
詩のように書かれる地獄、現実、そして救い-『キス』キャスリン・ハリスン(米1997年)
近親相姦の暗闇へー
大学生の娘と牧師の父親が、覚めない悪夢のような谷底へと転落した。著者自身の実体験を真摯に綴った、人間存在の根源に迫る衝撃のノンフィクション。
海外のすぐれた作品を日本に紹介しつづける"新潮クレスト・ブックス”が創刊されたときの初回配本がこの『キス』だった。
あらすじは知っていると思っていたのだが、小川洋子と平松洋子の本に関する対談『洋子の本棚』を読んで、勘違いしていたことに気付いた。単に父親と娘の近親相姦の話というだけでなく、それ以上に母娘関係のもつれを書いていると聞いて、印象が変わった。毒親の話なら、読むべきだと思った。
若くして結婚した父と母は、娘が生まれるとまもなく離婚。成長した娘は大学生となり、父は離れた町で、牧師として新しい家庭を築いた。そして、運命の再会。父は娘の美しさに目を奪われ、娘は父の登場に心を奪われる。やがて二人は、近親相姦という暗い谷底へと落ちていった--。
抒情詩を思わせる文章。
作者の記憶の断片が淡々と書かれているが、全て象徴的なシーンばかりだ。過去のことなのに、すべて現在形で書かれているのも、この恐怖が現在にまで及んでいることを示す効果がある。
完璧なディティールが美しく、息をのむように読んだ。
本当に不思議な文で、しだいにその理由がわかった。作者の感情がほとんど書かれていないのだ。
わたしは母の両親に育てられる。十七歳になるまで祖父母の家で暮らす。そこでは父の名前が出ることはなく、その存在はけっして語られない。(略)
父と母はわたしが生まれて六カ月で離婚する。わたしと母は祖父母のもとに残り、父が出ていく。
母は娘に関心がなく、ほとんど存在を無視している。ほかの男性とデートをし、婚約指輪をもらうこともある。フランス語の勉強ができない娘に平手打ちを食らわせる。
大学入学のために一人暮らしする娘に、母はペッサリーをつけさせる。
「処女膜を破らなければ無理ですな」診察のあとで医者が言う。「それはお望みではないでしょう」
窓際に立っている母は、ためらう。わたしはひじをついて体を起こす。「いいえ、お願いします」と母は言う。
医者は、サイズ別に並んだ緑のプラスチック製ペニスを使う。ステンレス製の手術用トレーの蓋を開け、一式を取りだす。病気と死を連想させる陰鬱な道具。医者は順番に挿入する。(略)
医者は、母の目の前でわたしの処女を奪う。
少女は原因不明の-というか心因性としかいえない数々の症状に見舞われる。胃腸炎、肺炎、脱水症状、拒食症、自傷行為。
誰も彼女の名を呼ばない。名前を呼ばれないことで、彼女が本当に一人ぼっちだと思った。
どれも苦しい場面ばかりなのに、乱れのない文体なのは、作者にとってこれらの出来事が全て日常だったからだろう。
(「日常だった」と過去形で結論できるだろうか? 昔の出来事だとしても、心の中に残っているのに。)
縛られていないのに、閉じ込められている。
父と十年ぶりに再会した娘は、別れる際口に舌を奥深くまで入れられる。そこから関係ははじまった。
自分に価値がない、と思っている、愛情に飢えた少女に、他人からの関心は飢餓を癒すものだった。私には実感としてわかる。
そのあとの彼女はあまりに小さく縮こまっていたため、もう誰も彼女を心配しなくなる。他と切り離された生き方へ貶められた彼女に、誰の理解も届かないのだ。本物の孤独。
「わたしは生まれたときからそうであったように、両親がふたりきりのプライバシーを得るための妥協の産物なのだ。」
残酷なのは、作者自身が自分をそう表現している事実である。
だけど少女は生き残り、自らも母になった。私は彼女がどうやって今の夫と出会ったのか、彼女にとっての出産はどんなふうだったかに、とても興味がある。
彼女は常に思っていたはずだ。「なぜ生まれてきたんだろう?」と。
彼女にとって“生きる”とは、“自由”とは、どういう意味だったんだろう?そして、今もどういう意味なのだろう?
そもそもの始めから破綻の見える、自分の生を、脆弱で卑小だと思わなかっただろうか? 私なら思う。
自分の人生を書くとはどういう気持ちになるのだろう。誰も自分を外側からは見れない。
「それでも生きていく」べきだろうか。
いくつもの疑問文がうかぶ。
でも(と書くが)、ノンフィクションを読んだときの、ありきたりになってしまう想いが浮かぶ。「こんなにも大変な人がいたんだ、そして生き延びたんだ」と。それはあまりにも薄い言葉だが、勇気をもらえることではないだろうか。
苦しんでいた人にしか、わたしは救えない。わたしはキャスリンに感謝している。生きてくれたことに。書いてくれたことに。死ななかったことに。
note転記 7/20
完成 8/9