科学的進歩の必然的帰結について
【映画】『オッペンハイマー』クリストファー・ノーラン=監督/2024年、アメリカ
𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす
小さいときに読んだ子供向けの科学雑誌には、「君たちが大人になる頃には、科学の進歩によってこんな夢のような世界が実現している」と、絵入りで得意げに描かれていました。もちろん当時も環境問題はありました。たとえば、フロンガスによるオゾン層の破壊はたびたび話題になっていました。けれども、そうした科学によって引き起こされる問題すらも、また科学の力によって克服できるのだという、素朴な科学信仰のようなものがありました。
このような楽観主義に対して、私が最初に疑問符を浮かべたのは脳死問題でした。それまでは、医学的な死というものがはっきりと規定されていました。ところが医療技術の発達によって、生でも死でもない(心臓死ではない)脳死という状態が生まれてしまった。これを臓器移植に利用しようと前のめりになったり、「無益な治療=無益な患者」という判断が、善意の医師たちによってなされる事態になりました。
もうひとつはクローン羊ドリーの誕生です。これはもっとわかりやすいでしょう。クローン技術のヒトへの応用は現在も難しく、また国際的にも禁止されています。しかし、もし誰かがクローン人間を勝手に作ってしまったら……。どうしようもありません。まさか殺すわけにもいかないのですから。蛇が出現する心構えもできないまま、誰かが石を持ち上げてしまうのです。
要するに科学の進歩には(それを進歩と呼ぶならの話ですが)、そこを過ぎたら後戻りできない、それ以前と以後では世界が一変してしまうような特異点があるのです。映画『オッペンハイマー』もまさにそこを描いています。
科学がもたらす災いについて語られるとき、必ずこういう主張が出ます。「科学を悪用する人間がいるだけで、科学そのものは中立だ」。つまり、科学は何も悪くないというのです。しかし、本当にそう言ってしまっていいのでしょうか。私をそのような考えさせたのは、大学生のときに読んだ『啓蒙の弁証法』という哲学書でした。この本は映画の時代背景とも重なる部分があるので、簡単に紹介させてください。
『啓蒙の弁証法』はホルクハイマーとアドルノという二人の哲学者によって1947年に書かれました。その執筆の直接的動機は、まさに彼ら自身が目にした二つの世界戦争、そしてアウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキでした。歴史とともに人間的な進歩を遂げていくはずだったわれわれは、なぜ野蛮へと反転してしまったのか。彼らはその根源を啓蒙の中に見出そうとします。つまり、理性によって人間を野蛮から解放した啓蒙が、再び理性を道具化して人間を支配し、野蛮へ凋落していくというのです。
私は科学史には詳しくありませんが、これまではどちらかというと、アインシュタインがヒューマニズムに溢れた善き科学者であるのに対し(私はそのようなアインシュタイン観も大いに疑問なのですが)、オッペンハイマーは科学的名声に有頂天になって悪魔の破壊兵器を作り出してしまった怪物として捉えられてきたように思います。しかし、人間は善い人間と悪い人間に分かれるのではなく、われわれ一人ひとりの中で善と悪が分かれるのだと思います。この映画の中でも、オッペンハイマーは自身の内に葛藤を抱えていました。
きちんとコントロールされていれば、科学技術は安全なものだと考える人もいます。しかし見ての通り、きちんとコントロールできた試しなどないのです。それもこの映画によく描かれています。オッペンハイマーは覚悟ができたつもりで石を持ち上げたのですが、出現した蛇は彼の手に負えなくなってしまいました。科学は啓蒙の申し子です。『啓蒙の弁証法』で指摘されたように、野蛮は外からやって来るのではありません。野蛮の原因を科学の外部に求めるかぎり、悲劇は何度も繰り返されるでしょう。原子爆弾は科学に内在する原理の必然的帰結なのです。
最後に、本作でヒロシマ・ナガサキの直接的な描写がなかったことを残念に感じる声が多いようです。私も同感です。ただし、それは私が日本人だからではありません。科学の進歩がもたらした結果は、人類一人ひとりが直視しなければならないと思うからです。
𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