近藤 良英
時々童話が無性に書きたくなります。
1980年代。松竹でアニメの宣伝を担当していたころの思い出を綴ります。
オリジナルの短篇小説です。
アニメに関するいろいろなこと。
日々の思い浮かぶことを書いています。
ご縁があって「どまんなかアニメ映画祭」をプロデュースしています。 1980年代に私が松竹で担当していたアニメ映画と同時期に公開された名作アニメーションをラインアップしてお届けします。 日本のどまんなか、名古屋駅前のミッドランドスクエア シネマで開催します。 5月17日(金)~19日(日)までです。 登壇ゲストもがんばってお呼びしました。 ぜひお越し下さい。 「どまんなかアニメ映画祭」の公式サイトです。 https://domannakaanime.com/
屁こきのたくちゃんは、自分のことを屁こきだと思っていない。 カーテンのすき間から朝日が差し込む。 「さぁ、みんな準備はいいかな」 体操のおにいさんがテレビに登場。 たくちゃんがテレビの前でいっしょに体操すると、 プッ。 朝ごはんが終わり、 さ、幼稚園に出発。 ママの自転車のうしろにまたがった拍子にプッ。 たくちゃんは幼稚園でも元気がいい。 滑り台を逆さにおりながら、プッ。 鉄棒で逆上がりをしながら、プッ。 「トンネル掘るぞぉ」 スコップ片手に砂場にしゃがんで、プッ
1985年夏。ぼくたちは松竹アニメプロジェクト(略称SAP)を立ち上げた。 メンバーは、ぼくと、先輩プロデューサーの升本さん、そして宣伝部の太田次長だ。 二人とも昭和ひと桁生まれで、ぼくと親子くらい年が離れている。 東銀座の東劇ビル18階にあったレストラン・エスカルゴに、アニメ各誌の編集長を呼んで発足の挨拶をした。アニメ各誌というのは、アニメージュ(徳間書店)、OUT(みのり書房)、ジ・アニメ(近代映画社)、マイアニメ(秋田書店)、アニメディア(学研)だったと思う。
有給休暇を使って引っ越しをした。 年を取ると若い時のようにいかず、土日は荷造りになる。ゆっくりじっくり荷造りをして、つづく月曜が引っ越し日になる。平日なので有給休暇を取ることになる。これで引っ越しは何度目になるのだろう。両手で数えてみる。九回目か。すっかり引っ越し貧乏になってしまった。もうそろそろ終わりにしたいものだ。 浜中雄一、六十七歳。妻のるり子、六十九歳。雄一は、以前の会社を定年後、友人の会社で働いている。CGデザイン会社の営業である。最近はパソコンを使ったリモー
あの日、私は入れ歯になった。 と言っても、左上あごの第一、第二小臼歯の二本の部分入れ歯だが。それでも入れ歯にするかどうかはずいぶん悩んだ。なにせ、二十代の頃からデンタルフロスを使ったり、虫歯には相当気を遣ってきたからだ。 二十代で左上あごの第二小臼歯を虫歯で失い、そこをブリッジにした。保険のブリッジはすぐに壊れると歯医者さんが言うので、保険外で治療した。当時の値段で十七万円くらい遣った。そのときに歯医者さんから、デンタルフロスを勧められた。しかし、千九百七十年代半ば
「わかった。賭けよう」 わたしは、妻の後姿に向かって言った。妻はキッチンでネギをきざんでいた。テレビでは『アッコにおまかせ』が始まっていた。出川の声がやかましい。妻は最近、耳が遠くなってきた。テレビがついているとわたしの声がとどかないことが多い。 もうすぐ娘が彼氏を連れてくる。妻は、会ったこともないのに、こんどの彼氏のことを、 「背が高くてハンサムで、頭も少しよくて」とか言う。娘から聞いている話を総合したらしい。ぼくはそれには賛同できない。なぜかと言えば、娘がこれまでに家
ひとり娘が嫁いだ。 家には妻と私と、そしてぬいぐるみが十体、残された。 結婚して四十年、いろいろあった。 最初に就職した会社を十年で辞め、続く会社もすぐに辞め、辞め始めると癖になる。ほかにもっといい仕事がある。自分に向いた仕事があるはずだ。そんな思いが頭をよぎり、そのことだけになってしまい、目の前の仕事が雑になり、やがて今の仕事を辞めて次の職場に移ることになる。 こんな暮らしを十五年続けた。 やがて会社を立ち上げ、ここが一番自分に合っている職場だ、なんて思いこませ
ぼくのおじいさんは、密林の王者「ターザン」のことを「ターサン」と呼んでいた。 ぼくは、「ターサン」と聞くと、いつも吹き出しそうになったが、おじいさんはまじめにそう言っていた。「ターザン」だよ、と教えてあげたこともあったが、おじいさんはすぐに忘れて、次に言うときは、やっぱり「ターサン」になっていた。 「ターザン」はとても人気のあるアメリカ製のテレビドラマだった。画面は白黒だった。 昭和三十年代は、テレビではアメリカ製のドラマやアニメばかりをやっていたので、テレビっ子だった
