子供たちを育てる』と夢見ていた頃の母親像は、家事も育児も全てが喜びで楽しいと想像していた。でも、現実は、我慢と妥協と困難の連続。時間の余裕も、心の余裕もない。専業主婦を選択した私には、もちろん金銭的な余裕なんて皆無。それでも、みんなにいい顔をしたいから、世間が言う理想の妻と母親像を追い求め続ける。そうして、内側の本当の私とはどんどんかけ離れていくばかり。私の人生を生きているようで、何者でも無い誰かの人生を生きているようだった。

 あんなにイライラした日々を過ごしていたのに、それが当たり前になりすぎて、そんな状況がおかしいなんて一ミリも考えたことが無かった。今、考えるとテレビから這い出てくる髪の長いお姉さんの話よりも不思議で恐ろしい話だ(笑)。

 陰陽でいう人生の陰にいた私を、呼び起こす目覚まし時計が鳴ったのは、街中が静寂に包まれたコロナ禍だった。きっと、人の人生で数回しか経験しないであろう人生のビックイベントが、1年間という短い間に立て続けに起こった。「お願いだから、もう少し余韻を味わうぐらいの時間をください。」と言いたくなるぐらい、嬉し涙を流す日も、悲しい涙を流す日も、怒りの涙を流す日も、ものすごいスピードで目の前を通り過ぎいった。「精神的にも体力的にも、もう限界だ!」と耳を塞いでしまいたくなる程の、大きな音を立てて鳴り続けていた目覚まし時計がピタリと止まったのは、街に日常の賑やかさが戻りつつあった頃だった。子供達は学校へ登校し、旦那は会社へ行き、家に1歳の娘と取り残され、一気に無音の世界に連れて行かれたようだった。

 今、考えれば賑やかだった家の中が、急に静かになってしまい『空の巣症候群』になっていたのかもしれない。空の巣症候群とは、子供が自立し家を出ていった後に空虚感や喪失感を感じること。まさに、そんな症状が出ていた。子供達は学校という別の居場所があり、旦那も会社という別の居場所があり、それぞれが社会の一員として、それぞれの世界に戻って行った。明るく輝いた未来にどんどん前進していく家族から、私は一人、孤独と悲しみの闇に取り残された気分だった。

 しかし、それが長年の歳月をかけて『何者でも無い私』になってしまっている事に気づかせる為に起きた出来事だったのだ。
 好きなこともわからない程、自分を見失っていた私に『内なる声と深く向き合う時間』という、最高のプレゼントがもらえた。叶えたい夢から始まり、好きな事、苦手なこと、自分の取扱説明書、ふと感じた事、何気なく思い出した事、何でもとりあえずノートに書き出した。胸につっかえて苦しかったものを吐き出すように書き出した。弱音を吐くことが何より苦手な私が、溢れる想いを涙をボタボタと流しながら書き出した。

 悲劇のヒロインの催眠から目を覚ましつつあった私は、少しづつ本当の自分を取り戻すことができ、今度は、すごく恵まれた環境に、私を大切にしてくれる人々に、そして、頑張ってきた私自身に感謝の気持ちが溢れ出してきた。

 私は、書くことで自分を取り戻すリハビリをしている。このエッセイも私のリハビリ作品。まだ、好きなことで社会復帰をする夢を果たせてはいないけれど、こうやって世界の人々を繋ぐインターネット上で書き物を世に出すことは、もう一度、私自身として生きていく大切な一歩だと思っている。いや、そうなることを信じている。あんなにも、時間をかけて自分を見つめ直したからこそ、今度こそ、自分を信じ抜きたい。

 自分の事を信じられる私は、山あり谷ありの最高の人生ドラマを作ろうとしている私を諦めないし、見捨てない。

 何者かになる必要は、きっと無いのだと思う。何者でもないからこそ、何者にでもなれる無限の可能性があるということなのだろう。だから、私は私でいいの。何者でもない私の名前は『横山佳美』。

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