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自分らしく生きるためのセルフコミュニケーション分析と改善のヒント#12「べき論思考(MUST思考)」のモグラ叩きから抜け出すヒント
これまでの人生、周りに振り回されてばかりの「他人軸」のしんどい毎日を送っていたとしても、心の中の自己対話(セルフコミュニケーション)を見直すことで自分軸に軌道修正できるということをコンセプトに、シリーズでお届けする記事の12回目です。
人間関係でしんどさやお悩みを抱える要因の一つに、無自覚な「べき論思考(MUST思考)」によるコミュニケーションがあります。
たとえば、
「人から嫌われてはいけない(嫌われるべきじゃない)」
「ちゃんとするべき(ふざけるべきでない)」
「人には優しく親切にするべき(不親切にするべきじゃない)」
「女性は(妻は・母は)こうあるべき(こうあるべきじゃない)」
「男性は(夫は・父は)こうあるべき(こうあるべきじゃない)」
「子どもなんだからこうするべき(こうあるべきじゃない)」
「職場は(仕事は)こうあるべき(こうあるべきじゃない)」
……などなど。
こうした「べき論」の中には社会的・文化的に暗黙のルール・ナレッジとして広く世間に浸透している類のものも一部あるにしても、基本的にはあくまで「マイルール=個人的信条」であって、いつでも・どこでも・誰にでも適用される性質のもの(法律や条例など)ではありません。
「べき論」を信じたい人が自己責任(自己選択)で物事の判断基準に適用すればいいものです。
つまり本来「マイルール」である「べき論」を他者や社会にまで拡大し、あたかも「公共ルール」として適用させようと頑張っているから人間関係でしんどさやお悩みを抱えてしまうということが言えるかと思います。
今回はこの「べき論」をテーマに、心の中の自己対話(セルフコミュニケーション)を見直すことで自分軸に軌道修正するヒントをお話します。
「べき論」は諸悪の根源!?
先にお話ししたように、「~するべき(しろ)」「~するべきじゃない(するな)」といった「べき論」は、あくまで「マイルール=個人的信条」であって、万人に適用される性質のものではありません。
にもかかわらずマイルールを他者や社会に対して「自分と同じように適用されるのが当然」と主張すれば、それはトラブルにならない方がおかしいくらいで、野球を好きで楽しんでいる人たちに向かって「どうしてサッカーしないんだ! おかしいじゃないか!」と主張したら、それは激しく抵抗されますよね^^;;
だからといってなにも「べき論」が諸悪の根源だと主張するつもりはありません。
そもそも「べき論」って、人生の「ある局面」では役立った体験があったはずです。でなければ、そもそもルール化(道徳化・義務化)なんてしませんね^^
ですので無理して「べき論」を手放そう、あるいは書き換えようと頑張る必要はないわけで、まずは「自分以外には適用しないこと」に注意するだけでも随分と現実は変わるかと思っています。
とはいえ、注意するには自分がどんなべき論に執着しているのか、まずは気づいておくこと、把握しておく必要があります。
凝り固まった認知の枠組み「べき論」に気づくヒント
べき論を自覚する方法はたくさんありますが、「他人にべき論を適用していないかどうかを自覚する」という観点に絞っていえば、生活の中で感じる理不尽さからくる怒りや、嫉妬などいわゆるネガティブ系の感情を感じたときが、無自覚な「べき論」を自覚する(意識化する)大きなチャンスと言えます。
たとえばなんらかの出来事に遭遇したとき、反射的に
「これっておかしいじゃないか!」「それはずるいじゃないか!」
こんなふうに感じるとき、その前提には「こうあるべき(こうあるべきじゃない)」といった「べき論」があるはずで、その枠組みから外れたからこそ「おかしい!」「ずるい!」と反応しているわけです。
つまり、こうしたネガティブ系の気持ちを感じた際に、「自分はどうあるべきだと思っているんだろう?」「どんなべき論がこの気持ちを生み出したんだろう?」と自問自答してみると、自覚できていない「べき論」に気付けるという理屈です。
