GOLAZO #5
5.2022年 スターバックス
感染症の流行は二年では収束しなかったが、世間は「ウィズ・コロナ」という表現で日常を取り戻そうとしている。
二月ごろから急速に拡大した第六波と呼ばれている波も収まりきっていない。多少なりとも感染者数が減少しはじめた6月初めの木曜日、紅深はJR桜木町駅に降り立った。
桜木町は久しぶりだ。
1年半前に、就業先の通信販売会社が事業を拡大し、コロナ対策もあって部門別に部屋を分散することになった。その際、紅深の就業地が桜木町から新高島に移ったので、完全にみなとみらい線のみを利用することになり、桜木町で降りることは全くなくなっていた。
昨年、1915年の開業以来「永遠の未完」「日本のサグラダファミリア」と呼ばれ、いつ果てるともない工事が続いていた横浜駅の工事についにある程度めどがついたようで、西口の様子が一変した。
横浜ニュウマンができて、その中にシネコンのTジョイが入ったことが、紅深はなにより嬉しかった。
今日は仕事が休みで、息子は予備校だし、なんとなく映画でも見ようかと思った。去年は夫が家にいて収入も下がり、とても映画館に行く気が起きなかったが、今年は少しずつ映画館に足を向けている。
珍しく、いつものTジョイではなく、速水とも行ったことがある「ジャック・アンド・ベティ」で今やっている映画をみようと思ったのだが、電車の中で上映作品をチェックしたら観たい映画はすでに午前中の回が終わっていた。仕方がないので別の映画の都合のいい回を見ることにして、関内まで行くのをやめて、桜木町で降りた。
映画はなんでもよかった。
ジャック・アンド・ベティでやっている単館系の映画はだいたいはずれがないし、そこそこ楽しめるだろうという目論見もあった。
まだ梅雨前だというのにどういうわけか真夏のような猛暑日が続いている。
桜木町は、二年前とはずいぶん様子が違っていた。あの時は行きかう人々にどこか妙な感じが漂っていた。マスク姿は今も変わらないが、当時は緊張の気配というものがあったように思う。今はそれがだいぶ緩和され、マスクで半分覆われた人々の顔にも多少なりともリラックスした雰囲気が感じられた。リラックスというよりは、収束しないことで半ば諦めているのかもしれないが。
動く歩道に乗ったときは、ずいぶん音が静かだと感じた。昔は歩くたびに変な音がした気がする。
ふと目を挙げると、目の端に、空を飛んでいるかのようなロープウェイ、ヨコハマ・エア・キャビンがワールドポーターズ方面に向かって動いているのが見えた。
あ、去年できたと言っていたっけ、と思い、ワールドポーターズの映画館で『ロード・オブ・ザ・リング』を見たあの日が、速水の後を泣きながら歩いた汽車道のことが、鮮明に思い出された。
速水が生きていたら、あのロープウェイに乗りたがっただろうな、と思う。生きていたら85歳。うまく想像ができないが、きっと「あれに乗ろう」と言ったに違いない。
新しいものが好きな人だった。変わっていく横浜を愛していた。
思い立って、久しぶりにランドマークのスターバックスに入ってみた。広く明るくなり、内装も変わったが、一番変わったのは金額だ。懐かしくてソイラテにしたらトールは430円だった。いつのまにこんなに上がったんだっけ、と思う。速水の思い出がありすぎて、どこにいってもスターバックスにはあまり入らないから、隔世の感を感じた。
スターバックスだけではない。この頃は何もかもが値上げ値上げだ。
光のあたる半地下気味になったの窓際の席につく。マスクを外しながら、少しずつ熱いラテを口に運んだ。
結構一緒にでかけたのに、行き先はさほど多くなかった。結局スタバが一番懐かしい場所だった。
夫の三千年の両親は、八十代前半でコロナの直前に相次いで亡くなった。
速水は義理の両親と紅深の関係においても重要な役割を果たしていた。ある意味、三千年の両親に紅深を紹介して亡くなったようなものだから、紅深は義理の両親にとても大事にされた。
