ビジネスにおけるエモとロジック
ビジネスの場では、感情と感情のぶつかり合いがなかなか表面化しにくい。
例えば単純にこいつ気に食わねえなと思っている場合でも、その論理通ってなくないですか?とか、あくまでも理性的な反論であるかのように見せずにはいられない。
その点、学生時代に受けた反論はかなりエモーショナルで最高だったなと、このところ思う。
エモの戦い
中高の部活は団体競技だったので、同期の女25人で納得するまで話し合わねばならない場面がよくあった。
先輩も男もいないその場においては、立場は等しく、守るべき体裁はなく、ただ己の信念のみに基づく言葉の殴り合いが行われる。
当時からロジック武装癖のあったわたしは、AでBなんだから当たり前にCだよね、異論ある?といったような話し方をついうっかりしてしまうのだが、その場でロジック同士の戦いにはなかなか発展しない。
その通りですねじゃあCで行きましょうと決まった後で、大体超エモな戦いが始まるのだ。
「こんなとんとん拍子でお前の意見に従わされるのはむかつく」とか、「わたしの意見はいつも通らない」とか、「なんかこの場で決めるのは不安だから明日もう一回話したい」とか、「へらへらしててうざい」とか、「×〇÷?(なんかめっちゃ泣いてる)」とかとか。
そういうエモーショナルしかない反論を受けたときに、じゃあ代案を示してみてくれとか、Cじゃない理由を説明しろとか言ったところでその戦いは収束しない。
ただ話を聞いて、確かにそうだねと言って、周囲が「なんだかあっちの方が変なことを言っている気がするぞ…?」と思うように徐々に仕向けていくしかなく、正直めちゃくちゃめんどくさいし時間もかかるしいい加減にしてくれよと思うが皆一様に耐えるしかない。
ビジネスの場における隠れエモ
一方ビジネスの場では、あくまで理性的でロジカルである「ような」反論を受ける。
しかし、その根底にはかなりの確率で高校時代の部活のようなエモがあることが多いなと、最近特に思う。
外からやってきた若い外資の奴が言ってることが自分の現場経験を否定してきたら、それはもうむかつきエモーショナルが噴き出すだろうが、大人なビジネスマンはお茶を濁してくれているだけなのだ。
ただ、この状況においてわたしが言いたいのは、エモい反論は無駄だからロジックでやりあおうぜということではなく、エモい反論は当然あるものとして、ロジックでやりあう部分とそうでない部分を見極めなければいけないねということだ。
結局のところ、言われたとおりに実際に行動に移そうと思えるのは、反論の余地がない完璧なロジックを突き付けられたときではなく、受け手が受け入れてもいいかと思った時でしかないのだから、エモの戦いはビジネスにおいても避けては通れない。
ビジネスにおいて厄介なのは、エモの反論がロジックの仮装をしてやってきたり、ロジックの反論がエモの仮面をつけてやってくるという点だ。
なんか嫌だとエモく反論していても、言葉にできなかっただけでその裏には現場経験に裏打ちされた深いロジックがあって、丸め込んで行った改革は現場の本質的な改善にはつながらなかったということもある。
逆に、一見かなりロジカルな反論をしていても、実はわかりえていない気がするというエモで反論をむりやり並べていたにすぎず、一つずつクリアしているのに無限に噴き出す反論が、一緒に酒を飲みに行ったら一発で収束してしまったなんてこともある。
じゃあその本質をどうやって見極め、何にアプローチするかという判断は、もはや直感で行うしかない。
そこでわたしが頼りにする直感は、あの古びた視聴覚室で行われた、25人のエモの戦いにおける経験だ。
直感を支える25人の戦友たち
人生何が役に立つかわからないとはよく言うが、まさかあの心底くだらねえと思っていた”話し合い”という名のエモの戦いが、この期に及んでこんな形で役に立つとは思いもよらなかった。
あの時の25人は今、様々な職業についている。
銀行員、メーカー職員、フリーター、SE、アパレル定員、キャバ嬢、医者、受付嬢、薬剤師、インスタグラマーなどなど、ビジネスの席ではきっと一生集まらないであろう個性的な面々が膝を並べて、エモとロジックをごちゃまぜにして殴り合ったあの経験以上に、今後カオスな戦いは起こり得まい。
彼ら25人の戦友たちが、今のわたしの直感を支えている。
久しぶりに同窓会でもしたくなっちゃうね。