こうして「べき論」が自覚できさえすれば、他者に適応しないように意識することができるし、さらにいえばその「べき論」をこれからも維持(保持)し続けるのか? それとも手放すのかを自分で選択することもできますよね^^
「べき論」は根っこを変えなければエンドレスで生みだされていく
ここまでの話は「べき論」で悩みを抱えた方であれば、自身で色々と調べるなどしてどこかで聞いたことがある話かと思います。
僕もこんな浅い話をしたいわけではありません^^
実はここまでは前振りで、ここからが今回の本題です^^
先ほど「べき論」は人生のある局面では役立ってきた体験、つまりなんらかのメリットがあったからこそ、それ以降自分の中でルール化(道徳化・義務化)してきたとお話しました。
今回、考えてみたいのは「べき論」の裏にある「メリット=動機」についてです。
というのも、いくら問題や悩みを生み出している「べき論」に気づき、それを手放せたとしても、「べき論」の根っこにある動機にアプローチしなければ、その動機がまた新たに別な「べき論」を生み出してしまい、結局、問題や悩みのループから抜け出せないケースが少なくないからです。
この「べき論のエンドレスもぐら叩き状態」に陥るのは、かなり悩ましい状況を生みだすと考えてます。
というのも、せっかく頑張って習慣化した「べき論」を手放せたと思っているのに、それは手放したつもりなだけで、実際には新たに別な「べき論」に置き換わっただけだということを自覚できていない。。。
置き換わった新たな「べき論」が、また同じような悩みや問題を生み出していく。。。
叩いても叩いても新たな「べき論」が増えていくばかり。。。
結局、いくら頑張っても現実を変えられない自分を嫌悪する。。。
こうして無自覚に「べき論」を自作自演で創作しては叩くという無限ループにはまってしまうと、「自己嫌悪」や思い通りにしてくれない周りへの「敵意」など、ネガティブ感情ばかり体験することで人生がまるで苦行のように感じやすくなってしまいがちだからです。
特に根っこにある動機が、自分で納得し自己責任を覚悟している「自分軸的(自律的・自発的・自己目的的)な動機」ではなく、「他人軸的(世間様の同調圧力的・欠乏欲求的な動機」など他責を前提にした動機の場合、またすぐに新たなべき論を生み出しやすく「エンドレスモグラ叩き」に陥りやすいようです。
ゆえに「べき論」にアプローチして終わりといった表層的なアプローチではなく、「べき論」の根っこにある動機にアプローチする必要があると考えているわけです。
「条件付きべき論」と「無条件べき論」
ということで、あらためてべき論の構造から見ていきましょう。
「べき論」は基本的に「命令形」で表現することができます。
・~するべき(~しろ)
・~するべきじゃない(~するな)
また、「べき論」の変形バージョンに、「当然~だ」「普通は~だ」といった決めつけ論(断定形)もあります。これも表現形式は違えどその本質は「命令」であり「べき論」の亜種と言っていいでしょう。
そして命令は大きく2つに分けることができます。
一つは「条件付き命令」、もう一つは「無条件命令」です。
条件付き命令を具体的な文章で表現すると
・「もし~ならば、~するべき(しろ)」
・「もし~ならば、~するべきじゃない(するな)」
という文章で表現できるもの。
たとえば
「褒められたいなら(条件)、いい子にするべき(命令)」
「叱られたくないなら(条件)、仕事をサボるべきじゃない(命令)」
みたいなものです。
そして、無条件命令は
・「(なにがどうあれ)~するべき(しろ)」
・「(なにがどうあれ)~するべきじゃない(するな)」
という文章で表現できるもの。
たとえば
「(いい子でいるべきだから)いい子でいるべき(命令)」
「(サボるべきじゃないから)サボるべきでない(命令)」
みたいな話で、同語反復(いわゆる小泉構文^^)で表現されるものです。
この違いを明確に区別し把握することが、動機にアプローチする上で無茶苦茶大切になります。
でもどうしてこの区別がそんなに大切なのでしょうか?
