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意味と記号


本論では、言語は記号ではない、という主張を行う。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学探究の冒頭部分の「考察」を再構成したアーギュメントを提示し、記号論とくにウンベルト・エーコの記号の理論を批判する。

アーギュメントは次の4つの部分からなる。

  1. 直感的な議論:常識的な直感に訴え、言語の働きが単なる記号作用ではないことを主張する。

  2. 系譜学的な議論:言語が記号である、という考えの起源にさかのぼり、それが根拠が無いことを示す。

  3. 直示的定義の議論:直示定義が意味を定められない、というウィトゲンシュタインの議論を記号作用に応用し、記号作用は言語全体の理解が既に与えられない限り、意味を決定できないことを主張する。

  4. 規則のパラドックスによる議論:規則のパラドックスを応用し、記号作用が、記号作用に基づかない言語把握がない限り、言語使用をまったく決定できないことを主張する。
    さらに、ウィトゲンシュタインが意味理論の不可能性を主張したのか、という問題について簡単に検討する。

序論

本論の主張は、言語とは記号ではない、ということである。ここで、言語とは意味を持つすべてのもの(日本語、英語、中国語、手話、プログラミング言語、道路標識、チェスの駒など)であり、記号とは何かを代理しているすべてのもの(GUIプログラムのアイコン、宗教等の象徴、発音記号など)である。より正確に言うと、私は次の3つのことを主張する。

  1. 言語の意味作用(意味する働き)は記号作用(何かを代理する働き)ではない。

  2. 確かに言語要素(言語記号と通常呼ばれている、言語の構成要素のことを私はこう呼ぶ。また言葉と呼ぶこともある。)の中には記号と見なせるものもあるが、多くの言語要素は記号ではない。

  3. 記号と見なせる言語要素についても、その意味作用は、その記号作用だけからは説明されない。

誤解を避けるために付け加えるが、私が問題にしているのは、「意味作用とは記号作用のことである」という考えそのものであって、「意味とはなにか」という問いに答えようとしているのもなければ(この問は、言語が「意味」の記号である、という考えを前提にしている)、「意味」の何らかの存在論的なステータスを論じようとしているのでもない。例えばウンベルト・エーコはその著書「記号論」のなかで、記号の意味はそれが指し示す対象ではなく、「文化的単位」であると論じているが[1]、対象であれ文化的単位であれ、言語が何かを「記号する」と想定する限り、そのような考えを私は批判する。そもそも記号の意味、といった概念自体が混乱しているのである。

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」

本論の主張を確立するため、私は主にウィトゲンシュタインの「哲学探究」で提示されたアーギュメントにしたがう。このことは、私が次のように考えることを反映している。ウィトゲンシュタインの「哲学探究」は散漫なアフォリズム集ではなく、一貫したアーギュメントを展開している。確かに序文でウィトゲンシュタイン本人が、スケッチにすぎないと書いているが、これはウィトゲンシュタインが目指していたほど完全なアーギュメントを練り上げることができなかったことを意味するだけで、アーギュメントがないわけではない。少なくとも言語と記号の関連という観点から見れば、ウィトゲンシュタインのアーギュメントは極めてクリアである。
私は次のようなアーギュメントが哲学探究に含まれていると考える。

  1. 直感的な議論 — 「水!」「わあ!」といった叫び声や[2]、石版をめぐる言語ゲーム[3]などを題材に、一見何かの記号にすぎないと思われる言語要素の意味を直感に基づいて検討する。

  2. 「系譜学」的議論 — 「言語要素は記号である」という考えがどこから来るのか、その由来(系譜学)を繰り返し指摘し、それらに根拠が無いことを示す

  3. 直示的定義による議論 — ウィトゲンシュタインは、直接には直示的定義が意味を決定するのに不十分であることを論じているが、この論法を直示的定義の代わりに記号作用に適用することにより、記号作用が意味を決定するのに不十分であることを示す。

