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紛うことなき真理というものがさもあるかのように振舞っている動画が再生数を伸ばしているのを見るのは怖い、とシグマちゃんは言った。手の中の平べったい世界の中でシグマちゃんがひらひらと手を振る。事実や真実じゃないのよ真理、と、しっかりとメイクしたシグマちゃんの目元がアップになり、エフェクトされた「真理」という文字が重なった後、通常のシグマちゃんのアングルに戻った。
ハートのマークを押すと、ハートがぽよんと飛び出していく。今日投稿されたばかりのリールなのにもう何千回も見られている。リボンのしおりマークを押して保存する。
シグマちゃんは自分の哲学を語る。誰にもこびないところがいい。シグマちゃんは私の生活の中に入り込み、動画を観ない日が一日たりともない。親の顔より見ているとはよく言ったものだ。
今朝は東京でこの冬一番の寒さですと天気予報のお姉さんが言っていた。
私は小学生の時から私立なので電車で通学している。中学からは中高一貫の女子高だ。毎日、深夜に投稿されるシグマちゃんの動画を見てから学校へ向かう。いつもと同じ駅、いつもと同じホーム。いつもと同じ女性専用車両に乗って学校へ行く。ほぼ同じ顔ぶれが立っていたり座っていたりする。強制力はないらしいけれど、少なくともこの車両に男性はいない。すっきりするような、気持ちが悪いような、変な気持ちになる。
物心ついた時から父親はいないし、私は男がどんなものかまるっきりわからない。学校の先生や、映画やドラマ、漫画やアニメやアイドルの男の子が、私の世界の中の「男」だ。私は知りたがりだから、人類の半分の人たちのことを良く知らないことについてはとても残念に思う。なんというか、虚数みたいだ。「おんな」は実数で、「おとこ」は虚数。私は実数だけの世界で生きている。何不自由なく。
電車に乗ると数列のことを考える。この電車は8両編成で、乗客数はたぶん一両につき3桁。3桁の数字が8個並んでいると仮定する。この場合の数字は乱数だろうか、それともランダムに時々同じ数になるのだろうか。案外、毎日毎日同じ数だったりするのだろうか。いやさすがにそれはないだろ。いや、無いのだろうか、本当に。ありうるのだとしても、誰もそんなこと毎日調べない。無意味な数。総乗客数なら履歴でカウントできるのかもしれないけれど、改札を通った人が必ず電車に乗るとは限らない。忘れ物を思い出して引き返すかもしれないし、お腹が痛くなって1本電車を見送ることだってある。どちらにしても、数列に虚数が混じると面倒くさいな。だから電車の数列で男女の別は考えない。ヒト。それでOK。
真理ってなんだろう。真理って言うのは変わらないこと、真実は嘘が無いこと、とシグマちゃんは言った。「真理がさもあるかのように振舞う」ことをシグマちゃんは嫌悪する。「さもあるかのように」ということは本当は「ない」ということと同義だよ、真理なんて本当はあるかないかなんて誰にもわかんないよとシグマちゃんは言う。
シグマちゃんの赤い唇は流れる水のように言葉を紡ぎ出す。
シグマちゃんはヤバいよね、とSNS界隈では噂だけど、どういう「ヤバい」、なのか私にはよくわからない。AIだという噂もある。このご時世、もはや動画では区別がつかないところまで来ているようで、もし本当にAIだとしても私には区別がつかない。目元がアップになっても、本物の人間としか思えない。少なくとも私の中ではシグマちゃんは実在の人間として存在している。シグマは詐欺師、と誹謗中傷している人もいるし、教祖みたいに崇拝している人もいる。儲け主義、という人がいちばん多いかな。自己啓発のノウハウを提供しているのかと思いきや、思わせぶりな話をして自分の再生数を増やして稼いでいる、というのが評価の大半。でもなによりシグマちゃんが美人なんだ。若くてきれいな女の人が頭までいいのを嫌う人は多いみたい。シグマはエロい、っていうコメントもいっぱい見かける。その辺はわたしにはよくわからないけど。
私は儲けとか自己啓発とかそんなのどうでもいいの。中学生だし。私はただ、信じられることがあるってことを信じられないから、信じられることを探している。今は「女=実数」の世界で生きている自分が現実に繁殖できるという気がしないだけ。まさに信じられない。別世界のことみたいに感じる。実数の女が虚数の男と子孫を残すことなんてできるのかな。愛って何。愛っていうことを考えると、私はいつも不安になる。
この前はそんな内容のことを「数列子」というニックネームでコメントしてみた。最後に付け加えた。「私はシグマちゃんを信じたいので信じていいですか」。どんなコメントでも、シグマちゃんはバカにしない。ついに昨日は、私のコメントを動画で取り上げてくれた。そして、すごいよねぇ、自分は中学生の時にこんなこと考えられなかったな、って言ってくれた。シグマちゃんがいくつなのかはわからないんだけど。肌がすべすべで、すごく若そう。
シグマちゃんは、マニキュアを塗った綺麗な指で、キュッキュッとホワイトボードに数式を書いた。
動画をみながら、私も思った。
私も愛してる、シグマちゃん。
ほらね、シグマちゃんは私の言葉をわかってくれる。そして希望をくれる。人を不安にさせたりしないんだ。だから好き。
数学と同じように私を安心させてくれるんだ。
そして私は今日も、女性専用車両に乗って、数列のことを考えながら女子中学校へ通う。いつか「imaginary number」 が「なあんだ、integerか!」と思える日が来るといいなと祈りつつ。
前回文芸部で「動画」をテーマにした短編を書いたときに、副次的にできた「動画」シリーズです。リケジョを主人公にしたかったのと、ただ「数式」を入れた文章を書いてみたかった、というそれだけで書きました。私自身はどっぷり文系なんで、あんまり突っ込まないでくださると有難いです(便宜上「数学が好き」タグをつけましたが、ごめんなさい。死ぬほど苦手です)。