「伝説巨神イデオン 接触篇 発動篇」のもうひとつの思ひ出
1982年の春だった。
ぼくはアニメ映画「伝説巨神イデオン 接触篇、発動篇」の宣伝チームのメンバーだった。
4月だったか5月だったか忘れたが、当時、ぼくは杉並区の清水三丁目の近くに下宿していた。ここは学生時代から住んでいた。
清水三丁目の交差点に銭湯「井草湯」があった。井草湯の入り口の右横には、コインランドリーがあって、当時は洗濯機と乾燥機は別々だったが、ここには外国製の大型の乾燥機があって、これは一週間分の洗濯物の乾燥を4、50分で片付けてくれる優れものだった。ふたを開けたら乾きたての運動靴が鎮座していてまいったこともある。
あれは日曜のお昼だったと思うが、いつものように一週間ためこんだ洗濯物を持ち込んで洗濯機で洗ってから乾燥機に放り込み、交差点向かいの中華屋に朝食兼昼食を食べに出かけた。
ぼくはいつものようにニラレバ炒め定食を頼んだ。ぼくは上京以来、とにかく肉と野菜を食べていれば死なないという信念があって、肉野菜定食かニラレバ炒め定食が常食だった。
注文を終えてカウンター席の奥で、ひとりで漫画雑誌だったかを読みながら待っていると、突然、キキーというブレーキ音とともにドッカーンという轟音をともなって店の壁がやぶれ、なんと、車のフロントが飛び出してきた。
軽トラックだった。
「大丈夫ですか。大丈夫ですか」という店の奥さんの声が聞こえた。ぼくの他にも数名お客さんがいたが、その人たちは口々に「大丈夫、大丈夫」とか言っていた。
しかし、ぼくはうずくまっていた。ぼくだけは、大丈夫じゃなかった。手を上げて大丈夫じゃないという合図をしたように思う。
つっこんできた車がテーブルをはじきとばして、ぼくの後ろのテーブルにあたり、ぼくはそのテーブルを避けたつもりで横を向いたところ、テーブルがぼくの腰を直撃した。
激痛だった。声にならなくて手を上げて、大丈夫じゃない、と合図した。
調理場のガスコンロも被害を受けたようで、なにかガスくささがただよったので、腰を押さえながら必死で店の外へ逃げた。幸い、ガス爆発は起きなかったが、映画のワンシーンみたいで結構な恐怖だった。
腰を押さえて待っていると、しばらくして救急車が到着し、ぼくは近所の外科病院へと運ばれた。ぼくは運ばれる途中、救急隊員の人に「コインランドリーに洗濯物がまだある、どうしよ。井荻駅前の喫茶店に彼女と14時に待ち合わせている、どうしよ」みたいなことを訴えていたように思う。
ぼくは診断の結果、腰の打撲だった。腰の横突起みたいなとげとげの先が2か所欠けていたが、「ギブスをしていればそのうちくっつきますよ」みたいなことをお医者さんに言われ、そのまま入院となった。
ぼくは、病院の公衆電話で、当時つきあっていた妻と待ち合わせた喫茶店に電話して、妻にコインランドリーの洗濯物の回収と下宿から下着を取ってきてほしいと頼んだ。
ぼくは二週間の入院となった。
ふたり部屋だった。隣のベッドには、80代のおじいさんがどこが悪いのか知らないが入院していた。毎日、70代くらいの奥さんが世話にやってきた。部屋にテレビがあったが、夕方になるといつも「水戸黄門」の時間となった。となりの奥さんがぼくがどんな仕事をしているかと尋ねてきたので、ぼくは「映画の企画みたいなことです」と答えると、「うちの息子も赤坂のテレビ局の技術職で企画をやっている」とのことだった。技術職の企画というのがよくイメージできなかったが詳しく聞いたりしなかった。
結局、ぼくは2週間入院した。最終日に腰の周りを覆っていたギブスをのこぎりで切ってはずし、レントゲンを撮ったところ、くっつくはずだった「横突起の先の2か所の骨折」がくっついておらず、ぼくが困った顔をしていると、お医者さんから「まあ、ここはくっつかなくても支障はないので、だいじょぶだいじょぶ」みたいなことを言われて、そのまま退院となった。ぼくは、トイレに行くほかは2週間寝たままだったので、すっかり足腰が弱ってしまい、立ち上がるとふらふらするので、その後2週間ほど、当時はまだ妻ではなかった妻の実家のマンションにお世話になることになった。三度の食事から何もかもご両親には大変お世話になった。(ぼくはその年の10月に結婚した)
退院後、荻窪警察で事故の内容をうかがったところ、環状八号線を荻窪から北へ向かっていた軽トラックが清水三丁目の交差点で信号無視して右折しようとして対向車と衝突、そのときにはじきとばされて角の中華屋へつっこんだ、というものだった。ぼく以外はだれもけがしたものはいなかったそうだ。ぼくだけとんだ巻き添えを食ったものだ。加害者の青年はぼくの入院初日に父親といっしょに見舞いにきたが、ぼくは痛みでまともに挨拶できていなかった。自動車保険の保険屋さんが退院後に賠償金の話でやってきたが、とんでもない安さだった。
だいぶ話はもどりますが、結局ぼくはこの年の7月公開の「伝説巨神イデオン」の宣伝で一番肝心な6月、7月のメインの宣伝期間にまともにかかわることができなかった。
6月中旬には会社へ出勤したが、午後になると腰が重くなってしまい、立ってることができなくて早退する始末だった。腰の違和感はその後数年続いた。
ぼくが宣伝にかかわることができなかった間に「イデ音頭」とか富野監督とファンたちで踊る盆踊りみたいな晴海のイベントとかがあって、あとでぼくはいったいこの宣伝戦略は何だったのか、いまでも「イデ音頭」の現場に行けなかったのでその全貌についてよくわかっていない。
ぼくがいてもいなくても「伝説巨神イデオン 接触篇 発動篇」は7月に無事に松竹邦画系で公開となり、上映時間が2本で3時間あったので回転が悪いので「ガンダム」ほどには稼げなかったが、翌年3月公開の「クラッシャージョウ」の宣伝がすぐに始動し、ぼくはふたたび宣伝チームに参加したのだった。
ちなみに、くっつくはずだった「横突起の先の2か所の骨折」はいまだにくっついていません。