  4. 規則のパラドックスによる議論 — 直示的定義による議論を一歩進めて、記号作用が「語の使用」を決定できないことを、規則のパラドックスにより示す。

2点補足しておく必要があるだろう。1点目は、私の解釈はウィトゲンシュタインの書いたものをそのまま字義通り受け取るものではなく、そこにあると考えられるアーギュメントを私の問題に適応したものであるということだ。おそらくウィトゲンシュタインはソシュールを読んでいないし、接点もなかっただろう。したがって、ウィトゲンシュタインは、意味を記号として捉える考えと、意味が何か対象を指し示す、という考えの間に区別をあまりつけなかった。したがって、ウィトゲンシュタインの多くのアーギュメントが「意味の対象説」や「意味の心象説」への批判として書かれており、「意味作用が記号作用である」という命題一般に適応可能であるようには直接には見えない。そこで、私が行うのは哲学的再構成である、ということができるだろう。私の関心事は(そのような問いに意味があるとして)「ウィトゲンシュタインが頭の中で何を考えていたか」という問題ではなく、私の問題にウィトゲンシュタインの書いたものがどのように関わるか、ということである。
もう1点は、しばしばウィトゲンシュタインは一般意味論の構築可能性を否定した、と受け取られていることである。これは、主にウィトゲンシュタインが言語の家族的類似性を強調し、その一般的本質がない、とすることから来ているのであろう。確かにウィトゲンシュタインは、例えばソシュールが「言語が記号である」という命題から言語学を包摂する記号学を構想したように、原則から出発してアプリオリに言語の理論が構築できるとは考えなかったと思われる。しかし、人間が使用可能な言語の一般理論をア・ポステリオリに構築する可能性については否定しなかったというのが私の立場である。この論点については後述する。

直感に基づいた議論

「モノに名前をつけると、そのモノを話題にすることができます。言及することもできます」。 — それじゃ、まるで、名前をつけるという行為によって、それから後で私たちのすることが、決まってしまっているみたいではないか。たったひとつのことしか、つまり「モノについて語ること」しか、ありえないみたいではないか。ところが私たちは、実にさまざまなことを文によってやっている。呼びかけひとつとってみても、じつにさまざまな機能がある。
水!
消えちまえ!
わあ!
助けて!
いいぞ!
ちがう!
これらの例をながめても、あいかわらずこれらの単語のことを「モノ(対象)につけた名前」と呼びたくなるのだろうか?

[4]

哲学探究のこの一節は通例、「意味の対象説」つまり言葉の意味とはそれが名指す対象である、という説への批判と受け取られている。しかし、ウィトゲンシュタインがここで論じているのは、明らかに、「名前によってやっている」こと(作用)の多様性であって、作用の向かっている先(意味)のいわば存在論的ステータスの多様性ではない。言葉の意味が対象なのか、エーコの言うような「文化的単位」であったり、シニフィエやノエシスといった新奇な意味をもたせた語で呼ばれるものであるのか、と言った問題ではない。

哲学探究の冒頭部分(大体27節くらいまで)は、このように、言葉は何かを表すものである、という考えが繰り返し批判される。ウィトゲンシュタインは、このような考えが、言語についてあまりに単純化された見方で、数少ない事例しか直感的に正当性を感じることができないことを、さまざまな「言語ゲーム」を例に上げながら示していく。しかし、次のような反論があろう。「水!」という呼びかけは、やはり「水」という文化的単位を表示していて、これが「水を持ってこい!」と言う命令と解されたり、洪水の時の恐怖を表現したりする。それが文化的にコードされている場合は共示義[5]であり、そうでない場合は意味の問題ではないと。

もちろん、ここでの議論は直感的なものに過ぎないので、完全な反論は後回しにならざるを得ない。しかし、言語の意味となり得る「文化的単位」とはなんだろうか。エーコは次のように述べている。「文化的単位は、これらの記号を互いに等価関係に結びつけるという社会の能力を背景にして自らを際立たせる。」[6]。一言で言ってしまえば、「文化的単位」とは一連の同義な解釈項の同値類として定義できるだろう。つまり、ある言葉がある文化的単位を指す、とはその言葉がある同値類に属する、ということになるだろう。

とりあえず、「同義関係」に含まれる問題を脇に置くと、確かにこのようにして同義関係が与えられる毎に、「表示的」意味論を構築することができる。まさに論理学の完全性定理はそのようにして証明されている。しかし、このような「表示」概念がどの程度役に立つものだろうか?あらゆる(同義性を与える)意味論からこのような「表示的」意味論を構築できるが、これはむしろこのような「表示的意味論」が何の洞察も与えない、ということではないだろうか。