義理の父は速水とは公私にわたって苦楽を共にした仲間だった。義理の母が要介護になり、あれよという間に悪くなっていく間、義父は一人で義母を介護した。その後自分が要介護がついたときは、自ら施設に赴き、最後は施設で亡くなった。
三千年と義姉の万里子が同居を言い出す間もなかった、と嘆くほど、淡々と自らの行く末を決めてしまった。三千年と万里子は、速水の影響を受けたのだと口々に言った。速水の人生の仕舞い方があまりに鮮やかだったからだ。
最後に義父の見舞いに行ったときは、しきりに速水の話をしていた。紅深の顔を見たから、思い出したのだろう。
両親を失った後の三千年はさらに優しくなった。
仕事を変えようかと何度も迷っていたようだし、実際もしかしたら会社から退職や出向を言い出されるかもしれないと覚悟していた様子もあったが、何とか乗り切れそうなところまできた。
20年前、速水と旅行に行こうとしたときの添乗はイレギュラーなことで、彼の仕事は主に内勤だった。海外旅行は壊滅状態だったが、国内旅行はそれなりに需要があり、感染症流行の波にもまれながらも、なんとか生き残っている。
結局、スペインには一度も行けていない。
速水が亡くなった後すぐに結婚し、すぐに佑真ができたので、旅行どころではなかったし、速水が行きたがって行けなかったスペインに、夫婦ともに行こうという気にはなれなかった。
今がコロナ禍でなくても行けなかっただろうが、世界と隔絶したようなこの世界で、海外旅行などまだ夢の話に思える。
速水と最後に会ったのは、20年前の9月だった。
「きのこたけのこ」の見舞いの後、三千年にはしばらくプロポーズの返事はしなかった。ただ、少し時間が欲しいと言った。三千年は、待ちますと犬の目をして言った。
三千年が、紅深と速水について、どう思っているのかはわからなかった。
ただ、紅深には毎日通うような理由がないから、三千年が頻繁に一緒に見舞いに行こうと誘ってくれるのは本当はすごくありがたかった。
そんなに気にしなくてもよかったのかもしれない。
恩人の看病に毎日通うことは、不自然ではなかったのかもしれない。
でも、紅深には不自然に思えた。
それに、速水は紅深がしょっちゅう見舞いに来ることを嫌がった。三千年と一緒に来ることを、強く望んだ。
最初の見舞いの後、三千年と訪ねたときに、私毎日でも来ますよ、暇なんですから、というと、最初は笑っていたが、そのうち厳しい顔つきになり、じゃあ介護人として雇ってくださいと言ったら、真顔で断られた。
そして言った。
「ちゃんと仕事を探せ」
声が全く冗談の響きを帯びていなかった。
紅深が言葉を失うくらいには、真剣な声だった。
「ちゃんと仕事を探せば、まだ正社員で就職できる。ハローワークに行ってるんだろう。真面目に探しなさい」
命令口調に、何か反論しようとしたが、速水は突如、破顔した。
「だって東野。お前、毎日俺のところ来るのは、何が目的だ」
「何って」
紅深は、とっさに言った。
「後妻に入って財産を狙おうと思って」
速水は声を立てて笑った。想定していた問答のようだった。
「うん。お前の企みはわかってるよ。でも残念だな。俺はもう、財産なんて持ってねぇ。保険も入れねぇ。悪かったな。俺はお前の何でもない。だから来る理由なんて無いんだ。若いんだから、時間は自分のために使え。病院なんて来るな。俺に時間を使うな。三千年くんとデートしてろ」
何か言い返そうとしたのだが、その時は紅深は言葉に詰まって何も言えなかった。
俺はお前の何でもない。
その言葉が、突き刺さっていた。
速水は7月に手術を受け、その後、普通の病棟から緩和ケア病棟に移った。
手術の経過自体は悪くなかったようだが、開けてみたらもうずいぶん転移していたらしい。身よりがいないため、施設か緩和病棟かという話になって、結局直接緩和病棟に移ったらしかった。
そんな詳しい話も、結局は三千年から聞いた。
