Answer 「p9」
「p8」前話
2016年12月24日
11月はどこの会社でも年末に向けそこそこ忙しいものだ。
ただでさえ忙しいのに、先日直属上司が社内報の取材を受けた関係で、広報から普段の上司のいいところ、物申したいところを数行程度ずつ提出して欲しいという依頼を受けていた。
はるかは手帳が好きなくらいだから、何か文章を書くのは嫌いではない。でも上司について社内報に何か書くとなったらそれはまた別の話だ。
40代の女性上司は、社内恋愛の末結婚し、今も夫婦で同じ会社に勤めている。小学生と乳幼児の子供がいて、夏に産休から戻ったばかりだ。気さくな女性だが、仕事の話以外の話をすることがないので、子供のいる共稼ぎの家庭は死ぬほど忙しいらしいということしかわからない。物申したいとすれば、どちらが子供の迎えに行くか配偶者と社内電話で言い争わないで欲しい、ということくらいだが、この辺りは冗談交じりに上手く書く。
はあ、とため息をついた。
結婚して妊娠して出産して子育てして仕事して、そして、それから?
確かに上司は「幸せ」なのかもしれない。あれが幸せのロールモデルと言うものなのだろう。結婚しても出産しても好きな仕事を続けて、大変でも役職について、ダブルインカムで家を買って。近所に実家があってご両親がいるし、配偶者の家は地方だけど裕福らしいよと同期の真坂さんが言っていた。真坂さんは耳聡く噂好きで、同期だけのグループLINEで「まさかまさかの真坂速報」という社内のスクープ発信をしてくる。おかげでどこの部の誰が不倫中とか上司が辞めそうとか営業のニューフェイスはメンタル病んでるとか、どうでもいい、けれど意外と重要な情報が入ってくるのだ。真坂さん自身は普段は誰ともつるまないし、どこからどう見ても真面目を絵に描いたような人なので、ギャップが激しい。ああいう人が広報に行けばいいのにと常々思う。
はるかは、PCの群れの向こうに見える上司の、パーマとカラーの取れかかった髪の先を見つめた。もし、タクミとこのまま結婚しても、あんなふうにはなれない――そんなことを考えるのは、たぶん昨日の美咲の電話が影響している。
「ねえねえ聞いて聞いて。ハロウィンの時さぁ、はるかがオフィシャルホテル譲ってくれたじゃない?それ以来、とんとん拍子に話が進んでるの。え?何の話って、結婚よ、結婚!」
美咲の声が、まだ耳にこびりついている。
いやもう、ありがとね、はるか!はるかのおかげだよぉ。
媚びたように語尾を伸ばして、美咲は言った。
常に途切れなく彼氏がいるような美咲が、本気で結婚したかったとは少し意外だった。今日は○○のアッちゃんと飲みに行くの、明日は△商事のヤジマさんとミュージカル観に行くの……羨ましさ半分、心配半分に話を聞いていたものだったが、もうそんな話を聞くこともなくなる、ということだろう。
あのチャラチャラした狐目と結婚するのか――
狐目は腐ってもエリートで、一流企業に勤めている裕福な家のお坊ちゃまだと聞いていた。ひとたび結婚を意識したとたん、そんなふうに急激に話が進んでしまうんだなと、ふいに目の前に現実が現れたような気持ちだった。
それに比べてタクミは、と、どうしても思ってしまう。
あれからタクミはずっとはるかの家にいる。出勤時間はもともとはるかより遅いし、最初はあまり気にしていなかったけれど、なんとなく仕事に行っている気配がない。辞めたい辞めたいといっていたし、例のハロウィンの時だってそれを人妻に相談していたわけだから、疑わしい要素は沢山あった。
それでも仲は円満だったし、なによりはるかは「クリスマスにディナーをプレゼント」というタクミの行動に陶酔を感じていた。愛されている気がした。今はだから、ただひたすら、その日を待っている。「ケンカするな」という34歳のはるかの忠告は気になりつつも、こんなに楽しく暮らしているのだからケンカなどするわけがない、と思っていた。
そしてついにその日は来た。
暖冬と言われてはいたが、それなりに朝晩は寒い。
クリスマスはいつも「ホワイトクリスマス」を期待するのだが、もともと静岡生まれ東京育ちのはるかの思い出の中にホワイトクリスマスは存在しない。
おあつらえ向きに今年のクリスマスは土日にかかっている。一緒に家を出て横浜をデートするつもりだった。
風向きが変わったのは、ブランチを用意している時だった。
タクミが起きてきて、ちょっと仕事で出なきゃいけなくなったから、現地で集合、と言ってきた。ジャケットを羽織って小奇麗な格好をしている。
「は?どういうこと?今日、土曜日だけど」
つい、声がとがる。
「会社の方じゃなくてさ、漫画のほう。打ち合わせしたい、って連絡してくれた人がいて、会うことにしたんだ」
