夢
夢を見た。
息子の学校に進路関係の書類を提出しなければならず、いまどきありえない分厚い書類の束を持ち学校に行った。
提出期限は過ぎていたかギリギリで、男子校なので結構な数のお仲間の母達が列になっている。
私の番が来たが書類は白紙だった。
なぜ何も書かなかったのかわからない。出なおしますと言い、書類を先生から奪うように、列を離れ帰宅しようとした。
夢なのでそのあとが曖昧で、場面が飛び別のストーリーが展開したが、気づくと私はまだ学校の中にいた。まるで別の場面はなかったかのように、私の番が来て机に座り、先生と対峙していた。
先生が、提出は今日ですから、この場で書類を書いて提出してくださいと言う。
なぜか私は渋った。
渋る必要なんてない、というかそんな余裕はないのだ。提出期限なのだから。
すると先生は、かつて息子の成績表に記載されていたことのある学年順位を、でかでかと書類に書いた。それは学年の人数そのままの数字だった。そして言った。
あの子はあの子なりに頑張っています。頑張っているように見えないかもしれないが頑張っています。わたしはあの子が好きですよ。
現実世界で似たようなことを言われる時は、決まって「子は親の敷いたレールの上を走っていかない」だの「でも〇〇だから△△よりマシじゃない」などといわれ、慰めてくれているのだと有難く思いながらも、他人のことだしそんなんしゃーないじゃん的な匂いを嗅ぎ取り、何よりそんな言葉では何も解決しないから、モヤモヤするのが常だったが、夢の言葉はすうっと沁みた。
先生は、実際のクラス担任ではなく、おじいさんだった。禿頭に近く、小柄だが、人生経験を積み重ねた落ち着きと深みを感じさせる佇まい。
先生、ありがとうございます。
夢の中で、私は泣きながらそう言っていたな。あの人は私の中の「師」のイメージの集合体なんだろう。
実際、生活の中で同じ言葉を言われたことがある。師の言葉は私の中にすでにあった言葉だろうし、子の現状を認めたくない気持ちが、自分の中にあるから、こんな夢を見たのだろう。
私は自分の子はまだ頑張っていないと思いたかったのだ。本来持つ力を発揮していないだけなのだ、努力して頑張ればできるはずだ、さらには心身健やかでそれなりの学校を出て社会に出、社会に役立ちよき伴侶を得る子でなければと思っていたのだろう。それが「普通」なのだから、我が子は「普通」でなければならないのだから、と。
それは「幻の子供」であり、私のエゴの結晶である。凝り固まった自分の理想、欲望をスタンダードと取り違え、他人と比べ、こうあらねばならぬ、普通と同じであれと強要しているのである。
それを諾々と飲む子などいるだろうか。
なぜいつまでも「幻の子供」の幻影に縛られ続けるのだろう。
なぜ子供をただ、あるがままに受け入れられないのだろう。
振り払っても振り払っても、その幻の子供は眼前でにこやかに笑い、おまえの力が足りないからこうならないのだと私を責める。
子は母親という運命を背負い、母性は時に夜の女王となり、超絶技巧のコロラトゥーラで締め付けてゆく。子も、母自身も。愛ゆえに。
物事はシンプルだ。頑張っていないように見えても頑張っている。それが他人の目には怠けているだけにしか見えなくても、他人さまのレベルには遠く及ばなくても、本人は一生懸命人生に立ち向かっている。生きている。そのことを認めることがスタートで、そして誰かが、誰より私が、彼を好きなこと、それが最も肝心なことなんだと思う。
違う人間だから、性格の合う合わないはある。理解できなくて当然だ。それでも丸ごと好きになれる可能性がある。産んだその日から別個でも、親子は心の臍の緒で繋がっていると教えてくれたのは、かの先生だったか。
いつくしむこと。
執着と嫉妬、傲慢と支配を超えて、ただ存在に感謝するという、いつくしみ。
子が親の鏡ならば、親が先に変わればよいはずだ。そうすれば鏡の像も変わる、理屈ではそうなる。
まずは親が自分を正しく慈しむこと。それは実際、とても難しいことだ。自分が抱え込んであえて直視しようとしなかったことを、改めて取り出し再検討しなければいけない。心痛も肉体的疲労も伴う。
しかしそれに気づくと、——変わるということが大変なことだと気づくだけで――子に強要しようとしていたことの大きさに気づく。放任も干渉も、自らを大切にすることに繋がらないのだから。
全肯定でも全否定でもなく、わがままでも自己犠牲でもない。
ただ、大切にするということ。
おそらく私は忘れていた何かを、夢にみたのだ。
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