三千年の両親は、三千年と紅深とは別に頻繁に速水を見舞っていて、情報はだいたいそちらから回ってきた。速水は三千年と紅深には、自分の身体のことは本当に何も言わなかった。聞いてもはぐらかして、くだらない冗談にしてしまうのが常だった。
お見舞いの食べ物は全部、病棟の看護師さんや医師にあげているようだった。きのこの山も、葦も、最初からそのつもりだったらしい。その後も、紅深には見舞いのたびに、次はどこそこの何を買ってこい、という要求をした。我慢強いが案外甘え上手で口の達者な速水は、看護師さんや医師たちの細かい好みまで把握していて、人気があったようだ。三千年には、こういうのは「魚心あれば水心」っていうやつだ、大人には必要なスキルだぞ、と教え諭したらしい。速水らしいし、確かに人が善すぎる三千年には苦手な分野だ。やっぱり速水にとっては、三千年も紅深も子供のようなものなのだなと、それを聞いてまた落ち込んだりした。
敬老の日に見舞ったときは、身体を起こすことが辛そうだった。
いつもベッド脇に必ずと言っていいほど置いてあった本もない。写真もしばらく前から、仕舞ってしまったようだった。誰かに処分を頼んだのかもしれない。
それでもええかっこしいの速水は、三千年と紅深の前ではしゃんとして明るく振舞う。敬老の日に来るなんて嫌味か、と軽口をたたいたが、だいぶ弱弱しかった。無理をしているのがわかっていたから、顔を見ただけですぐに立ち去った。
あまり来るな、と言い続けたのは、ひとつは無理をしてしまう自分を知っていたからなのかもしれない。紅深も、きっと無理を重ねると思うと、強硬に見舞うことはできなかった。
敬老の日に病室を訪れてから数日後、紅深はひとりで速水の病室を訪ねた。
その年の夏は猛暑だった。前回の弱った姿がどうしても気になり、残暑に参っているのではないかと気が気でなく、衝動的に病室に突撃したのだった。三千年にも言わずに単独で見舞ったのは、初めてだった。
「なんだよおい、今日はひとりか」
と、病室に入ってきた紅深に言う速水の声が、心なしかかすれている。もしかしたら、緩和ケアで眠っているだけかもしれないと思っていたから、起きていた速水に会えてよかった、と少し安堵した。
「まだまだ暑いので、アイスにしようかと思ったけど、ヨーグルトにしました。LG21ですよ」
ああ、ありがとな、と速水は言い、点滴を気にしながらもぞもぞと身体を少し動かした。
が、いつもなら身体を起こして背筋を伸ばしてベッドに座る速水が、今日は身体を動かすことができないようだった。
いいですよ、無理しないでと、紅深は言えなかった。
そういわれるのが嫌いなのが分かっているから、言えなかった。
もうあまり経口で食べられなくなっていることは看護師さんから聞いて知っていたのだが、かといって食べ物をもっていかなくなるのがかえって速水に気を使わせそうで、食べ物を持参していた。このところは、アイスの実か、春に新発売になった健康志向のヨーグルトだ。
冷蔵庫に入れておきますね、と冷蔵庫にヨーグルトをしまったとき、速水が言った。
「なんで、三千年くんをそんなに待たせるんだ」
直球だった。
ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉め、しゃがんだまま速水に背を向け、べつに、会ったばかりなんで、と答えた。
初めて会ってから半年過ぎていた。
「お前の昔の熱い恋とやらは、そんなにお前を苦しめたのか」
声が出ないまま、振り返ることができない。これまで速水は、このことに対してそこまで率直に聞いてきたことはなかった。
「そいつは大悪党だな」
大正解だ。
「もう、いいだろ。じゅうぶん苦しんだんだ。忘れて、三千年くんと幸せになれ」
紅深は立ち上がり、作り笑顔で振り向いた。
「忘れましたよ。もう」
速水は紅深を見上げていた。目が笑っていなかった。
「それに幸せになら、もうなってます」
速水は珍しく茶化しもせず、黙っていた。