もちろん、エーコは更に分析を進めて、意味の「改訂モデル」を提唱している[7]。 改訂モデルでは、意味素の有無により同義関係だけでなく、意味の対立関係も表現可能となっている。しかし、同義関係のみの場合と同じく、対立関係を表現可能だとしても「意味」を表現できているとは言えない。古代日本人が「青」と「緑」を同義と捉えていたことが分かったとしても、そのことだけでは古代日本人のように色に関する語を用いることはできない。そして、事態は、これらが「朱」と異なったものと認識されていたことが分かったとしても、やはり改善しない。「朱」を「青=緑」と取り違え、「青=緑」を「朱」と取り違えていたとしても、やはり同じ同一性と対立の体系が得られるだろうからである。「語」の「使用」能力を説明するには、単に同一性と対立関係を与えるだけでは不十分である。

しかし、意味理論の目標は、語の使用を説明することではなく(それは記号生産の理論の対象である)、それを可能にするコードの理論を構築することである、という反論があるかもしれない。しかし、このような問題設定は、意味が記号作用であるという前提に既に基づいている。次節でみる「系譜学」的な議論では、このような前提の根拠のなさが示される。

系譜学的議論

さて、前節の後半では、エーコの意味とは「文化的単位」である、という議論をみた。そこで、エーコは意味とは解釈項のつくる同値類であって、指示対象ではない、と主張していた。本節では、「指示」の概念を意味から追放するならば、そもそも「意味作用は記号作用である」と考える動機付けも失われることを示す。そのためのウィトゲンシュタインの議論が「系譜学的議論」である。
「系譜学」とは、もちろんニーチェの用語である。ウィトゲンシュタインはニーチェを読んでいたようだが[8]、私は直接の影響関係があったと主張したいわけではない。ただ、ウィトゲンシュタインとニーチェには、ある哲学的主張の起源(動機)を問うことにより、その主張に囚われた人を解放する、という手法に共通点がある。ニーチェは、例えば「謙譲の美徳」といったものがどのような動機によって形成されてきたか、歴史をたどることにより、その「奴隷的」な起源を明らかにしようとする。一方、ウィトゲンシュタインはニーチェに比べると慎重である。ニーチェは自らの分析による「系譜」が実際の歴史であるか、少なくともその素描になっていると考えているようだが、ウィトゲンシュタインの「系譜学」は、実際の歴史ではない。そうではなくて、哲学をする人の偏見が由来する動機を明らかにする具体例のことである。
「意味作用とは記号作用である」という考えの起源をたどると、次のような例になるのは明らかであろう。

アウグスティヌスが説明したような言語を、想像してみよう。それは、棟梁Aと見習いBのコミュニケーションに役立つような言語である。棟梁が石材で建物を建てる。石材は、ブロック、ピラー、プレート、ビームだ。Bが石材を手渡すことになっている。それも、Aが必要とする順番で手渡さなければならない。この目的のため、ふたりは、「ブロック」、「ピラー」、「プレート」、「ビーム」という単語でできた言葉を使う。Aがある単語を叫べば-それを聞いたBは、その単語に対応する石材を持ってくるように学習している。-これを、完全なプリミティブ言語だと考えてもらいたい。

[9]

こういったコミュニケーションのシステムを言語と呼ぶことは可能だ。言語の意味のこのような説明を、「指示のモデル」と呼ぶことにしよう。すると、指示のモデルが成り立つ言語では確かに「意味作用は記号作用である」と言って良いだろう。しかし、指示のモデルは「ごく狭く限られた領域でだけ」[10]言えることである。


さて、次のような言語の使い方を考えてみよう。誰かに買い物にいってもらうことにする。私は、「赤いリンゴ5個」と書かれているメモを渡す。買い物をたのまれた人が、店の人にメモを渡すと、店の人は「リンゴ」と書かれたケースを開ける。それから一覧表で「赤」という単語を探しだし、それに照らしあわせてカラーサンプルを見つけてから、1,2,3…と5まで数えーここで私は、店の人は基数を覚えているものと想定しているわけだがー、ひとつ数えるたびに、ケースからサンプルの色をしたリンゴを1個取り出す。ーまあ、これと似たようにして私たちは言葉をあつかっているのである

