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【創作大賞2024】眠る女 8

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8

 次の面会には、また優花里が来てくれた。
 あんな風に帰って行ったので、もう来てくれないかもしれないと思っていた。来てくれて無性に嬉しかった。
 カオルと優花里を、頼りにし始めている、ということ。葵にとってそれは恐ろしいことだった。それでも、面会に誰かが来てくれることは無条件に嬉しいのだった。

 すっかり筋力が弱ってはいたものの、車いすを使っていた前回と違い、今回は壁を伝ってゆっくりと面会室に向かった。おぼつかない足取りではあっても、自分の足で立って歩けるという喜びは大きかった。
 明るく清潔なカフェのような面会室は、光に包まれている。
 座っている優佳里のまわりに、光の粒子が見えた。おそらくは埃が日光の中に舞い上がっているだけだったのだが、それはなんだか神秘的な様子にみえた。
「ああ。よかった」
 葵に気がついた優花里は、穏やかにそう言ってほほ笑んだ。
「カオルは、まだ、いろいろ―――調べてるんですか」
 優花里の前の椅子をひいて腰掛け、挨拶もそこそこに、葵は尋ねた。
「うん。でも、なかなかはっきりしたことがわからないみたい」
 優花里は手土産の高級ゼリーの箱をテーブルに置き、これ病室で食べてと葵のほうにそっと押し出した。もう、そんなものをもらってもいいくらいまで回復したんだなと、他人事のように感心した。有難く頂戴する。
「ありがとうございます……カオルに、もう、いいって言ってください。仕事もあるでしょうし、大変だから」
 顔を上げてそう言うと、優花里は首を振った。
「私ね」
 彼女が、腹部を気遣いながら少し身を乗り出すようにして言う。
「カオルが、自分以外の人のためにこんなに一生懸命になっているのを見るのは初めて。だから、彼の好きなようにさせてあげてくれない?」
 葵は黙っていた。
 彼らは無償の奉仕をしている。それは、まったくの他人である葵に対してのどんな気持から発生しているのだろう。カオルの場合は、友情?愛情?優花里は、同情?憐憫?
 葵の心には、今ぽっかりと穴が開いていた。おそらくはもうすぐ退院するが、そうなったとして自分がちゃんと生きていけるかどうか、自信がない。仕事も失ったし、時生もいない。時生がいなくなったら、また寄る辺のない飲んだくれの自分が戻って来るだけのような気がした。
 どこかで、緩慢な自殺をしていたのかな、と思う。きちんと眠ることを拒否する身体は、同時に、食べることも拒否していた。
 眠っている間は、誰もが呼吸が浅くゆっくりとなり、体温も下がる。
 眠りは、死に近い。
 アフリカかどこかには、寄生虫による眠り病があって、眠ったまま二度と起きることなく死んでいく病気があるという。
 葵は、何度冬眠のような眠りになっても、必ず目覚めてしまう。なぜなのかわからないが、葵の身体は生きようとしているようだ。死へのあさましい欲望を嘲笑うかのような、猛烈な肉体の反撃。
「葵さん」
 黙ってしまって虚空を見つめる葵に、優花里は静かに声をかけた。
「あのね。私のお腹の子———夫の子供じゃないの」
 朦朧としていた葵の表情が強張る。やっと焦点をあわせて、優花里を見た。
「日本では、夫の生殖能力に問題がある場合、誰か違う、他人の精子を使って人工受精をするのはわりと最近まで無理だったの。技術的にはできるし、養子縁組という形で事実上は存在してるけど、でも、法律はちゃんと整備されていない。男性不妊って、知ってる?」 
 不妊症の原因が、男性側にある場合のことだ。ネット記事で読んだことがあった。
「今は、たとえ1つでも精子が存在すれば希望はあるって言われてる。だけど、夫は―――それに」
 優花里は言葉を切って、思い切るように言った。
「わたしたち、いとこでしょう。血縁の濃い結婚を、親たちは快く思わなかった。だから夫は海外で仕事を探して、二人でアメリカに行って、反対を押し切って結婚したんだけど、でも、子供のこととなると、恐くて。妊娠には消極的だった。でもある時、夫の身体のことがわかって。思い切れた。一時帰国で日本に帰ってきて、精子提供者から夫と容姿も経歴も近い男性の精子を買うことができたの。そして人工受精した。AID、っていうんだけど、知ってる?非配偶者間人工授精のこと」
 穏やかな声とは裏腹な、壮絶な話だった。肉体的にも、精神的にも、金銭的にも、かなりの犠牲を払ったはずだ。そこまでして、彼女たちは子供が欲しかったのだろうか。
「夫は仕事の都合で長くは日本にいられなくてすぐ帰ったんだけど、私だけ残って、何度か試して、ようやくうまくいったんだ」
 それはよかった、と、言っていいのかどうか困って、葵は黙っていた。
「この話、誰にも話したことない。話すこともないと思う。時々、秘密の重さに耐えられなくなる。この子は自分の子なのに、それは確かなのに、苦しいの」
「どうして」
 葵は、耐えられず口を挟んだ。
「どうして、いま、私に話すの」
「わからない」
 優花里は、かすかに涙ぐんでいた。でも、おろおろとうろたえているわけでもなさそうだった。彼女の中には、強くゆるぎない芯があるようだ。
「ずっと結婚を反対されてたから、アメリカではふたりだけで式を挙げたけど、事実婚だったの。AIDをすることを決めて、やっと日本で籍をいれた。確かに日本では法律はまだ整備されてるとは言えないけど、いとこ同士の結婚は認められているし、AIDだって、倫理的な問題なんてないはず、そう思ってた。でも、なんでだろう。たまに、急に恐くなる。べつに、悪いことをしたと思ってるわけじゃないの。ただ、生命の操作をしたんだな、って。私は、この子を、作っちゃったんだな、って」 
 葵は、優花里をみつめたまま、黙っていた。
 正常に妊娠、出産しようが、子供は親が勝手に作るものだ。人工的だろうが自然な生殖だろうが、変わりはない。葵は、心の中でそう思った。
 少なくとも、誰かがジャッジしていいことではない、と思う。いいとか、悪いとか。それはただ単に「好悪」の感情でしか語れないことのような気がする。時代が違えば、国が違えば、人の考え方も、常識も、法律すらも変わるのだ。

