鮨の音色"おと" 第1章 〜生立ち〜
僕が立ち喰い鮨を作るまでの話
皆さま、いつもありがとうございます。
はじめての方は、はじめまして。
『麻布十番 秦野よしき』
店主 鮨職人 秦野芳樹です。
この度、2022年1月14日に当店のビルの真隣に、
立喰鮨をオープン致します。
『立喰 鮨となり』です。
最近は立喰鮨ブームでもあります。
都内でも、鮨業界の先輩方が何件か開店されて人気ですね。先輩方のコンセプトなどにも感銘を受けました。
私自身も、22歳の時に鮨職人を目指してからずっと立喰鮨をやりたいと思っていました。
今回、コロナ渦で色々なことを考えました。そこで得たアイディアを、隣の『立喰 鮨となり』で表現できる!と思ったので、やらせていただきます。
もう、ワクワク感がとまりません。
ある意味今までにないような立喰鮨を目指していきたいと思います。
鮨としての原点に立ち返りながらも、新たな提案を織り混ぜ、色々なことを感じられる店になれれば。
そしてなにより、『秦野よしき』では、私以外の人が握れる環境が整っていない。鮨職人を目指すのならば、陰での練習も大事ですが、お客様の前に立たせていただくことも、重要な修行の一部であると思っています。若手の職人にもっと握る機会を与えたい。そのうえで、広く自分の味を知っていただきたいと思います。
鮨業界の二極化
昨今は鮨業界が二極化していると感じています。そこで、回転鮨と高級鮨の間のラインが出来たらなと思いました。
新店舗『立喰 鮨となり』ではもちろんコースも作りますが、高級ネタから一般的なネタまでを一貫づつ召し上がれるよう、ご用意致します。
そこは皆さまに選択して頂ければと思います!
新店舗に関して詳しくは後ほど。
今回、初めてのnote投稿ですし、私の自己紹介含め、鮨職人としての歩みから新店舗へと至るまで、この辺りのお話を3章に渡り、投稿させていただきます!
よろしくお願いします!
第1章 私は鮨が好きだ!
味覚を磨く
私は生まれながらに喘息を持っていました。ただの喘息ではなく、2週間ごとに入院。毎朝毎夜、大量の薬を飲み、吸入をする生活でした。今でも、治療中ではあります。
幼少期は、強烈な匂いや排気ガス、強い味でさえ喘息になりました。
もちろん、食材アレルギーも。。。なんと醤油、そば、バニラ、サバ、酒粕など。
今から考えるとよく克服したなと思います。
母のおかげですね。
家庭科の教諭であった母が、自然に近いものや喘息に気遣ったご飯を作ってくれたのが良かったのだと思います。
ヨモギなどを摘みにいき、ヨモギ団子を作ったり、添加物を使わない食べ物を一緒につくったりしました。お節料理も全部手作りで、物心ついた時からずっと一緒に料理をしてきた記憶があります。
鮨はある意味、かなり素材に近い料理であったため、ちらし寿司などはよく食べてました。
今の『秦野よしき』のバラチラシなどやその他つまみ類も、その時期の母の作ってくれた味の記憶からの影響もあると思いますし、味覚の形成になってきたと思います。
ある意味、喘息ありがとう、と今なら思えます。
テレビを見る時は、料理番組か『料理の鉄人』。
もう大好きでした!