[11]


「赤いリンゴ5個」の中に含まれる「赤い」、「リンゴ」、「5個」の言葉それぞれが、まったく違った働きをしているのが見て取れる。これを、指示のモデルに当てはめようとすることから、名前の担い手と異なった抽象的な「意味」や「内容」の概念が始まる。意味作用の作用の特性であるものを、記号作用の対象の性質として説明しようとするため、記号作用の対象を記号の指示対象そのものと考えるわけにはいかないからだ。プラトン、つまり西欧哲学の端緒、においてイデアはまさにそのようなものとして導入された。そして、西欧哲学はその後、普遍者、個物、数学的対象などをめぐる「キマイラ狩り」[12]に悩まされることとなる。
しかし、すべての語に指示のモデルを当てはめるのではなく、語のカテゴリーごとにその意味作用のカテゴリーも異なっていることを認めれば、抽象的な「意味」や「内容」を導入する必要がなくなり、イデア的存在者の導入も不要となるだろう。さらに、「精神」や「文化」といった記号に意味を賦活する奇妙な対象を導入する必要もなくなる。西欧哲学は、静かに休息をむかえる[13]のである。

直示的定義に基づいた議論

直感的な議論や系譜学的な議論は、「言語が記号である」という主張が一般的すぎて言語の実態を反映したものではないことを示唆する。しかし、「言語が記号である」という主張の直接な反論になっているとはいえない。本節では、まずウィトゲンシュタインの直示的定義に関する議論を、記号作用に関する議論に置き換え、記号作用が意味作用を確定するのに不十分であることを示す。

さて、人の名前、色の名前、材料の名前、数の名前、方角の名前などを、指差して定義することができる。「これが『2』だ」ー と言いながら、2つのくるみを指して ー 2という数を定義するのは、じつに精確なやり方である。ー しかし、どうやって「2」はそのように定義されるのか?何しろ、定義を教えられた人はその場合、なにが「2」と呼ばれようとしているのか、わからないのだから。定義を教えられた人は、このくるみのグループが「2」と呼ばれているんだ!と思うだろう。…(中略)…つまり、指差してする定義は、どんな場合でも、こんなふうにもあんなふうにも解釈される可能性があるわけだ。

[14]


ここで、直示的定義を記号作用に置き換えることができる。「2」の意味は、それが表示する、例えば、2つのくるみ、によって表わされるというわけだ。もちろん、ウィトゲンシュタインが指摘しているように、この考えはうまくいかない。このように意味を定義してしまうと、「2」の意味が「2つのくるみ」と誤解される恐れがあるからだ。では、このような誤解の可能性を排除し、記号作用によって意味を確定することはできるだろうか。
一つの考えは、「2」が表示するのが現実に存在する(常に誤解に晒されている) 2つのものではなく、「2」という数学的対象であるとする考えである。しかし、例えそうであったとしても、誤解の余地が消滅するとは考えられない。 「2」は「2つのイデア的対象」を指すのであって、現実の「くるみ」には適応できないものである、という誤解が可能であるからだ。より一般的に、ここでのウィトゲンシュタインの議論は、言語の意味がその指示対象であるという主張への批判と読める。
では、言語の意味がその指示対象ではなく、エーコが言うようにその「内容」であればどうだろう。意味論の改訂モデル[15]では、(文脈による選択を無視すれば)内容とは、意味の体系内での位置を表す意味素の集まりからなる。数「2」をこのモデルで表すにはどのようにすればよいか、それほど明らかなわけではないが、例えば「2」が「数」という意味素をもつとしよう。すると、「2」の記号作用の対象が「数」という意味素を持つ意味である、ということは、記号作用を再び直示的定義の議論に置き換えてみると、次のようになる。

2は、「この数が2だよ」というふうに指差すときにだけ定義できるのだ、言われるかもしれない。その場合、「数」という単語が、言葉の、つまり文法のどの場所に置かれるのか、はっきりしているからである。ということはしかし、指差してする定義が理解される前に、「数」という単語の説明が必要になるわけだ。…(中略)…しかし「色」や「長さ」という単語はそうやってしか理解できないのだろうか?ーとすると、それをちゃんと説明する必要がある。ーつまり、ほかの単語によって説明しなければならない!では、こういう説明の連鎖で最後の説明とはどんなものなのか?

