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わたしが美人だったら、わたしが作家だったら、わたしが特別だったら-『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス(1963年作/2024年新訳)

 (1,972文字)
 英文科を卒業した友だちに好きな小説を聞いたら、『ベル・ジャー』(2004年版)を教えてくれた。
 それは数日前川上未映子さんのInstagramで紹介されていた作品だった。偶然にもわたしはその投稿をスクショしていた。新訳が出たタイミングだった。川上さんは「絶対読んでほしい」と繰り返しアップしていた。
 さらに偶然、そのとき『天才たちの日課』(2014年)で、作者シルヴィア・プラスの習慣についての文章を読んでいた。
 わたしは『ベル・ジャー』に取り囲まれていた。

わたしはぜんぶ覚えている。あの痛みも、暗闇も——。
 優秀な大学生のエスター・グリーンウッドはニューヨークのファッション誌でのインターンを勝ち取ったとき、夢がついに叶うと信じて喜んだ。しかし、退屈なパーティー、偽善的に感じられる恋人、空虚なだけのニューヨークでの生活に違和感を覚え、世界が支離滅裂なものに感じられる。 そして、とあることをきっかけに精神のバランスが徐々に崩れていく。

晶文社HPより

 精巧に作られた、すべてが詩のような文章。
 素敵な表現に小さな付箋を貼っていったら都会の星空みたいにまばらに色がついた。
 うつくしいと言わずにはいられない、一文も油断のない文章はエスターの差し迫った心模様のようだった。

 熱いお湯に浸かって治らないことはたくさんあるはずだけど、わたしはあまり知らない。死にそうなほど悲しいとき、あまりにも不安で眠れないとき、一週間も恋人に会えないとき、とことん落ち込んでからわたしはこう言うのだ。「熱いお風呂に入ろう」

『ベル・ジャー』P.35

 冷静沈着な白い太陽が空のてっぺんで輝いていた。ナイフの刃のように気高く薄く余分なものが削ぎ落とされるまで、太陽で自分を研ぎすましたいと思った。

『ベル・ジャー』P.159

 また、目を惹く比喩がふんだんに書き込まれている。

 曲と曲のあいだの音楽が鳴っていないときも、二人はジルバを踊り続けていた。わたしは赤いラグや白い毛皮やパイン材を背景に、自分が小さな黒い点に縮んでいくように思えた。P.31

 ベッドのシーツのあいだにもぐりこんで寝てしまおうとも考えたけれど、それは書き込みすぎて汚くなった手紙を、新しいまっさらな封筒に入れるのと同じくらい気が進まなかった。P.35

 あざだらけで腫れぼったく、色むらもひどい。石鹸と水とキリスト教信者の寛容な心を必要とする顔だった。P.157

『ベル・ジャー』

 ディテールの素晴らしさは他に類を見ないほどだ。それは「わたしはぜんぶ覚えている」(P.361)と書いたエスター(=シルヴィア・プラス)が、切迫した精神で生きていたことの証だと思う。しかし読者はエスターの目を通して書かれた中にこの世界の美しさを見るのだ。

 小刻いい皮肉がとてもいい。恋人である医学生の出産見学についていったシーンで、妊婦が陣痛の痛みを緩和する薬を飲んだという説明をうける。

 まさに男が発明しそうな薬だ。ひどい痛みを感じている女性がいても、一時的に痛みがなくなれば、あんなうめき声はあげなくなるし、そうして薬が痛みを忘れさせてしまえば、産み終えて家に帰り、すぐまた子作りに励むとでも思っているのだろう。

『ベル・ジャー』P.102

 60年前にこれだけ正直に怒りを書いたことに驚き、安心した。男や気に入らない外部の人間に対する痛烈な物言いは随所にあり、そのたびわたしは感心した。

 そしてもちろん、この小説はディテールや比喩や文章そのものの美しさだけではなく、物語全体がわたしたちをとらえつづける。

 もしわたしの顔の骨格がもっとシャープで、抜け目なく政治を論じられたり、有名な作家であったりすればコンスタンチンはセックスしてもいいと思うくらいわたしに興味をもってくれるのかもしれない。

『ベル・ジャー』P.126

 同じだと思った。
 わたしが美人だったら、わたしが作家だったら、わたしが特別だったら、あの人たちはわたしを無視しない。
 死ぬことが解決ではないはずなのに、死ぬ以外の夢はつらい。叶わないから-
 エスター、わたしも同じだよ、わたしもと、彼女の手をとって、涙を滲ませて言いたかった。
 後半はわたしがいちばん脆かった17の頃を否応なく思い出させた。そのときの教師や看護師、医師や将来への不安などを。そして混乱した。
 わたしは『ベル・ジャー』にあてられた。

 シルヴィア・プラスの自伝的小説のため、読者はこの小説の続きを知ることができる。

 『ロミオとジュリエット』に「なにもかも駄目になってしまっても、まだ死ぬことだけはできるわ」というジュリエットの言葉がある。
 そう、わたしになにもなかったとしても、文学だけは常に、わたしのそばにある。

翻訳:小澤身和子
購入:10/11
読み:10/11〜10/19
note:10/19・10/21

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