「熊野詣で日記⑨」 〜俺はどこに行っても忙しない日本人〜
3月26日
今朝はゆっくりと過ごすことができた。
7時半ぐらいに目が覚めたが、8時くらいまで布団の中で司馬遼太郎さんとドナルド・キーンの対談本を読んでいた。 まだまだ私には知らないことがたくさんある。日本文化に造詣の深い彼ら二人の本はとても刺激になる。
その後、再び温泉に入って最後の湯垢離をし、その後はお粥の朝食を食べた。
ジェイホッパーズは朝食のお粥が無料でついてくるのだ。
宿のスタッフに今日は小口まで行くというと、小口までたぶん6時間もかからないとのことだったので、朝はゆっくり出発することにした。
これから私たちは那智大社に向けて歩いていく。2泊はかかるだろう。
その間小雲取り越え、大雲取り越えという難関を踏破せねばならない。
私たちは、このジェイホッパーズという温泉付きのゲストハウスを、名残惜しく10時半くらいに出た。私たちは、抜けるような群青の天気の中、ゆっくりと川湯温泉まで歩いた。
途中、山本玄峰という昔の禅僧の墓が近くにあった。
戦前の近代史を勉強していたとき、政界のフィクサーであった四元義隆と田中清玄の逸話にこの禅僧の名前が何度も出てくるので覚えていた。
山本玄峰師はこの2人の大物右翼の禅の師匠であった。
彼はまさに昭和の傑僧というべき人物で、終戦時、本土決戦を間近に時の総理大臣鈴木貫太郎に降伏を勧めた。
ボロボロになった日本を救った人かもしれない。
生涯で四国八十八ヶ所参りを17回も回ったという。
十代の頃目を煩い失明したため、弘法大師の御恩徳に縋ろうと、眼病治癒祈願のため裸足で八十八ヶ所参りを始めたのがきっかけだったらしい。
だが途中33番札所雪蹊寺の門前で行き倒れる。雪蹊寺の和尚山本太玄に助けられ、そこで出家し僧侶となった。
彼の居士(出家していない仏教者のこと)の弟子としては、上記の大物右翼四元義隆、田中清玄に加え、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人などの政治家、そして血盟団事件の首謀者である井上日召など昭和の大物の名前が連なっている。Wikipediaには安倍晋三元総理も時折参禅したと書いてある。
オリバーには彼は「日本最後のリアル禅僧」だよといっておいたが、この形容の仕方もあながち間違ってなかろう。
だが今の日本には、このような傑僧が出てくる風土が根本からなくなってしまった。こういう人は今後出てくることはあるまい。
川湯温泉の温泉街は風情があった。
透き通った川のそばでは掘れば温泉が湧くらしく、川沿いには趣のある旅館がいくつも並ぶ。
コロナということもあってか客はあまりいないように思えた。
川辺でパンとバターと自販機のコーヒーやミルクティーで昼食をとったが、オリバーと話しているとき、巨大な鷹が二人の間を高速で通り過ぎていって、私持っていたバターの箱の銀紙をくわえて飛び立っていった。
私の食べ物を狙っていたのだろう。
この鷹はこちらを伺いつつ私達の頭上をゆったりと旋回していた。
天晴れである。
ここの川は透き通っていて少しエメラルドグリーンが混じった色がとても綺麗だ。
対岸には桜の木が満開で咲き誇っておりほとんど桃源郷のようだ。
いつかここで1週間くらいゆっくりしてみたい。
それからもひたすら風光明媚な川沿いを歩き、しなびた萱川神社というところを参拝した。
階段を登りきった小高いところに鎮座する小さな神社で、なぜか気になってそこに立ち寄ったのだったが、私たち2人が手合わせて参拝すると、急に対面から風が吹き荒れた。 この土地の神様が祝福してくれたのかもしれないと2人とも思った。
またひたすら川沿いを歩いた。
金物や斧や鍬など売っている店に寄って、草鞋が売ってあったので買った。 そこの親父さんやお母さんと、息子と少し話した。 その息子は小学校の時、小雲取越えを学校行事で行ったそうで、5、6時間くらいかかったらしい。そこの息子さんは、これからバイクで京都に帰るという。 たぶん大学生だろう。
小雲取越えルートの入り口の山崎ショップで少し食料を買い、山越えに臨んだ。山に入ったのはおそらく13時位だったと思う。
小雲取り越えはずっと心地よいルートで、木々の間から木漏れ日てくる光が綺麗で、歩いていて心地よい。
途中の百間ぐらというところから眺める景色が壮大で、ここがかなり山深いことがわかる。
私たちが来た方向を望んでみると、遠く霞む山々が随分と遠い先まで広がり、ここまで相当な長い距離を歩いてきたのだなと実感する。
私たちはそこで、般若心経をよんだ
オリバーが、ここは「阿弥陀ランド」だからちゃんとお経を読もうというのだった。
そして彼は練習中の尺八をここで吹いた。
滑らかで柔らかいメロディが風にのって山に響く。 どんなお経よりもこちらのほうが熊野の神仏への奉納としては功徳があるように思えた。
昔オリバーに、密教でいうところの守り本尊を教えてあげたことがある。
私もオリバーも戌年(いぬどし)なので、2人の本尊は阿弥陀如来になる。
オリバーは自分の守本尊が阿弥陀様だと知ると、阿弥陀如来を自分の特別な仏だとし、信仰するようになった。
それもあってか、かつて「阿弥陀の浄土」と形容されたこの熊野の地に来られたことに何かロマンを感じていたらしい。
