軍曹

福岡市在住。元陸自、元バックパッカー。四国八十八箇所霊場を順打ち逆打ちで二回踏破。 「…

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福岡市在住。元陸自、元バックパッカー。四国八十八箇所霊場を順打ち逆打ちで二回踏破。 「謎の共和国『北朝鮮』へ」、「歩いて、祈って、野宿して」Kindleで発売中!  そろそろ作家名のって良いですか(笑) 前ブログhttp://yoshida777t.livedoor.blog/

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  • 塩の話あれこれ

    塩について書きます

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最近の記事

塩の話あれこれ4 (「減塩」やらイオン交換膜製塩法やらetc )

ABEMAで塩についての番組がありました。 塩の「質」について触れられているところもありますが、塩をただ「塩分」と一括りにして議論しているような気がして、肝心のところが抜け落ちてやしませんか? と思うのは私だけでしょうか。  私としてはイオン交換膜製法の塩(日本で流通している塩の8割ほどはこの塩だといいます。)、つまり「精製塩」や「自然塩」ついて少し触れて欲しかったんですが、無料で見られる範囲では触れられてません。 私が何回にもわたり塩についてやかましく書くのは、私を含

    • 塩の話あれこれ 3 (塩の専売制など)

      続きから 塩は、人類が生きていくのに無くてはならないために、古今東西、多くの国にとって統制の対象でした。  日本でもかつては塩は専売制だったのです。 日本の塩専売は明治時代1905年から始まりました。日露戦争時の戦費の調達が主な理由でしたが、国内塩業の育成、保護、整備の目的もあったようです。 専売にしても価格が安定しなかったことから、1910年から政府は、専売制を継続しつつ塩業の整備に努めるようになります。 日本の近代塩業制度についてわかりやすい記事があります。

      • 塩の話あれこれ 2  

        塩の話の続きです。 前回の記事では、本当に減塩すべきは「精製塩」ではないかということを書きました。 「精製塩」がつくられるようになったのは戦後からです。  1972年「塩田法(正確には「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法)」が施行され、日本各地にあった塩田が姿を消し、それ以後の採鹹(さいかん : 濃い塩水を採取する作業)工程が「イオン交換膜法」に限定されることになりました。 (イオン交換膜法とは:http://www.tokyosalt.co.jp/archi

        • 塩の話あれこれ 1 

          こんにちは、久々の投稿失礼します。 塩についてのお話です。 私個人としては、塩や醤油、味噌に関しては良いものを積極的に摂ろうと何年も気を使ってますが、世間ではもう何十年も健康のために「減塩」が叫ばれ、塩はあたかも悪者のように扱われてしまっている現状があります。 「高血圧やその他生活習慣病等の原因は塩の摂りすぎからきている」という説が多くの人の認識となっておりますが、 その説は前から疑問視されていて、さらにそれを覆す研究結果(インターソルト研究)がすでに発表されているの

        塩の話あれこれ4 (「減塩」やらイオン交換膜製塩法やらetc )

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        • 謎の共和国「北朝鮮」見聞録
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          ¥300

        記事

          尺間経 とは?

          尺間経(しゃくまきょう) 仰(そもそ)も尺間山愛宕将軍地蔵大菩薩  十二八天狗と申し奉(たてまつ)れば 本地は十一面の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)本動躰(ほんどうたい)は 御薬師如来(おやくしにょらい) 形(かたち)は普賢(ふげん)文殊(もんじゅ)と顕(あらは)せ給(たま)ふ 世上(せじょう)の願蒙(ぐわんもう)を開(ひら)かせ給(たま)はんが為め 養老元年(ようろうぐわんねん)六月廿四日 天竺(てんじく)竜海山(りうかいざん)より 此朝(このちょう)に天降(あまくだ)

          尺間経 とは?

          3冊目の自著「歩いて、祈って、野宿して いつかの逆打ち野宿遍路」出版!!