それが「三千年を指して言ったことではない」、ということは、どういうわけかまっすぐに、速水に伝わったようだった。
「なあ、東野。俺はお前と話すのがな、本当に楽しかったよ」
しばらくしてから、おもむろに速水はそう言った。
「カミサンの次に」
優しい目をしていた。
なぜだろう。彼に突然告白されたような気恥ずかしさがあった。気恥ずかしい。それは的確な表現ではない。喜びと、寂しさと、悔しさと、幸福と。すべての感情が、押し寄せたような感じだった。
言葉だけなら、まったくもって、二の次感があふれている。彼は奥さんだけが好きで、奥さんだけを愛していると言っているのに、どうしてなのだろう。
愛、という形にも言葉にもならないものがあふれて、止まらない。
「なんか、軽いですね」
涙が頬を流れて落ちたが、口は勝手に軽口を並べていた。
「だいたい、あれですよ。お前とか、昭和ですよ。今はもう平成なんですよ」
泣きながら、紅深は言った。
何もかも知り尽くしたような透明な視線を、受け止めきれずに紅深は泣いた。
そして、速水の手を握った。
今まで一度もしたことがない。やめろよと振り払われるかと思ったが、速水は振り払わなかった。黙って、紅深の手を握り返した。
かさついてはいたが、温かい手だった。手の温もりだけではない、なにか光のようなものが互いのその手に、満ちた。
「死ぬ前に、若い女に手を握られる、というのは、悪くないな。映画的に」
紅深の手を握ろうとしている彼の手には、あまり力が入らないようだった。
「若い、って言いましたね」
紅深は泣きながら笑って言った。
「東野。お前は面白い。面白いっていうのは、綺麗とか美人より、ずっと、優れた資質だ。もったいないんだ。面白い奴なんて、意外といないんだ。生きろ。死ぬな」
あまり長い言葉をいっきにしゃべることができないようで、少しとぎれとぎれの言葉だった。
死にませんよ、と言い返そうとして、やめる。
なんだその言いぐさは、と思う。
人を励まそうというのに、面白いから死ぬなとは。
励ますのはこちらのほうなのに、向こうから励ましてくるとは、なんだ。
「退職して、あの公園に、頻繁に散歩に行くようになって、お前を見かけて。気が気じゃなかった。何か、よからぬことを考えてるんじゃないか、と」
「そんなこと、考えていたんですか」
「うん。おおかた、失恋でもしたんだろうな、と思っていたから、本当に、失恋したと、分かったときは、やっぱりな、と思ったんだ。幽霊みたいな、お前のスマイルを見ていたら、これはただ事じゃないなと」
「なんでスマイルだけ英語?」
「はは。なんでだろうな」
速水は、よくしゃべった。しゃべるのがつらそうなのに、照れ隠しなのか、口が動いた。
「スペイン、行きたかった。お前と」
「私も、行きたかったです、本当は」
「夢をみたんだよ。アンダルシアの夢だ。俺はな、スペインに行ったことがない、というのは嘘だ。昔かみさんと行ったんだ。アンダルシア地方に、俺の先祖がいたらしい。どういうわけか、俺にまでつながった血が、俺で途切れた。カミサンが、ごめんなさいって泣くんだ。悪かったのは、俺のほうなのに」
紅深は、速水の声に耳を傾けた。
手を握ったまま、ベッドに寄り掛かった。
止めようとしても止められない涙が落ちて、速水のベッドの白い上掛けを濡らしていた。
「温泉、なんていったら、実現してしまいそうだった。だからスペイン、なんてとっさに口から出ちまった。三千年くんのことは、いつか紹介したいと思っていたよ。だってなぁ、あの子は、ラルフに似てるだろう、なんとなくさ。だから、紹介したかった、それは本当だ。でも先延ばしにしてたんだ。なんでかは、———さ。うん。まあ、そういうことだ」
そう言って自分の手を握りしめた紅深の手から、そっと抜け出すように手を外すと、速水は、ついにベッドにうつぶせてしまった紅深の髪をなでた。
「ヨーコの毛みたいだな」
速水の声は枯れていたが深く、紅色に染まった紅深の耳に届いた。
