「動物農場」クソ社会と便器の外
この社会で良く生きること この世界で良く生きること
この2つの違いは何だろう。
ジョージ・オーウェルの 「動物農場」を読みながら、ふと考えた。
もちろん、このおとぎ話は「社会」に翻弄される動物達の右往左往を描いている。社会と世界を相対化するようには書かれていない。
この物語には背景となった史実がある。レーニン他界後のスターリン政権だ。
既存の支配を妥当し、革命を遂げ、理想を掲げた新たな社会を創設する。しかし、新たな社会もヘゲモニー争奪戦が起き、その勝利者の圧政に陥る。良き社会、悪しき社会というものの存立以前にクソ化してしまう社会の宿痾、(人間を含めた)動物の宿痾が描かれている。どうあがいても社会はクソ社会以外はあり得ない。その性質はいくらかオルタナティブにスイングしようが、そのホメオスタシスによりクソ化し、クソに落ちつく1945年にそれを喝破したオーウェルの慧眼はとてつもない。
現在の私達はもちろん、生きている社会がクソ社会であることは前提として受け止めている。その前提で動物農場を今現在読んでしまえば、ああ、クソによるクソの為のクソ社会は嫌だよね。くらいしか思わない。それは正しい読み方だとも思う。しかし、敢えて今、違った読み方をしたい。それはボクサーとベンジャミンを相対化した視点だ。
作中のボクサーは強靭な精神と肉体を持ち、誰よりもよく働き、自己犠牲を惜しまず、利他的である。一方ベンジャミンは老荘思想の持主のように、一種の諦観をもって、
「現に、事態が著しく良くなったり悪くなったりしたおぼえは1度もないし、また、著しく良くなったり悪くなったりするはずもないものなのだ、空腹と、辛苦と、失望、これが、いつも変わらぬこの世の定めなのだ。」とのたまう。
ここで見て取れるのは、ボクサー=カルヴィニスト、ベンジャミン=古代ギリシャ(くずれ)の対立構造である。
ここで、疑問が立ち現れる。
この社会で良く生きること この世界で良く生きること。この2つの違いは何だろう。
ボクサーは、この社会で良く生きた人である。しかし、クソ社会で良く生きるとはクソ社会を存続させることに繋がる。盲目的な信仰心を持ち続け、それに徹底的に殉じた彼は、彼自身の視点から見れば幸福であったかもしれない、また、社会内部の視点から見れば、立派であり英雄的であろう。しかしクソ社会での立派な存在は所詮、デカいクソだ。デカいぶん害悪の度合いは大きい。血も涙もないようだけれど、クソ。
一方、ベンジャミンはどうだろう。彼は社会がいつの世もクソだと見抜いていた。そんな彼は、クソ社会を存続させる為の労働に熱心に打ち込まないし、サボタージュもしない。クソ社会の構成員である彼自身もクソであると内心自覚していたのであろう。それならば、なるべく小さく、下水に流されないように目立たず、自分の存在を最小にするニヒリスト。最小のクソ。
ベンジャミンはもちろん、クソ社会で良く生きたとは言えない。もちろんそんな事願い下げだろうが。しかし、社会の外、世界で生きる事は出来なかったのか。この問題の答えは未だない。宮台真司氏が言うように、社会という荒野を仲間と共に生きる。その実践こそ私達がサヴァイヴするための唯一の方法かもしれない。そもそも、マルクス・ガブリエルのいうように、世界というものは社会のなかで生まれた考えで、それを名指せる視点なんてありえない。だから世界なんて存在しない。のかもしれない。
希望なんて馬鹿しか持てない。しかし希望を持てずに死ぬのではない。希望と絶望というコンセプトの外、世界を希求しつづける。そんなものがあるか知らんけど。
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