[16]


「2」の意味が、記号作用によって確定されるためには、表示される意味素の意味が予め分かっていなくてはならない。もちろん、エーコの立場では例えば「数」という意味素はそれ自体記号であり、さらなる分析の対象となる。つまり無限の記号現象[17]が生じるのだが、だとすれば、そのような記号現象の連鎖(モデルQ)が理解されなければ、記号の意味も確定しないことになる。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、こうなるだろう。


さて次のように言えるのではないだろうか。アウグスティヌスは、人間が言葉を学ぶことを、子どもが知らない土地にやってきて、その土地の言葉がわからないかのような状況として描いている、と。つまり、すでにひとつの言葉はわかっているのだが、その土地の言葉がわからないだけであるかのような状況として。または、子どもはすでに考えることはできるのに、ただ話すことができないだけであるかのような状況として。

[18]

規則のパラドックスに基づいた議論

では、モデルQのような「記号現象の連鎖」が与えられれば、それを言葉の意味と考えることができるだろうか。この考えへの批判が、規則のパラドックスである。

私たちのパラドクスは、こういうものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行動の仕方でもルールと一致させることができるから」。それにたいする答えは、こういういうものだった。「どんな行動の仕方もルールと一致させることができるなら、ルールに矛盾させることができる。だからここでは、一致も矛盾も存在しない」

[19]

記号作用とは哲学探究の86節で記述された表のようなものである。


2のような言語ゲームを、表を使ってやることにしよう。AがBに伝える合図を、こんどは文字にする。Bは表をもっていて、第1列目にはゲームで使う文字が書かれており、第2列目には、石材の形の絵が並んでいる。AがBに文字をしめすと、Bはそれを表のなかで探し、それとペアになっている絵に注目するという具合である。…(中略)…さてここで、表の読み方にさまざまな方式が導入されたとしよう。…(中略)…このルールを説明するために、さらに別のルールを考えることができないだろうか?

[20]


ある記号作用が与えられたとして、それを解釈するのにさらにルールを導入することが可能だ。そして、そのルールを解釈するための別のルールも、導入することができる。哲学探究201節の第1パラグラフにあるように、どのような言語使用であっても、解釈のルールをうまく選べば、与えられた記号関係に一致させることができる。よって、記号作用は言語使用を決定できない。ここで私は、言語が「解釈の開かれたテクスト」である、といったことを主張しているのではない。もちろん、言語の解釈には不定性があるし、何が不定であるかも、不定であることがある。


テニスではどれくらい高く、またはどれくらい強くボールを打っていいか、ルールはないけれど、テニスはちゃんとしたゲームだし、ルールもある。

[21]


しかしここでのパラドックスは、その使用が記号作用によって全く決定できない、別の言い方をすれば、どんな使用でも記号作用に従ったものと言えるし、従っていないとも言えるということ、よって、言語使用において記号作用は何の役割もなさない、ということを示している。
さて、もちろん、ウィトゲンシュタインが哲学201節の第2パラグラフで指摘するように、このパラドックス(つまり、記号作用によって言語使用がまったく決定できない)は誤解にもとづいている。
そこに誤解があることは、私たちがこうして考えているあいだ解釈に解釈を重ねていることからも明らかである。まるでどの解釈も、すくなくとも一瞬のあいだは私たちを安心させてくれるのだが、私たちはすぐにその解釈の背後にある解釈を考えてしまうかのようなのだ。つまり、このことによって分かるのは、ルールの解釈ではないルール把握というものが存在していることだ[22]
やはり、記号作用は(記号作用のようなものがあるとして)言語使用に一定の役割を果たしているのである。とはいえ、その誤解がどんなものかというと、我々が言語を用いるとき、常に何らかの解釈(記号の意味への置き換え)を行っている、というものである。そのような考えに立つと、言語を用いるときに意味への置き換えを行うが、その置き換えられた意味にどのように従うかも、さらなる意味への置き換えを必要とする。また、意味への置き換えをどのようにすれば良いかも、解釈を与えられなければ決定できない。しかし、この解釈に従うためにも、同様に解釈が必要である。といった具合に、無限後退におちいる。この無限後退を断ち切るには、言語の記号作用としてではない把握が必要とされる。
言語が意味を持つのは記号作用を介してである、という考えは、ルールにしたがうのに「内なる声」が必要である、という考えに対比できる。あたかも、言葉を使うときその記号作用の対象である(意味)内容に導かれている、かのように。