いつだって、どうしたって勝ち目のない戦いばかりしていた。
優の時もそうだったが、速水の妻にはとてもかなわない。負けて打たれて、諦めることばかりがうまくなった。
でも、この穏やかな気持ちはなんだろう。
優の時とは全く違うこの速水への気持ちは、限りなく近いけれど恋ではなかったような気がする。
いや。恋なんかよりずっと、大事な気持ちだった気がする。
この世ではどうにも時間がずれてしまった気がしてならない。
ただ、自分と速水が、本当に出会うべき人だったということだけは、今、はっきりと感じていた。
速水は妻と人生を分かち合い、自分と三千年も、これからの人生に寄り添おうとしている。それでもこうして、この人と会えた、という喜びがある。ほんのひとときだったが、一緒に時を過ごすことができたことが奇跡のように嬉しい。
ヨーコと。ラルフと。
犬の時間で、私たちは生きた。
紅深は、速水のベッドに顔をうずめていたが、気を取り直して体を起こした。速水の痩せた顔を見れば辛かったが、彼の眼は微笑んでいた。
「ラルフの動画、見ますか」
涙をこらえて微笑むと、にやりとした変な笑い顔になった。
でもいい。もう取り繕う必要はない。
紅深は、携帯電話を開いた。
速水に見せようと撮影してきた短いラルフの動画を、一緒に何度も、何度も繰り返し観た。
速水との別れはあっけないものだった。
あの後しばらくして危篤になり、面会謝絶になり、三千年から亡くなった、という連絡が来て、葬儀の日程を知らされた。
三千年の両親、つまり元職場の専務夫婦が気を利かせてくれて、親族として告別式と火葬にも列席させてくれるという話になった。
三千年の両親には、その時初めて会った。
専務の顔は知っていたが、近くで話したのはもちろん、初めてだった。採用試験の面接の席にいたかもしれないが、その時のことはおそらくお互い忘れているような初対面、だった。
それでも専務は、もうずいぶん前から知り合いだったように接してくれた。葬儀に参列させてくれただけで有難いのに、親族はいぶかることもなく、三千年といずれ結婚する相手として認め、恩人を悼む紅深の優しさを称えた。
紅深は、三千年の隣でずっとおとなしくしていた。
涙は、出たり、止まったり、出たり、止まったりした。
三千年は、時々、紅深の手を握った。
紅深の心の中は、速水で満たされていたというのに。
それでも三千年の手は温かかった。
速水の財産のすべては、遺言によって綾部家が法定代理人とともに処分することが決まっていた。速水は生きている間に成年後見人を決め、土地家屋は手放していた。数は少ないながら親戚はどこかにいるのだろうと思っていたが、親兄弟が戦争や病気などで死んでいて、本当に誰もいなかった。
天涯孤独、というのが、こういうことなのだと、初めて知った。
戸塚の斎場で葬儀が終わって、骨壺は綾部家が引き取っていった。
電車で帰ると言ったのだが、三千年が車で送ってくれることになった。
「疲れてるのに、ごめんね」
というと、三千年は疲れてませんよ、と言った。
葬儀のあれこれで、綾部の両親と姉から、思い切り使い走りをさせられているのを目撃していただけに、なんだかいじらしかった。
長後街道から国道一号線に入って、バス通りを南へ向かった。
帰って部屋にひとりになるのが、少し嫌だな、と思っていた。
ラルフがいるから、帰らないという選択肢はない。本当は、ラルフも列席させたいくらいだったが、一応、ペットホテルに預けてきていた。
「速水さん、財産のほとんどを、盲導犬の団体に寄付したんだそうです」
運転しながら、三千年が言った。
「ふうん。そういえば保護団体にはあんまりいい顔してなかったな」
「良くない団体もあるから、って言ってました。それに、保護団体が保護を強化することで、捨てる人が減らないとも言ってました」
「逆説的だね。そういう見方もあるのかな」
少しぼんやりと、返事をした。なにか話していないと落ち着かないから話している、という感じの会話だった。