          かなり久々の投稿となります。 3冊目の自著「歩いて、祈って、野宿して いつかの逆打ち野宿遍路」をKindleにて販売開始いたしました! もう発売してから一か月近くなろうかというところですが、宣伝する気があまりないのがバレますね。。 ちなみにこの著作は四国遍路に関する作品で、2016年「丙申(ひのえさる)」の年に、四国八十八箇所を「逆うち」で巡礼したときのことを書いたものです。遍路を題材にした作品としては2冊目です。 「丙申(ひのえさる)」の年は、「逆うち」をするとご利

          3冊目の自著「歩いて、祈って、野宿して いつかの逆打ち野宿遍路」出版!!

          足半(あしなか)の効用➁

          さて、続きから。 先にも書きましたが、私はこの足半を履いて、山を歩きました。 私の住む福岡市から近い、かつての霊峰・宝満山です。   太宰府天満宮の鬼門に位置する山で、麓の竈門神社は太宰府天満宮の鬼門封じのために作られたとかいう話もあります。  最近はここが鬼滅の刃の何ちゃらになったということで有名になり、参拝客が増えたそうな(よくわからん😅) また明治時代の廃仏毀釈までここは修験道が盛んでした。伝教大師最澄はここで唐へ渡る前、安全祈願を願ったということでも知られて

          足半(あしなか)の効用➁

          足半(あしなか)の効用

          足半という履物をご存じでしょうか。 「あしなか」と読みます。こう言うものです。 読んで字の如く足の半分までしか長さのない草鞋(わらじ)です。 実は、この足半(あしなか)をどうしても広めたくて、これを書いております(笑) 足半(あしなか)は、近代まで農漁民などの肉体労働者が履いておりました。 足半(あしなか)の起源は鎌倉時代まで遡ることができます。 元寇の絵巻図「蒙古襲来絵詞」や「春日権現験記」をみてみると、槍を持った武士が足半を履いているのが確認できます。 当時

          足半(あしなか)の効用

          ナガサキ ナイトメア 長崎の原爆は、東洋一のカトリック教会を狙ったものだったと!?

          8月7日早朝、広島市内を後にした私は、帰りに宮島の弥山へ登って、1200年前に弘法大師が護摩修行の時に焚いた火が今なおお灯されされ続けているという霊火堂を参った。 弥山は500mを超える宮島の霊山で、頂上には巨石が露骨に張り出し古代磐座信仰の痕跡が多く見られ、古代から続く霊山の雰囲気が伺える。眼下には水蒸気で霞む美しい瀬戸内海が広がり、日本随一の美観といった趣がある。  霊火堂の火は、広島の平和公園に灯されている「平和の火」の元火にもなった。   日本国の平和と安寧は、弘

          ナガサキ ナイトメア 長崎の原爆は、東洋一のカトリック教会を狙ったものだったと!?

          ヒロシマ モナムール 怨みは怨みを捨ててこそ止む

          今年は日本が原子爆弾を落とされてから、また敗戦後77年目となる。 そして今日は8月15日、いはゆる「終戦記念日」。 毎年この季節になると、戦争や平和、そして戦後日本の有り様などについてあれこれと考えてしまう。 今年は8月6日に広島に、8月9日には長崎に行った。 今年行くようにしたのは、時間的にも多少経済的にも余裕があったからだというのもあるが、それ以上に、この国の戦後の在り方についてもっと考えてみたくなったからだ。 私の日本に対する鬱憤は相当なものがあるだろう。その

          ヒロシマ モナムール 怨みは怨みを捨ててこそ止む

          「熊野詣で日記13」 最終回

          朝は、ゆっくりと目が覚める。 まだオリバーもマサキも寝ていたので、私は本棚にあった「日本•ユダヤ 封印の古代史 【仏教•景教篇】」という怪しい本を一人読んでいた。内容はあまり覚えていないが、トンデモ説だとわかっていながらもロマンはある。 大乗仏教の成立にはキリスト教の影響があるというのを他の何かでも読んだことがあるが、イエスキリストの弟子トマスがインドまでやってきたのは知られているそうで、そのトマスが持ち込んだキリスト教の影響があってか自力救済の宗教であった仏教が、阿弥陀