しかも、この温泉水は「阿弥陀のしっこ」だというのだ(笑)
なんという形容の仕方だろう。
私たちはまた歩いた。
小口の休憩所についたのは17時半頃であった。
私たちはそのすぐ下の河原にテントを張ることに決めた。キャンプ禁止と書いてあるが、そんなことは言ってられない。暗くなればお構いなしだ。
私は少し先の村に食料を買いに行ったが一軒しかない店も会いていなかった。
この小口という集落は人どおりもほとんどない。寂しいところである
夜は河原で焚き火もした。
玄米を炊いていたら、こぼしてしまいすべてだめになった。しかもお湯が足にかかり、軽く火傷をしているようで少しひりひりしている。結局、味噌煮込みうどんを作って食べた。
飯を食っているときに、明日からの予定をどうするかと言う話になった。
オリバーはどうやら私の旅のペースに少し不満があるようだった。
ペースが早いらしい。私があまりに先を急ぐので、ゆっくりできておらず、「コネクテッド(connected=つながる)」できていないといった。
つまり、私がその土地でゆっくりしようとせず先をいそぐので、この土地や自然、もしくは旅そのものの雰囲気と「つながる」ことができていないということらしい。意外だった。
私は決して早いペースでは歩いていないつもりであった。一日20数キロというところだろうし、今日はもっと少なく12キロくらいしか歩いていないはずだ。
私的にはこれくらいのペースがちょうど良いと思っていた。いやむしろ遅いくらいでもある。
だがオリバーはもう少しゆっくりと旅をしたいということだろう。
おそらく、日本人とフィンランド人の時間感覚の違いかもしれないし体力の問題かもしれない。
私はおそらく典型的日本人で、何にでも目的意識をもって行動しがちで、旅においてはまさにそうだ。
手持ち無沙汰に時間を過ごすことが苦手で、常に何かしておかないと落ち着かない。
なので、私は常に先に先に進もうとする。
また、歩きの巡礼を一つの「苦行」とみているので、「楽しもう」という意識よりは、自分の身を不便なところに置いて肉体的な苦痛を体験することで非日常を経験しようとしたがってしまう。
おそらくオリバーと旅をしていなかったらもっと先を進んでいただろうと思う。
俺はそんな人間なのだ。
だが、オリバーは、いはゆる「幸福の国」と呼ばれるフィンランドから来た若者だ。
時間感覚は明らかに、自殺者数が年間数万人にものぼる日本人とは違うだろう。彼は旅をするときはゆっくりと一つの土地を味わいながら旅をするのが彼のスタイルだ。
確かに、湯の峰温泉ではもう少しゆっくりしてもよかった。だが、天気予報によると、もう一泊していれば熊野最難関とも呼ばれる「大雲取越え」の時、一日中雨の中を歩かないといけなくなるのだ。
私はそれが嫌だった。でも、雨の中を歩くことになっても、もう一泊する価値はあったかもしれないと今は思わないでもないが。
だが、オリバーが「コネクテッド(connected=つながる)」できていないと言った時、確かに私自身も「コネクテッド(connected=つながる)」できていないのだということに気がついた。
私がこの熊野の地と「コネクテッドした(繋がった)」かといえば、そうでもないだろう。
むしろ旅を消化したという感覚に近い。
やはり私も、現代日本人の感覚が染み付きすぎていて、忙(せわ)しないんだと思う。
昨日も書いたが、一遍上人は熊野詣でをして本宮大社では神託が降ったというが、彼はその時百日参詣しているのだ。
私はたかが二泊だけで何か神社参拝の恩恵に与ろうのおもっていたが、そんな都合の良いことはないだろう。
二泊でその土地と「コネクテッド(connected=つながる)」するなど、そんなうまい話があるかと思う。
一遍上人は百日でやっと「コネクテッド」できたのだ。
オリバー個人ならたぶん、本宮まで歩いたあとは、ここで阿弥陀如来とか偉大な何かと繋がるべく、また何かインスピレーションを得るべく、少なくとも1週間くらいは泊まってゆっくりと旅をしていただろう。
彼にとって、旅は苦行ではなく、ゆっくりと味わうべきものなのだ。
だが私は今回は苦行をしにきた感覚でいる。
四国遍路にいったときもそうだった。
あの時も苦しみたかったのだ。
それが歩きの旅の醍醐味でもあるのだし、現代日本では得難い経験になる。
だがきっとこの感覚は私がかつて体育会系の雰囲気で育ったことと無関係ではないのかもしれない。私の思考はあまりにも軍隊的なのだ。
だが彼はそうではないということだ。
国も、育った環境も、更に言葉も違えば、一緒であることがまずあるはずがない。
オリバーだけでなく多くの外国人は、この働き蜂のような日本人の感覚をクレイジーだと思うのだろう。
これは根深い日本人の性(さが)である。
そして日本を覆う様々な諸問題はこの感覚から発しているようにも思う。
江戸時代までの日本はこうではなかったはずなのに。
私は、人生の楽しみ方を知っている彼ら外国人を羨ましい。
そして私はこうやって、旅の就寝前のわずかな時間を使ってまでせっせと日記まで書いてしまっている。
本当に忙(せわ)しない。
私はこの感覚を抜け出すことができるのだろうか。 オリバーのいうように、もうこの旅のこの時間は帰って来ないのだ。
もっと旅の一瞬一瞬を大切にすべきなのだろう。