「最後、いつ会いましたか」
三千年に聞かれて、少しはっとした。
国道一号沿いに並ぶ店に、視線を飛ばす。
「えっと……」
「答えにくい質問ですか」
三千年は、少し怒ったように言った。
「ごめん。黙って行っちゃって。なんか、気になったから。元気なさそうで。敬老の日の後、行ったの、ひとりで」
「問い詰めているんじゃありません」
三千年はそういうと、ハンドルから左手を話して、紅深の手を握った。
「ただ、あの日ぼくも」
その言葉に思わずはっとした。
彼の横顔を見た。
「夜、行ったんです。それで速水さんが、今日東野がきたんだぜ、って。何も知らなかったから、ぼく」
急に胸が早鐘を打った。
惚れた腫れたの話などしていない。が、三千年に対し後ろめたいような、妙な感覚があった。
「ごめん」
何といえばいいかわからなかった。適切な言葉を探せず、紅深はとっさに謝っていた。
「いいんです。別にぼくに、なんでも報告しなくちゃいけないとか、そんなことないんだから」
三千年の声にじわりと嫉妬がにじむことを、紅深は嬉しいような、うっとおしいような思いで受け止めた。
「元気なかったよね。常務のいつもの冗談も、キレが悪かったよね、あの日は」
そう言って紅深は三千年の手から逃れようとしたが、三千年は手を離さなかった。
死の床にあった速水と紅深の間にたとえある感情があったとしても、それを深めていくほどの時間も体力も残されていなかった。ただ、消えそうな炭火の残り火のようなもので、そっと暖をとったようなものだった。
しかしあの時間は、紅深にとって特別だった。ある意味、神聖、といってもいいものだった。
「速水さんのことは、いいんです。なんか、ふたりの雰囲気って独特だったから。でも、紅深さんが前に恋愛してたっていうのは、速水さんから聞いてて。その。ぼくとしては、そっちのほうが気になる、というか」
「ああ。そっちか」
紅深はため息を吐いた。
それこそ、今となってはどうでもいいような話に思えた。
速水とのことを恋愛として勘定に入れるつもりはないが、紅深は速水から愛、というものを教わった。彼と出会ったことで一足飛びに大人になった。そんな気がしていた。
こうなってみると、もはや優のことなど、前世の話のように感じられる。
「私、ひどい恋愛してたの。10年も」
10年、という時の長さに、さすがの三千年も驚いたようだった。
「別れたときは、死んじゃおうかと思うほどだった。でも、ラルフと常務が救ってくれた。男の人がどう、っていうより、人間が嫌いになりそうだったけど、誰かを好きになったり、信頼したり、そういう気持ちを、ラルフと常務が取り戻してくれたんだと思う」
三千年は、黙って運転していた。そしてしばらくの沈黙の後、手を離すとハンドルを右に切った。
「こんな私なの。こんな人間なの。だから、三千年くんに相応しくない」
「ぼくに相応しい、ってなんですか」
少し怒ったように彼は言った。
「それが、今までちゃんと答えてくれなかった理由なんですか」
「うん。だって、嫌だよね、こんな話」
紅深が彼の顔をうかがうように尋ねると、三千年は少し泣きそうな顔になった。
「ぼくが聞きたいのは、紅深さんが、ぼくのことを好きかどうか、ってことだけです」
好きか、どうか。
そんなこと、好きに決まっている。
でもそんなおぼつかない気持ちだけを頼りに、一生を共に過ごすことを選び取れるものなのだろうか。
紅深は前の恋愛ですっかり魂を傷つけてしまって、速水とラルフが必死に修復を手伝ってくれても、ようやく、なんとか、生きていく、ということができるようになったところだった。
三千年の決断は、あまりに早計な気がした。
「三千年くんは」
思わず、聞いていた。
「それを確かめて、どうするの」
「どうって。どうもしないし、どうでもいいです」
急に、三千年は言った。