          「熊野詣で日記13」 最終回

          「熊野詣で日記12」〜紀伊勝浦から伊勢へ〜

          3月29日 昨夜はかなり酔っ払っていたのにもかかわらず、目が覚めたのは朝の6時半。 二日酔いもほとんどない。 熊野古道の巡礼中は電波も悪いこともあってほとんどSNSの類いをチェックをしてなかったが、今はあたりまえのようにinstagramを開いていた。 そのスマートフォンの画面の中は、色んな人たちのそれぞれの「日常」が表現されている。 自己顕示欲を満たすため、そして寂しさを紛らわすため皆必死のようだ。私とて、巡礼中に何度か投稿したので例外ではないが、5分もみていると少々

          「熊野詣で日記12」〜紀伊勝浦から伊勢へ〜

          「熊野詣で日記 11」 〜観音の浄土〜

          3月28日 昨夜は那智高原公園の障害者用のトイレで寝たがのだ、誰も来ることなく、また雨風が防げて、今までの野宿の中では一番快適であった。  オリバーは、ここを「ゲストハウス」と名づけていたが(笑) 5時半に起き、コーヒーを淹れ、出発の用意して、那智高原公園を出たのは6時45分頃。 那智大社まではもう数キロも離れていない。  朝もやの残る高原を降り、山道をとおって那智大社へ向かう。 瀑布の轟音が遠くから聞こえて来て、ふたりとも震えた。 さて、那智の滝である。ここに

          「熊野詣で日記 11」 〜観音の浄土〜

          「熊野詣で日記⑩」 ~トイレで寝るの巻~

          3月27日 5時半くらいに起床しただろうか。昨晩はかなり冷えた。 山深い谷間の、川辺にかかる橋の下にテントを張ったのである。 霜がテントにびっしょりついていてどうりで寒いはずだと思った。寒さのせいで朝の用意も容易にはいかなかった。 コーヒーを淹れ、山崎パンの食パンにバターを塗っただけの食事をとったが、寒さのせいであまり朝食をとった気がしない。 もう4月も間近なのに。 霜を乾かすべく、小口休憩所のトイレ前にテントのカバーを広げた。 その間太陽の光が指しはじめ少

          「熊野詣で日記⑩」 ~トイレで寝るの巻~

          「熊野詣で日記⑨」 〜俺はどこに行っても忙しない日本人〜

          3月26日 今朝はゆっくりと過ごすことができた。 7時半ぐらいに目が覚めたが、8時くらいまで布団の中で司馬遼太郎さんとドナルド・キーンの対談本を読んでいた。 まだまだ私には知らないことがたくさんある。日本文化に造詣の深い彼ら二人の本はとても刺激になる。 その後、再び温泉に入って最後の湯垢離をし、その後はお粥の朝食を食べた。  ジェイホッパーズは朝食のお粥が無料でついてくるのだ。 宿のスタッフに今日は小口まで行くというと、小口までたぶん6時間もかからないとのことだったの

          「熊野詣で日記⑨」 〜俺はどこに行っても忙しない日本人〜

          「熊野詣で日記⑧」〜天狗ハンティングへ(笑)〜

          3月25日  朝4時半起床 朝から温泉に入り、熊野本宮の神様に会うための湯垢離をとった。 まだ暗いうちから大日峠を越えて約4キロの道を歩く。 途中から雨が降り始め、合羽を持ってくるのを忘れた私は濡れながら歩いた。 大斎原についたのは6時過ぎだ。   空はもうほの明るい。  熊野川の中洲に鬱蒼とした森が広がる。  昨日のパン屋のおばちゃんはここに天狗がいると言ったが、確かに物の怪でも出そうな雰囲気がある。  だが明るくなってしまった今、天狗という雰囲気でもなく

          「熊野詣で日記⑧」〜天狗ハンティングへ(笑)〜