地下鉄の階段を踏みはずしたその先に。
午後六時五分。会社の帰り道のことだった。
六時十二分発に乗るためにぼくは地下鉄都営新宿線・馬喰横山駅の改札へ急いでいた。
まだ春先の寒い日だったのでコートを着ていた。カバンを斜めにかけていた。コロナの影響ですっかり営業で出歩くことも減ってしまい、運動不足でもたもた小走りにかけていた。
この駅は階段の勾配が急だ。下から列車到着のアナウンスが聞こえてきたので急いだ。うしろから若い女性に抜かれた。
昔はぼくだって階段を駆け下りるのなんかへっちゃらだった。
しかし、今は、膝がすぐに痛くなるし、階段のとくに下りるときは慎重にしている。
自分ではかなりがんばって小走ったつもりだったが、次々と若者たちに抜かれた。
階段の右下からチャイムが聞こえてきたのでついあせってしまった。
気がつくとスローモーションで宙に舞っていた。
「あらら」
階段を三段ほど踏みはずして落っこちた。
「痛!」
前かがみにまともに倒れた。両手をついて四つん這いの姿勢で倒れた。右足のすねを打ちつけたらしく、直後に痛みがおそってきた。これはたまらない。しばらく動けずに四つん這いの姿勢のまま耐えた。痛みが去っていくのを待った。電車へ急ぐ通勤客たちが器用にぼくをよけて去っていく。
ぼくは顔を上げた。目前で地下鉄のドアが閉まった。
ぼくを背後から追い抜いて行った女性は、閉まったドアの向こうからガラス越しにぼくを見ていた。一瞬目が合ったが、彼女は直後に視線をそらしたように見えた。まるでいけないものを目撃してしまったかのように。
ぼくは痛みと同時に悲しい気持ちにも耐えていた。
コロナにだいぶ疲れてきたのもあって、気分的にここ数日落ちこんでいた。
そこへこのありさまだ。ずれたマスクをなおしながら、汚れたコートを手ではたきながら、ゆっくりと体を起こした。
「乗るはずだった人生の最終列車に乗り遅れてしまった。ひとり置いてけぼりを食ってしまった」
なにかそんな気持ちがふつふつとこみあげて涙ぐんだ。
翌日、会社近くの整骨院で診てもらった。
「軽い打撲ですよ」
まだ青たんは残っているものの三日通院したら痛みは消えた。
今日は朝から晴れている。
先日落っこちた階段もきょうは軽快にのぼってきた。
もう春だな。コートもいらない。
「まあ、こんど来る電車に乗ればいいさ」
身体の中からじんわりとがんばる気持ちがわいてきた。
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