 望まない妊娠をする人がいるいっぽうで、望んでも叶わない人がいる。時生が「しない」と言った時から、葵もずっと考えていた。時生が「したくない」ということは、自然妊娠は望めない、ということだったからだ。
 親も親戚もいないし、会社にも言っていないから、誰かにハラスメントすれすれのことをあれこれ言われたわけではない。
 でも、考えた。考えてしまった。
 自分は子供が欲しいのか。時生の子供だから欲しいのか。時生の子供じゃなくても欲しいのか。それともただ「したい」だけなのか。
 病院で「作れ」ばいいのか。産んだ、という経験だけが欲しいのか。
 あるときは、そういえばそんなに子供が好きなわけじゃなかった、とも思った。それまでお酒も煙草も制限なしだったし、時生とふたり、生きていければそれでいい、と。親になって産んで育てても、葵の両親のように急にいなくなってしまうこともある。それでも産んでみたいような気がするし、子供がいたほうが「幸せ」なんだという概念から、なかなか自由になれなかった。
 何度も、自問した。
 なんだろう、この「産まなければいけないんじゃないか」という圧は。
「産まないという選択は損なのではないか」という考えは。
 考えれば考えるほど、袋小路に入っていった。
 そんな思考の隘路あいろの中で、ただ無暗に、妊婦が羨ましい、と思うようになっていた。
 だから優花里にも、実はずっと嫉妬していた。いいよね、普通に結婚して普通に妊娠して。めんどくさいことは考えなくてよくて。
 「幸せ」って顔に書いてある、そう思っていた。

 今の自分は、自分の意志とは別のところで、こうしてカオルや優花里や医師達に生かされている。あのとき、カオルが来なければ、葵はきっと部屋で死んでいた。今の葵は、優花里が宿した生命のように、無力な、誰かによって生かされている、自分の力ではどうしようもできないままにイノチを保存された存在だ。
 未必の故意のような自殺をして、死にたがっていたんじゃないか、とさっき思った。でも今、生きていて嬉しいという気持ちも、確かにある。
 生きていても仕方ないなんて、生きているから、死んでないから言えることなんだと思う。
 生まれてくるときはきっと、みんな嬉しいんじゃないか、と葵は思った。息が苦しくて泣くかもしれないけど、でもただ、単純に「嬉しい」。それだけ―――
 優花里の子宮の中で眠る生命も、同じなんじゃないか、と葵は思った。
 命はいつだって、人の意志の及ばない所にあるのかもしれない。
 
「わたしのこと、助けてくれて、ありがとう」
 葵は、ゆっくりと言った。
「お腹の子は、きっと、嬉しい。生きたいと、思ってる。きっと―――」
 そう言っているうちに、また〝あれ〟がやってきた。
 葵さん、と呼ぶ優花里の声がぼんやりと遠くなっていく。葵はゆっくりと、机にうつぶせた。
「ごめん、なさい。私、また」
 そう、ぶつぶつと呟いたのが、現実なのか夢なのか。
 それは形をもたない。
 じわじわと浸食するもの。なんだか、水っぽいもの。とても深く、暗いもの。
 眠るのだ。また。
 そう思った時、瞼が閉じたのをはっきりと感じた。
 いつ、この水が脳髄から引いていくのだろう。いつ。

 気がついたらベッドの上で、早い夕食が終わってしまった後だった。
 また誰かの手を煩わせて、ここまで運んでもらったらしい。優花里にも、結局まともなことは何も話せなかった。
 日の名残りのようなオレンジ色の光がうっすらとカーテンの隙間からさしていたが、部屋はすでに薄暗い。
 ゼリーは箱から出されて、病室の冷蔵庫に入っていた。おそらく鈴木が入れてくれたのだろう。
 お腹が空いていたので、電気をつけて、フルーツゼリーを食べた。
 1個300円、いや、500円、と当て推量で値段を考えながら、後で、鈴木にもあげよう、と思う。
 病室のLEDの白い光を受けて、ゼリーの中に浮かぶ桃が、ふと、優花里の体内の胎児を思い起こさせた。
 生きていたい、と思っている、と強く感じた。
 こうして夕食を逃して貪るようにゼリーを食べる自分も、また。
 生きている、と思った。

眠る女 9」に続く


眠る女

目次【全10話】

第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話
第10話


 創作大賞というお祭りの片隅で、バレエを踊っています。

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