「ほんとは、ぼくが紅深さんを好きなら、それでいいんです。でも、あなたがぼくを何とも思っていないのに、ぼくの好きだけ押し付けるわけにはいかないでしょう。ただ、ぼくは始めたい。あなたと、始めたいと思ったんです。あなたがぼくを好きなら、そこから始められると思った。過去に囚われずに」
紅深は彼の本気を感じた。
感じたが、それでも紅深は抵抗した。
「ねえ。それは、常務がいたからなんじゃない?常務が三千年くんに私を引き合わせて、その後常務はずっと具合が悪かったから、まるで私のことが常務の遺言みたいに感じているだけなんじゃない?責任を感じることなんて、ないんだよ?」
「紅深さん」
三千年は、声に少しだけ、憤りをにじませた。
「ぼくは自分の一生のことを、責任感で決めたりしません」
彼がこうまではっきりと自己主張したのは、その時が初めてだった。
「初めて会ったとき、ヨーコちゃんに似てるって思いました」
そういえば三千年は、ヨーコのことを知っているのだった。
そして、ふたりとも、まさかの「第一印象、犬」だったことに呆れた。紅深も、初めて三千年にあった時、ラルフに似ていると思ったのだった。
突然、ヨーコとラルフを結婚させようぜ、と言った速水の顔がフラッシュバックした。
絶対、相性がいいと思うんだ。
まさか紅深と三千年のことまで考えていたとは思わないが、でもきっと、速水も紅深がヨーコに似ているとどこかで思っていたのだろう。
ヨーコの毛みたいだ
そう言って、紅深の髪にそっと触れた速水の手を思い出した。
「速水さんはいつもヨーコちゃんの自慢ばかりしていたから、それは洗脳と言えば洗脳だったのかもしれませんが、ぼくはあなたに初めて会ったとき、本当にそう思ったんです。可愛い、ずっと一緒にいたいって」
か、可愛い?
「そ、それは、犬的に?」
「そうですよ。それ以外に何が?」
運転しながら、真剣な顔で三千年は言った。
彼もたいがい、変わっているのだと知った。
そして、紅深はようやく、これまでの自分が本当には何も始めていなかったことに初めて気が付いた。
何かを始めて、ちゃんと続けているのは、ラルフとの生活だけだ。
「10年」
色々口に出して、恥ずかしかったのだろう。少しぼやっとしていた三千年は、えっ、とフロントガラスから前方を見つめたまま問い返した。
「私、10年、恋愛した気になってた。でも、何もしてなかった。確かめなかった。始めなかった。今の三千年くんみたいには。すごいね。・・・すごいね、三千年くんは」
盛大に涙を流し始めた紅深をどう思ったのか、三千年はふと、次の信号でまたハンドルを切った。完全に、Uターンしていた。
「もう少し、ドライブしませんか」
泣きながら、紅深は笑った。
泣いたのは、今泣いたのは、悲しいとか辛いからじゃない。
気づいたからだ。
速水は、紅深に最後まで確かめさせなかった、と気づいたら、胸が締め付けられるように切なくなったのだ。
始めなかった。速水は、紅深と。何も。
こんなに心が結びついたのに、速水は他人のまま逝ってしまった。自分を置き去りにして捨てた優と同じ、真っ赤な他人のままで。
「いいですか。高速、乗っちゃいますよ」
三千年は横浜に向かっている。
なんだかんだ言って、彼は決断が速い。結局そして、それが正しい。
「喪服だけどね」
洟をすすりながら、紅深は言った。
今日が速水との別れだなんて、今、初めて知った気がした。
実感がなかった。今の今まで。
「ダメですか」
「ラルフのご飯もあるけどね」
ぐずぐずした洟を何とかしなければいけなかった。
「ダメですか」
再三、ダメかダメかと問いかける三千年の声を聴きながら、ごそごそと手で探ったバッグの中には、ティッシュもハンカチもなかった。ハンカチも入っていないなんて、葬儀に行く時にあり得るだろうか。
忘れて来たのだ。葬儀場に。
「ねえ、三千年くん」
「はい」
「敬語やめない?それで、車にティッシュってある?」
三千年は少しだけ笑って、ありますよとダッシュボードを開けた。
***
ずいぶん長い間、物思いにふけっていた。