直観が内なる声なら、ーその声にどのようにしたがうべきなのか、どうやって私にわかるのだろうか?直観が私をミスリードしないことを、とうやって私はわかるのだろうか?直観が私を正しくリードしてくれることがあるなら、私をミスリードすることもあるわけだから。

[23]


しかし、(意味)内容が我々を正しく導くことが可能なら、言葉それ自体が我々を正しく導いてくれる可能性もある。であるならば、ここでオッカムの剃刀を用いるべきなのである。つまり、記号作用を介しない言語使用というものがあると考えるべきだ。

記号の意味


『棒とレバーを結びつけることによって、私はブレーキを直す』ーもちろんそれは、他のメカニズムがちゃんとしている場合の話である

 [24]

棒とレバーは、記号とその記号作用の対象と考えることができるだろう。確かに、ある種の言葉は記号である。例えば、「犬」という言葉は、ある特定の犬を表すかもしれないし、犬の集合を表すかもしれないし、犬のイメージを表すかもしれない。精確に何の記号であるかは別に議論が必要だが、何らかの記号として使われることが多いということは事実だろう。しかし、前節で指摘したように、記号が意味を持つためには、記号作用だけではない「他のメカニズム」、つまり記号作用を介しない言語使用が必要だ。
さて、記号作用を介しない言語使用の存在を強調したが、だからといって何の解釈も必要とせず直接に把握される理想言語、などといったものの存在を主張したいわけではない。実際に起きているのは、ある言葉は、場合によっては記号作用を介さず使用され、ある場合には記号として、別の(意味)内容の代理として使用される、といったことであろう。さらに、記号として使用される場合、どの程度「深い」解釈にさらされるのか、つまり、その言葉が表す内容がさらに解釈の対象になり等々、何重の解釈を行ったうえでその言葉が使用されるのか、また、そもそもその言葉が何かを代理するという、その「代理」の意味(記号作用とはそもそも何か)も、状況による、ということではないだろうか。だからといって、言語が、次々と行われる、状況によってことなる解釈をすべて網羅したモデルQのようなものだ、とは言えない。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、


「『最後の』説明なんてない」なんて言わないでほしい。ちょうどそれは、「この街路には最後の家なんてないよ。いつでももう1軒、建てることができるんだから」と言おうとするようなものだ

[25]

言語を使用するときには、ある時点で解釈をうちきって、「根拠なしに行動する」[26]ことが必要だ。「無限の記号現象」は「解釈なしに行動すること」に支えられて、はじめて機能する。

意味理論の可能性

前節までで、序論で挙げた主張への論証がすべて与えられた。しかし、その主張は、積極的に言語について何かを明らかにするようなものではなかった。これは当然予想されることである。

だが、言語と呼ばれるものすべてに共通する「なにか」を指摘するかわりに、私はこう言いたいのだ。それらの現象にはなにひとつとして共通するものはない。すべてに対して同じ言葉を使えるような共通項はない。 

[27]

