『不幸論』を読んで、不幸と幸せについて考える
休職中です。
ちょっと固めのタイトルになってしもうた。
今回は、読んだ本の紹介です。
『不幸論』中島義道 著(PHP新書)
ある人のブログから知りました。
最近書かれた本ではありません。
この本の発行は2002年ということなので、20年以上前になりますね。
この著者の本は、これまで読んだことがありませんでした。
著者の中島氏は、哲学博士であり、大学教授でもあるそうです。
本書も、哲学や倫理学に分類される本ですね。
他に、どんな本を書いているのかな、と調べてみたら、以下のような本を出されていました。(順番は時系列ではありません)
・『人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ』
・『〈ふつう〉から遠くはなれて ――「生きにくさ」に悩むすべての人へ』
・『働くことがイヤな人のための本』
・『人生に生きる価値はない』
・『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』
・『明るく死ぬための哲学』
いやあ、濃いですね。
タイトルだけでグイグイきますね。
ちょっと他の本も読んでみたい気がします。
特に、『働くことがイヤな人のための本』は、タイトルだけ見れば自分の琴線に触れますが、『不幸論』の本文中で、『働くことがイヤな人のための本』に対する愛読者カードからのひどい非難ゴウゴウを、著者自ら転載しているのも面白い。
・・・愛読者とは?
どんな感想かというと、、、
「期待はずれ」「途中で読むのがイヤになった」「内容は最悪」「買って損をした」「バカにしてるのか」「詐欺だ」「単なる哲学への勧誘」etc..
そこまで言われるなら、逆に怖いもの見たさで、読んでみたい気もしてきます。
そもそも人生は「不幸」なもの、という説
世の中は一般的に、人生に「幸福」や「幸せ」を求めるのが普通、とされていますよね。
この本、「不幸論」は、のっけから「どんな人生も不幸である」という論点から始まっています。
人はいつか死にます。
それは決定事項です。
死は不幸です。
よって、人が死んでしまう限り、幸福はあり得ない、という説です。
すげえな。
幸福とは求めれば求めるほど遠ざかるもの、という構造を持っている。
かといって、求めなければ与えられるものではない。
ということも書かれています。
これは分からないでもないですね。
著者によると、「幸福である」というのは、すべて錯覚らしいです。
いかにして幸福になるか、というテーマの人生論は、真実を隠蔽して幸福という錯覚に陥りなさい、というすすめにほかならない、とのこと。
人は決して幸せになれることはない、という思考は、ある意味暴論であり、誰でも受け入れられるものではないでしょうね。
著者の偏屈ぶりが、余すところなく発揮されているというか。
過去の哲学者、思想家、作家、心理学者などの引用が多く使用され、どこからどこまでが著者の文章か分かりづらいことがあります。
うんうんと共感を持ちながら読み進める、ということは難しいでしょう。
常時、「ん?」「んん?」「は?」と思いながら読むことになります。
総じて難解で、お世辞にも読みやすい文章とは言えないかと。
この本からの気付き
そういうわけで、著者の偏屈な思想を書き並べられていて、サラッと読める本でもないので、誰にでも気軽にオススメできる本とは言えません。
ただ、途中でハッとした部分もありました。
「幸福の社会化」という節で、「自分は○○だけど幸福だ」という人がいたとしても、社会通念とのズレがあっては幸福ではない、という図式をあてがって、個人の心情を「社会化」しようと努力する人がいる、という点。
そして、そういう人のほうがマジョリティであり、著者の敵ということ。
たとえば、
・恋人の1人もいないで、幸福なはずがない
・誰も待っていない真っ暗な部屋に帰って幸福なはずがない
・何の身寄りもない老人なんて幸福なはずがない
みたいな例を挙げて、
「幸福な人生」とか「日常の幸せ」みたいなことを語るとき、誰にでもこのような心理って、無意識に生じるのではないかと、ちょっと考えてしまいました。
「あの人は、あれで幸せなのだろうか」とか、「あなたはもっと幸せになれる」とか。
悪気なく、無自覚に、残酷に。
例えば、
・独身者と、結婚して子供がいる人の間で。
・年収300万円の人と、年収1千万円以上の人の間で。
・病気持ちの人と、健康体の人の間で。
・仕事がつらい人と、仕事が楽しい人の間で。
・狭いアパート暮らしの人と、庭付き新築一戸建ての人の間で。
・無趣味な人と、多趣味でアクティブな人の間で。
本人が幸せだと感じていればいいじゃないか、ほっといてくれ。他人のことはとやかく言うものではない。
・・と思いますが、どうしても幸せというのは、相対的なものになってしまいます。
「家族が毎日健康であれば幸せ。これ以上何も望まない」とか言ってる人は、本当に、すべてにおいて不満はないのでしょうか。
自分より幸せな(そう見える)人に、嫉妬心や羨ましく思う気持ちはゼロでしょうか。
「隣の芝は青い」現象は皆無なのでしょうか。
手が届かない、あのブドウは酸っぱい、という気持ちはないでしょうか。
そうではないですよね。
「幸せだ」と感じつつも、どこかで妥協とか諦めがあるほうが、人としては自然です。
そういう意味では、ここで感じている「幸せ」は虚構であり、思い込みである、と言えなくもない・・。
あ、なんと『不幸論』で書かれている主張に少し近づきました。
よく分からなくなってきたので、もう考えるのはやめましょう。
無理矢理まとめるとしたら、幸せになりたいと思うなら、その対極にある存在の「不幸」をちょっと視野に入れてみることで、幸せのかたちが少し見えてくるかもしれませんね、みたいな感じ?
今日の記事は妙に頭を使った気がします。疲れた。この本イヤ。
コンビニのホットコーヒーとエクレア(合計250円ほど)くらいでも、十分「今は幸せ」な気分を味わうことができる私がお送りしました。
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