それは条件が動機そのものになっているからで、条件が明確になれば自ずと動機にアプローチすることができるからです。
ではここまでの話を踏まえて問題です^^
<問題>
「人に迷惑をかけてはいけない(迷惑をかけるべきではない)」というべき論に執着しているせいで、誰にも頼ることができずになんでも一人で抱え込んではストレスを抱え苦悩している人がいたとします。
このとき、この人が執着しているべき論は「条件付き命令」でしょうか? それとも「無条件命令」でしょうか?
あるいは「嘘をついて人を騙してはいけない(嘘をついて人を騙すべきではない)」というべき論ならどうでしょうか?
このべき論は「条件付き命令」でしょうか? それとも「無条件命令」でしょうか?
・・・thinking time・・・
文面だけみると「無条件命令」に見えるかもですね。
でも言葉として表現されていなくても、実は「条件付き命令」の可能性もあります。
たとえば、
「もし人から好かれたいならば」
「もし人から嫌われたくないならば」
「もし人から信用されたいなら」
といった条件が隠れている可能性が考えられますね。
このように、一見すると無条件に思えるものでも、よくよく考えてみると「条件付き」だったということはよくあることです。
ですので、「べき論」に気づいたら、まずはじめに「どうして~するべき(べきじゃない)と私は信じているのだろう?」と自問自答し、条件つきなのかそれとも無条件なのかを区別する。
そして「命令そのものが動機(つまり無条件)」なのか、それとも「どんな条件があるのか(つまり条件付き)」を区別することです。
区別する際のコツとしては、「もしも『~するべき(するべきじゃない)』の真逆をしたとしたらどうなると思っているのか?」を自問自答すると、条件付きであればいくつかの理由(動機)が浮かぶでしょうし、無条件であれば直感的に「もしももなにも、そんなのは関係ないでしょ」みたいな感覚を持つかと思います。
そうやって区別したら、次はどちらの動機だったにせよ、その動機が自分で納得し自己責任を覚悟している「自律的・自発的・自己目的的な動機」なのか、それとも自分では納得していない「他人軸的(世間様の同調圧力的・欠乏欲求的)な動機」なのかを分析します。
ここが一番大切なポイントになるかと思います。
というのも、自分で納得できれば、その時点でそれまで問題や悩みだと思っていたものが問題でもましてや悩むことでもなく、ただ「周りと生き方・考え方が違うだけ」という認識に変わるからです。
言い換えるなら「自分は自分、他人は他人」といい意味で割り切れるようになり、結果として問題や悩みが解消してしまうということです。
つまり問題や悩みを生み出しているのは「他人軸的(世間様の同調圧力的・欠乏欲求的)な動機」にもとづく命令(べき論)にあるということですね。
では、もう一方の「他人軸的(世間様の同調圧力的・欠乏欲求的)な動機」だった場合はどうすればいいのでしょうか?
これは、そもそもなぜ同調圧力的な動機に執着するのか? そもそもなぜ欠乏欲求的な動機に執着するのか? これらを自己分析しその上で動機を生み出しているさらに根っこの部分。。。 言ってみれば人格形成(発達過程:ライフサイクル)のプロセスを丁寧に紐ととき、形成プロセスにおける課題をクリアしているかどうかをチェックし、未解決の課題があればクリアするというかなり丁寧な段階的アプローチが必要になると考えてます。
ではどのようにして人格形成のプロセスを紐解きながら段階的アプローチをすればいいのでしょうか?
それはこちらの本でしっかりお話しさせていただいてます^^
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今回も最後までご覧いただきありがとうございましたm(__)m
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