何かアプリオリな言語の本質で、そこからもろもろの言語の諸性質が導出できるような原理は存在しない。ソシュールが構想する一般言語学は存在しないのである。
しかし、一般にはウィトゲンシュタインの主張はさらに強いもので、どんな言語の意味についての理論も、その存在を否定していると受け取られているようだ。例えば、エーコの解釈によれば、ウィトゲンシュタインの哲学探究は「意味に関する形式的な扱いをありえないものとするもっとも厳密な(そして暗示に富んだ)試みを表している。」[28]
さて、ウィトゲンシュタイン解釈として、エーコの理解は正しいとは思われない。確かにウィトゲンシュタインは「言語」という概念の家族的類似性を強調している。しかし、ここから言えることは、ソシュールが行おうとしたように、言語において一般に成り立つことから出発し、アプリオリに言語学を展開することの不可能性である。ここで問題になっているのは「言語」であって意味ではないし、「形式的な扱い」でもない。あるいは、エーコの念頭にあるのは、冒頭で引用した部分で論じられているように、意味作用の多様性を述べた部分かもしれない。しかし、読めば明らかなように、ウィトゲンシュタインの論点は意味理論の不可能性ではなく、意味作用の多様性である。
私は、ウィトゲンシュタインは人間が使用する言語に限って成り立つ、アポステリオリな意味理論の可能性は否定しなかったと考える。少なくとも、そのような理論の存在はウィトゲンシュタインの議論に抵触していない。例えば、モンタギュー意味論はかなりの程度、英語のある部分体系に対する、経験的な意味理論(ただし、真理値を割り当てるという限定された言語ゲームについてではあるが)になっているのではないだろうか。もっともウィトゲンシュタインはそのような理論の構築が哲学の仕事であるとは考えていないだろうが。

結論

本論では、「意味する」ということが「記号する」ということではない、ということをウィトゲンシュタインの哲学探究にそって主張してきた。批判の対象とした記号理論は主にエーコのものであるが、私の批判は特定の記号理論に対するものではない。その基本的な前提に対するものであり、意味の理論を、アプリオリな記号理論に基づいて打ち立てようとするあらゆる試みに対する批判である。
ではここから為すべきことはなんだろうか。まず、前節で指摘したように、ウィトゲンシュタインの批判はアポステリオリな意味理論の構築まで否定するものではない。そして、アポステリオリな意味理論のなかで、記号概念が一定の地位を占める可能性は、私は大いにあると考えている。それどころか、意味の指示説や心象説も、肯定的に取り上げられる可能性がある。アプリオリな正しさを持つと主張されることさえなければ、記号理論も将来的な意味理論の構築に積極的な貢献をするだろう。とはいえ、これはもはや言語学の領域であり、哲学の為すべきことではないだろう。
ウィトゲンシュタイン解釈についていえば、本論の議論に用いたのは、哲学探究の冒頭部分せいぜい201節までである。その後の哲学探究は、意味というものが意識の中の現れである、という考えをめぐって、錯綜した議論を行っているように見える。とすると、現象学との関連が考えられるべきだろう。ただ、これについては別の論が立てられるべきである。

出典

ウィトゲンシュタインの哲学探究については、岩波書店2013年8月29日版の丘沢静也訳「哲学探究」を参照した。ページ数もこの版に基づいている。一部ドイツ語原文も参照したが、これは2009年のBlackwell publishingによる独英対訳版に依った。
ウンベルト・エーコの「記号論」については、1996年岩波書店出版の同時代ライブラリーに所収の「記号論I・II」を参照した。また、英語原文はIndiana University Press出版の1976年版を参照した。
その他の参考文献については、本論中の脚注に書誌情報を含めた。


[1]: 記号論I、106ページ

[2]: 哲学探究27節、27ページ

[3]: 哲学探究2節、9ページ

[4]: 哲学探究27節、27ページ

[5]: 記号論I 149ページ

[6]: 記号論I、124ページ

[7]: 記号論I、184ページ

[8]: レイ・モンク、ウィトゲンシュタイン、みすず書房、1994

[9]: 哲学探究2節、9ページ

[10]: 哲学探究3節、9ページ

[11]: 哲学探究1節、8ページ

[12]: 哲学探究94節、85ページ

[13]: 哲学探究133節、99ページ

[14]: 哲学探究28節、28ページ

[15]: 記号論I、184ページ

[16]: 哲学探究29節、29ページ

[17]: 記号論I、122ページ

[18]: 哲学探究32節、32ページ

[19]: 哲学探究201節、155ページ

[20]: 哲学探究 86節 76ページ

[21]: 哲学探究68節 64ページ

[22]: 哲学探究201節、155ページ

[23]: 哲学探究213節、161ページ

[24]: 哲学探究6節、11ページ

[25]: 哲学探究29節、30ページ

[26]: 哲学探究211節、160ページ

[27]: 哲学探究65節、61ページ

[28]: 記号論 I 、130ページ

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