道場さんがカツオ出汁を作る所など、格闘技を観るみたいに興奮していました。
大学在学中に、色々と飲食店のアルバイトをしました。
その中でも、鮨は感動でした。
とにかくかっこいい。
キャリアの転機となった出来事がありました。ある日、地方の高級な鮨店に家族で伺ったとき、そこの職人さんがめちゃくちゃかっこよかったのです。
お客様と向き合い、話しながら鮨を握る。
みんな笑顔で美味しそうな顔をする。
とにかくかっこいい。
聞けば、超難関有名私立大学を卒業されて、その後修行し、7年間頑張り店を出したと。
わたしは、その当時、大学卒業してからでは間に合うような業界ではないと思っていました。ましてや、辛い修行が待っていて大学出のキャリアを捨てるという選択肢はない。そんな風に偏見を持っていました。
その方に全て覆していただきました。
「楽しいからね。楽しいを仕事にするのは辛いよ。なんも言い訳出来んからね。」
「疲れるよ!大変よ!孤独だよ。孤独だけど。10年後の自分が、頑張ってくれてありがとう。って隣で言ってくれるからな。」
またなんとも、かっこいい。笑笑
この言葉と目を見た瞬間に私は決めましたね。将来どうなってもこの道に進もうと。
修行&独立初期
大学卒業後、色々なことにカタをつけ、気持ちにもカタをつけ、修行に入りました!
最初の修行は白金の岡部さんのところで、それはなかなかの経験でした。
銀座すし幸本店、横浜そごう店の店長としてやられてた方で、昔ながらの方ですから、それはもう厳しい方でした。
ただ、
ここは母校で培った国士館魂と武道精神で学ばせていただきました!
その話はまたいつか。。。
修行時代にちょうどミシュランが始まって、でもお金はまだないですから勉強のために食べにもなかなか行けない。
あの有名店のアレが食べたいなぁー、
どんな味なんだろうなぁー。
毎日毎日想像です。
あの一貫だけでも食べたいなぁ
そんな思いを抱いていました。おまかせの料金を払うと家賃払えないし、みたいなことばっかり考えてました。
自分に投資出来る勇気がまだまだなかった時ですね。
今振り返るともっと使っとけ!!と言いたくなります笑
いつか独立したら立喰でその時の本気の一貫が出る店も作りたいなぁ、と
その時から思っていました。
あっ、その時はバリバリの赤酢派でした。
なぜかというとケータリングをやっていたからです。
早く独立したくて、お店が休みの日曜日を全部知り合いからのケータリングを入れたり、mixiで募集したり、名刺を作って交流会に参加したりと、とにかく、自分で握る場所が欲しかったんです。
自宅の一室に鮨屋っぽく場所を作ったこともありました。
この頃は屋台で食べられていた江戸時代の味を研究したり、ミツカンの中野又左衛門の虜になり、三ッ半山吹という赤酢(酒粕酢)を使い、ケータリングをしてパンチ力のある鮨を作っていました。正直なところ、赤酢のパンチ力が大好きで旨味が大好きでした。
それを2年やり続け、ご縁があり麻布十番、鳥居坂で店をやることに。
最初はお客様が0の日がずっと続いたりと、当時の私にはまだまだベースの修行が足りてなかったです。
それでも徐々に試行錯誤し、鮨屋とは言えないようなものもあえてお出ししたり、、、イタリアンぽくなったりした時期もありました。
そんな時期を乗り越えてきたからこそ、フラットに鮨を考えていけるようになったのかもしれません。
ストレスのあまり、腸閉塞で1回、胃潰瘍で2回入院しましたね。
今の勢いある若い職人さん、本当に尊敬します。予約びっちりですからね。
しっかりと学べる環境、いい親方との出会い、お客様との出会いがあったとも思いますし。
それを邁進出来る根性、力量が備わっていますよね。
出会い
話は戻りますが、自分なりのスタイルが見えてきたと思う時期がきました。値段からみても、コースの内容も面白く、変わったことも織り交ぜつつ、皆様にも満足して頂いていたと思っていました。
それでももっと経験を積むために、お客様からいいお店を紹介していただいたり、有名店の情報を自分で調べたりして、全国食べ歩きをしたりしていました。
その時、出会ったんです。
わたしに新たな鮨の道を照らしてくれた
札幌『鮨一幸 』工藤順也さんに。
道を照らしてくれたのは有難いのですが、
険し過ぎです!兄貴。。。
危険ですよ。
ネパールとかマチュピチュとかにある崖みたいな。
ここからのお話は、また次回。
お鮨の詳しい話も含めて。
☆2021年1月14日オープンです☆
『立喰 鮨となり』
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