目の前のラテはほんの親指分くらいの量を残して無くなりつつあった。
いつもは座ったとたんにスマホを触るのに、今日はそんな気分ではなかった。店内や窓の外を眺めながら、ぼんやりとしていた。
ようやくスマホを出す。
サッカーの日本代表が強化試合でブラジルに負けたニュースが入っていた。
2022年。そういえば、今年はワールドカップの年だった。
20年前のあの日、速水とワールドカップの話をしたな、と思い出す。速水はサッカーが好きだったから、速水とはサッカーの話をよくしていた。
2002年、オランダには小野がいて、スペインには城がいた。
あのころは日本でサッカーそのものが熱かった。
Jリーグができてすぐの1994年のドーハの悲劇を引きずって、1998年のフランス大会で初めてワールドカップの本選に出場してから、2002年は初めて自国が開催国となる日韓合同ワールドカップだった。
優は別にサッカーは好きでも嫌いでもなかった。
ただ、お祭り好きだったから、日本中がニュースに湧き立てば一緒に盛り上がって顔にペイントしたりするようなタイプだった。今風に言うと、一種のパリピだったのだろう。
結婚してからは、すっかり野球ばかりになり、夫は佑真とよく観戦に行っている。感染症が流行してからは、佑真が浪人生になったこともあって夫はたいていひとりで観戦に行く。夫は紅深に一緒に行こうとは言わないが、紅深のほうから、たまにはつきあう。
サッカーからは遠ざかっていた。
それでも、ワールドカップだけは必ずチェックする。
窓際だが半地下なので、エアコンの効いた店内にいると外の暑さを忘れそうだ。夏でもないのに、街の人々は半そでの人も多かった。店内の人々の服そうもてんでんばらばらだ。
ふと、奥のほうに、こちらに背を向けた初老の男性の背中を見つけた。
目を細めてみる。
速水に、よく似ていた。
姿勢が良く、ほどよい禿頭の残りの髪の毛が丁寧にカットされ、長袖のシャツを着ている。
光に包まれたその人は、本を読んでいた。
あの日の速水のように。
突然、胸を突かれたように涙が込み上げた。なんとか唇を噛んで我慢して、涙はこぼれなかった。
もう20年も経つ。20年経っても、速水の存在は紅深の心を震わせるのだなと思う。だって心の中で、彼の場所はいつも光っているから。
頭が、じゃない。いや頭も光っていたけれど、そうじゃなくて。
速水のいないこの世界で紅深は、孤軍奮闘している気がする。別になにとも戦っていないのだが、ただそんな気がする。
たとえ三千年がいても、彼がどれほど寛容で優しくても、子供がいても、親が健在でも、それとこれとは違うのだ。
速水は速水の光で、紅深の行く道を照らしてくれた。
彼にしかできないやり方で。
そしてたったひとりで戦う紅深に、今も光を与えてくれている。
ありがとう、と、心の中で速水に言う。
「ばっかお前、そういうことは生きてる時に言えよ」
想像の速水は目の前に歩いてくると目の前に座り、そう言って笑った。
65歳。若かったな、と思う。
本当に、ずいぶん若かった。
あのころは紅深も若かったから、65歳は相当に年輩だと思っていた。もう50歳になろうとする今となっては、亡くなるのがあまりに早すぎたとしか思えない。
ずいぶん高ぇなぁ、ぼったくりだろと言いながら、ソイラテを飲む速水の幻影を、紅深はみつめた。
ありがとう、常務。
私はあの時の常務の年に、どんどん近づいているよ。
おばさんになったよ。おばさんに、なれたよ。
常務のおかげで、生きてこられたから。
ねえ常務。
今から、映画を見に行くんです。
常務の好きな、金熊賞の卑猥なヤツか、パルムドールのフランス映画。
どっちがいいですかね。
どっちでもいいですよね。
胸の奥で話しかけた声は、微笑みを残して消えてしまった速水の幻影と一緒に、窓から差し込む光の中に吸い込まれていった。
<FIN>
※「GOLAZO(ゴラッソ)」サッカー用語。
スペイン語で「最高のゴール」。