「クリスマスイブに??」
心底不審に思って叫ぶように言うと、仕方ないだろ、WEBの編集の人に土日とか関係ないんだよと言う。
「ネット漫画なのに、リアルで会うの?」
「俺だって、ん?とは思ったよ。思ったけど、チャンスだし。せっかくのチャンス、逃したくないんだ」
ふうん、とはるかは言った。
「夜までかからないし、夕方ちゃんと現地に行くから」
心の中では嵐が吹き荒れていたけれど、なんとか鎮める。今晩はきっとホテルに泊まるんだし、そしたら明日、横浜デートすればいい。
「タクミ、本気で漫画の仕事するつもりなの?会社はどうするの?」
するとタクミは、思いがけないことを言った。
「実は――会社は辞めたんだ」
「え?」
「どうしても、漫画の方に専念したくてさ」
驚いて、口がきけなった。
「そんな……わたしには何も……」
「そうだっけ?言ってなかった?」
「言ってないよ」
だいたいそんな重要なことを、言ったか言っていないかもわからない、などということがあるはずがない。誤魔化しているのだ、と思ったらまた苛立ちが募った。
「とにかく、俺そろそろ出るから」
「え?でもブランチ—―」
はるかの声など聞いていないかのように、タクミは部屋を出て行った。最後のパンケーキを焼くために熱いフライパンを濡れた布巾の上に置いていた。じゅうぅという音も、もうしない。冷めきっていた。
「信じられない……」
積まれた薄いパンケーキを見つめ、はるかは自分が考えていた「クリスマスイブ」が早速台無しになったことを悟った。
それでも夕方、待ち合わせたホテルの前に、タクミはちゃんと現れた。
厳しいドレスコードはない店のようだが、一応、はるかもこの日のために買ったニットワンピースを着て来た。Oggiに掲載されていて、即買いしたものだ。
ごめんごめん待った?とタクミは結構機嫌がいい。漫画の話がうまくいったのかと思ったら、その話はいったん無くなった、という。
「まだまだチャンスはあると思うんだ。逆に、今回のが上手くいかなくてよかったと思う。なんか、会ってみたら怪しい人だったんだよね。説明も不明瞭でさ」
ふうん、と、ぼんやり聞いた。
きっともう、そのときには嗅いでいたのだと思う。嘘の匂いを――
何はともあれ緊張しながら店に入り、コートをクロゼットに預けて、椅子を引いてもらいながら着席し、テーブルをはさんで向かい合う。
確かにクリスマスの雰囲気はばっちりだ。白いクロスに赤いクロスのかかったテーブルには小さなグラスに入ったろうそくが揺れ、全面に広がる窓からは横浜の夜の絶景が見える。思わず「うわ、すごい」と声が出た。タクミも満足そうにうなずいている。
まずは食前酒かな、もうワイン行っちゃう?と言っているうちに、ウエイターが来てタクミにワインリストを渡した。ちょっとのぞき込むと、本日のお勧めワインなど、昼のランチでは見たことがないような銘柄が並んでいる。
タクミはタクミで、慣れないことに少し焦りがあったのだろう。スマホでワインを調べたようだ。しかしすぐ諦めた。ワインなんかわからないからな、やっぱこういうときはシャンパンか、と言いながら、タクミはいつもの癖でスマホをテーブルの上に置いた。
せっかくのディナーなのにスマホなんか出して恥ずかしい、と思う。が、それよりも、無造作に置かれたスマホが空のワイングラスにあまりに近く、危なっかしい位置なのが気になった。倒しそうだ。
ワイングラスをどけようと、はるかは少し身体を乗り出した。
瞬間、着信にスマホが光る。たまたまスマホはこちら向きで、LINEの通知が見えた。
血の気が引いた。
タクミがハッとしたのと、はるかがとっさにテーブルのスマホに触れたのが同時だった。いや。ほんの少し、はるかが早かった。
「あ。それは――」
「ね。どういうこと?どういうことよ」
はるかは人生で初めて、逆上していた。逆上、だったと思う。あんなに頭に血が上ったのは本当に生まれて初めてだった。
タクミのスマホのロックは外せなかったが、通知は全部見ることができた。仕事の打ち合わせなんて、全くの嘘だった。あの人妻だとピンときた。昼間は彼女と会っていたのだ。つまり、そういうことだ。そういう関係ということだ。
「仕事、辞めたのっていつ?」
押し殺した声で、刑事の尋問のように詰問した。タクミは黙っている。黙秘する気だ。
「ねえ。もうずっと前なんでしょ。彼女とハロウィンの日に会った時にはもう、とっくに辞めてたんでしょ!」
つい大声になり、その声が震えた。窓の並びにもう一組来ていた男女が振り返った。
「会社辞めたことなんていちいち報告する義務なんかないだろ」
タクミがぼそりと言った。