わたしはテディ。 二十五年前に、この家にやってきた。引っ越しをするたびに家が小さくなっていくが、その分、家族の距離が近づいてきた。今の家は三DKで狭いけど十階なので見晴らしがよく、空気が澄んだ冬場には富士山がよく見える。 実はわたし、熊のぬいぐるみ。体長二十センチほどで小柄。この家のママが二十五年前に、新宿の三平ストアで見つけて買ってきた。ビニールに入って店先に吊るされていた。ラベルにイギリスのドラマ「ミスタービーンの熊」と書いてあったそうだが、何となく体形が違う。
会社の近くのファミマをよく利用するのだが。 今日は春の陽気で暖かくて気持ちいいなあ、なんて思いながらファミマでいろいろ迷った末に肉まんを1個買った。 そこまではふつうだが。 店員さんに支払いを「スマホでお願いします」と言ったところ聞きなおされたので、「スマホでお願いします」としっかりした声で繰り返した。 ピッと鳴って決済できたのだが。 手元を見たら、スマホではなくて、定期券に使っているPASMOだった。 店を出たぼくは、明るい日差しをあびながら、「もうだめかもし
映画「ひみつのなっちゃん。」が公開中です。 この映画の監督は田中和次朗さんです。 7年ほど前からいっしょに企画を準備してきました。 ようやく公開にこぎつけ、感慨もひとしおです。 映画「ひみつのなっちゃん。」https://himitsuno-nacchan.com/
ぼくは子どものころからテレビっ子だった。 ぼくの家にテレビがやってきたのは、1961年、ぼくが小学校へ入学する前の年だったと思う。 それまでは、テレビというと、うちの裏の家でときどき見せてもらっていた記憶がある。 確か、夏の夜だったと思うが、家族でその家に出かけた。そこにはうちの家族以外に近所の家族もいたような気がする。 テレビと言っても14インチの今の基準では小さな画面で、しかもモノクロで、それなのになぜか立派な4本の足がついていて、その家の主の息子がランニングシ
一九七四年。ぼくが上京したとき、よく使うのは国鉄の荻窪駅でした。 北口にラーメン屋さんがいくつかあって、当時は、荻窪のラーメンが有名だということを知らずに食べていました。 駅の北口の正面に醤油ラーメンの店がありました。分厚い一枚板のカウンターに出されるこのラーメンは、厨房に入ってスープをじかにすすりたくなろほどコクがありました。 一杯百九十円。ぷーんと鼻をくすぐるかつお出汁の香りが店の周囲に漂って、それはもう食欲をそそるので、食費が足らない月は近寄るのは危険でした。
千葉県安房(あわ)郡安房町。 ここは房総半島の南の方に位置する棚田の広がる山間の町だ。 阿部祐樹(あべゆうき)は小学六年生。地元の町立安房北部小学校へ通っている。 棚田のてっぺんに鎮座する雑木林に囲まれた小学校だ。 児童たちは雑木林で、夏はカブトムシやセミ、クワガタを捕り、秋はドングリや栗を拾い、冬から春にかけては秘密基地作りに忙しく、子供時代を存分に謳歌していた。 鉄筋の二階建て新校舎が五年前に建てられたが、その裏の昭和二十年代に建てられた木造校舎もまだ使ってい
『おの湯』はまもなく廃業となる。 戦後まもなく仙台市原町に先代が開業してから七十年。オーナーの小野寺諭吉は、奥さんの父親である先代から引き継いだその暖簾をひたすら守り続けてきた。今や市内で営業している五軒の銭湯のうちの貴重な一軒だ。 しかし、さすがに今年八十歳を迎え、また小野寺夫婦は子宝に恵まれず後継者がいないこともあって、店をたたむことにした。 『おの湯』は伝統的な銭湯特有の神社仏閣を模した宮造りだ。 屋根は、上部が丸い山形の唐(から)破風(はふ)で、浴室正面に富士山の
半年ほど前、巨大彗星が、地球の近くを通過した。 小学六年生になったばかりの阿部祐樹(あべゆうき)は毎晩、家のベランダから南の空の彗星を眺めていた。 最接近は十日間続いた。 その間、地上では千九百十年のハレー彗星大接近以来とか言って、地球に激突するのではとぎりぎりまで大騒ぎになっていたが、幸い、軌道がそれてほとんど被害を受けることなく、無事に騒ぎがおさまった。 研究者の中には、恐竜が絶滅したと言われる六千五百五十万年前の白亜紀末の巨大隕石衝突を引き合いに出して人類絶滅