最近、男女それぞれの育児エッセイ本を1冊ずつ読んだ。
前者『おそるおそる育休』は毎日放送の西アナウンサー、後者『きみは赤ちゃん』は小説家の川上未映子さんによるもの。弊社のオウンドメディアである「サイボウズ式」で西さんと青野さん(弊社社長)が対談していた記事がきっかけで前者を買ってみて、たしかその関連レコメンドとしてAmazonに紹介されて後者も買ってみた流れ。
両者とも非常に読みやすいという共通点もありつつ、中身でも共通点が所々あるのが印象的だった。
1. 「料理の属人化」に基づく夫婦ゲンカがどちらでも起きている
『おそるおそる育休』では三男が生まれて間もないタイミングで、入院中の妻さんとビデオ通話しながら長男や次男のお弁当作りに奮闘する西さんのエピソードが登場する。
そして『きみは赤ちゃん』では、川上さんが夫である「あべちゃん」さんに料理を任せられないことについて怒りを爆発させるシーンが描かれる。
両者ともに(おそらく)子どもが生まれる前から顕在化していた問題だったわけではなく、子どもが生まれて初めてケンカの原因として露呈したように見える。「属人化していようが何だろうが今はひとまず回ってるからヨシ!」と解決を後回しにしてしまうことは仕事でもよくあると思うが、それは家族生活でも同様なのだろうなとしみじみ実感した。
2.子どもへの愛情や責任感のギャップは男女の違いによるものか、という共通の話題
『おそるおそる育休』では、西さんが感じた「愛情が立ち上がる時間差」が語られていた。
自分もおそらくエコー写真を見たところで「なるほど……そんな気もする……?」としか思えない姿は容易に想像できるし、生まれても最初は「あまりに赤ちゃんすぎてよくわからないモンスターにも思える。"可愛い"という感情が追いついてこない……」と戸惑う気がした。友人等と「そういう段階の子ども」というものについて話す機会が現実的にはどうしても女性の方が多いという環境の違いに起因するのだろうか、と想像をした。
一方『きみは赤ちゃん』では、女性として育児タスクを男性にして「もらっている」と感じてしまった川上さんの苦悩や考えが記されている。
このあたりは社会的圧力にも多分に起因するところだと思うが(というか本書内でもそういう言及は十分なされているが)、その上で「やっぱり赤ちゃんと母親っていうのは良くも悪くも身体でつながっていたという事実がある」という指摘が興味深いと思った。
いや、それ自体は言われてみれば「それはそう」なのだが、それがつまるところ「身体的に、赤ちゃんが自分の一部だったときがある」と言い換えられていた点に、自分は膝を打つ思いをした。これまた「それはそう」だが、そういう身体・物理的なつながりから生まれる責任感が存在する可能性もあったかと。
この感覚を教えてもらった上で、前述の西さんの「愛情いっぱいモードにすぐにはなれなかった男性の私」の話を振り返ると、改めて納得感が生まれる気もした。どこまでいっても男性の立場だと「子どもであっても自分とは物理的に別の人間」である以上、頭では良くないとわかっていても女性とまったく同じスピードで子どもへの愛を注ぎ始めるのは困難であってもおかしくないのかもしれないと。
※その上で、社会的な性役割の要求の存在も決して忘れてはいけないとは思うが
ひとまず読んだのはたった2冊なので、これらはたまたまその中で共通していただけの可能性もあり、一般的な「あるある」と言えるかは自分の中では保留としている。積極的にこのカテゴリの本を直近さらに読んでいこうと考えているわけではないが、読む機会がまた出てきたらこのあたりのテーマがどういった形で語られるかは少し気にして読んでみたいと思った。
本当に理論的に「あるある」を学びたいのであれば、そういう論文を漁るべきなのだろうが、自分が子どもを育てる予定が現状具体的に何か決まっているわけでもないので、これくらいの読みやすいエッセイの形でゆるゆる知らない世界を垣間見させてもらえるのは大変ありがたい。物語的な楽しさと自分にはない視点の学びを両方味わわせてくれる。
そういえば、以前読んだ中原淳さんの『駆け出しマネジャーの成長論』では、新任マネジャーがマネジメントの現実に直面して喰らう「リアリティ・ショック」を和らげるために"移行期間"に取り組むべき1つとして、今後直面する可能性がある現実の世界をできるだけ正確に知って予測する「リアリティ・プレビュー」の重要性が説かれていた。それがリアリティ・ショックに対するある種の"ワクチン"になると。
子育てにおいても、そのような考え方は有効そうに思えた。まあ、それでも予測できないことのほうが多くなるのだろうが。