「人んちに転がり込んでおいて、私のお金でご飯食べて、よくそんなこと言えるよね!」
言いながら、もう帰ろうと思った。帰りたい。懸命に泣くのをこらえていた。ひどい。ひどい。それしか考えられなかった。
スマホを投げつけてやろうかと思ったが、高級店で何か壊したら弁償、という理性は働いた。なんとか感情をねじ伏せて「帰る」と告げると、タクミは観念したようにうなずいた。
ところがその後に、さらに酷いことが待ち受けていた。
支払いはテーブルだった。急に体調が悪くなったから帰るとウエイターに告げ、ウエイターがレセプトを持ってきて、タクミがカードを挟んで渡した。するとしばらくしてウエイターが戻ってきて「お客様、お客様のカードはただいまお支払いできない状態となっております」と告げた。
えっとタクミは固まり、縋るようにはるかを見た。
現金は持っていない、という。
所持金は2000円だった。
もう、ここまで来ると呆れるしかなかった。はるかはもう涙を堪える気力もなかった。泣きながら、はるかのカードで決済した。震える手で控えを受け取る。
滑稽で、滑稽すぎて無様で、店を出て逃げるように駅を目ざし、電車に乗った。なぜかカードの控えと一緒に、未使用のコースターと紙ナプキンを持ってきていた。その後しばらくのことは、何も覚えていない。ハロウィンの時より最悪だった。
一緒の家に帰る状況、というのは、こういう場合、本当に悲惨だ。
帰宅して顔を合わせるのなんか金輪際嫌に決まっている。ということは、当然ながら「家に帰れない」ということになる。
クリスマスイブに、家なき子・・・
きっと彼氏と楽しくデートしている美咲には頼れない。萌だって何かしらの予定はあるはずだ。クリスマスなんだから。イブなんだから。
最悪。サイアク!
電車に揺られ、時々溢れてくる涙を拭きながら、やっと少し落ち着いて、スマホを取り出した。
タクミからの着信が何十回もあり、時々「ごめん」「あやまる」「ゆるして」というLINEメッセージが挟み込まれていた。
小一時間ほど無視した。横浜から池袋まで、湘南新宿ラインに乗っていた。このまま乗っていれば、籠原に着くらしい。籠原ってどこだっけ。埼玉だっけ。
とりあえず、池袋でいったん、電車を降りた。おそるおそるスマホを見ると、「俺、家に帰らないから、はるかは家に戻って」というメッセージがあり、それ以後は、なんのメッセージも着信もない。
はるかは、観念して家に帰ることにした。
情けないことに、自分が帰る所は、そこしかなかった。
部屋の中は暗く、冷たかった。電気をつける。言葉通り、タクミはいない。しかし、いったんこの部屋には戻ったらしい。荷物が少し無くなっていた。机の上に、今日のディナーの代金が現金で置いてあって、それを見たら何故かもっと怒りが湧いた。「ダサッ」と吐き捨て、ここを出ても、帰る家があっていいよね。と心で悪態をつく。
コートも脱がずに、よろよろとソファに座り込んだ。
こんなことってあるのか、と思った。
仕事用のバッグの中をひっかきまわし、ごぎん刺しの手帳を出した。泣きすぎて、目元がひりひりと痛んだ。まだ、手が震えている。寒さのせいばかりではない。
書きこんだ自分の字を見たら、情けなくてまた泣きそうになった。
すぐに、レスポンスがあった。
34歳のはるかと会話をしているうちに、少しずつ、落ち着いてきていた。
忠告を無視したのはわたしだ。
「忠告は全て今罰として現実になった」
椎名林檎の「正しい街」が頭に鳴り響いていた。
問わず語りのように問いかけた。
少し、ほんの少し間があって、文字が浮かび上がる
タクミがいなくても、わたしはちゃんと生きているし、しあわせでいる。
そのことは、衝撃を受けたはるかの心を慰めた。
するとその時だった。
今、浮かび上がったばかりの文字が、後ろから消えて行く。
ゆっくり、次第に加速をつけて字が消えて行く。
きっと、もうこれで終わり。繋がらない。予感はすぐに、確信に変わった。
書くそばから、その字がみるみる消えて行く。
はるかは、そのスピードに負けじと、すごい勢いで文字を書いた。
消えた。
未来のはるかが書いた字は、浮かび上がって、すぐ消えた。
その字は、字が書かれた形跡だけのように薄く浮かんで、——消えた。
はるかは、コートのまま、手帳を胸に抱きしめた。
タクミと別れたことより、未来の自分とのつながりが途切れたことが悲しい気がした。励まされていた。彼女に――未来の自分に。
さよなら、2023年のはるか。
たとえ未来が変えられないものでも、わたしはだいじょうぶ。
だいじょうぶだよ。
――続く
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