茨木のり子さんの 『汲む』 という詩
ふと昔の自分を思い出して、心がその時の自分に戻って過去から今を見つめているみたいな気分になる時がある。そんな時に思い出すのが、茨木のり子さんの『汲む』という詩。
高校3年生の卒業間際だったか、おそらく最後の学年集会、体育館で配られた学年通信にこの詩がプリントされていて、私はすっかり惹きこまれて、前に立つ先生の話をよそに、何度も繰り返し読んでいたのを覚えている。
汲む
ーY・Yにー
大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです
あれからもう何年も経って、それでも思い出して読むたびに、どきっとさせられる。
いろんなことを「慣れ」でおろそかにしていないだろうか、今見ているものは、ちゃんと今見えているものなのだろうか。
すっかり大人と呼ばれる年齢になってしまったけれど、自分の心の頼りなさも大事にしていきたい。