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デジタル×ダンス。初のリサーチプロジェクトを終えて。

約半年に渡るリサーチプロジェクトが終わった。すぐにでも11月に本番を控える海女作品のリクリエイションに取りかからなきゃいけない状況だが、何かしら形式的でもいいから、私の中でボコボコと生まれかけた何かを、半年間で学び発見したモノたちを記しておかなければ次に進めない心持ちである。儀礼とはだらりと流れていく時間や整理のつかない心情に人工的な節目によって区切る機能を持つ。とにかくこのままサクッと次に進めないくらい密度の濃いリサーチだったのだ。

タイトルはO_V"(オーブ)。ドイツ語でorganische Vereinigungの略式で有機的融合という意味である。インタラクティブなデジタルアートと人間の身体(動き)に代表される有機体が空間においていかに融合可能か、可能でないか、いかなる条件下であれば可能なのかを実験&検証するいかにもリサーチらしいコンセプトだ。

このプロジェクトを思い立ったモチベーション自体がコンセプトにおいても非常に重要なのだが、そもそもの発端はコラボレーションパートナーとなってくれたドイツ人デジタルアーティストの彼のアートワークだった。そのデジタルとは思えない、優雅で軽やかで有機的で、先の読み難い複雑性と即興性を備えた動きは私にとって美しいダンスそのものだった。デジタルがここまでの微細な動きを表現できるとは衝撃を受けた。
そして実はパンデミック以前にも布石があった。それはたまたま娘と映画館で見たFrozen2(アナと雪の女王2)。2019年の終わりだったが、2014年の本編よりも格段にデジタル表現が進化していたことにここでも衝撃を受けていたのだ。特に印象的だったのは、木漏れ日の光と影、そして水の表現だった。こんな実体を掴みづらい自然現象までが実に精密にリアルに再現されていた。ついにここまできたのかと思った。
デジタルがこれまでになく自然に近づいてきている今なら、有機体とデジタルの両者を付き合わせたプロジェクトも高レベルで試す価値があると確信を得た。

今回メインで使用しているデジタル技術は、インタラクティブ-ジェネラティブデジタルアート(interactive generative digital arts)と呼ばれるもので、音や動きをリアルタイムにデータに取り込み様々なグラフィックで瞬時にアウトプットできるほとんど魔法のような技術である。日本人ならチームラボがよくやっている展示でイメージがつくだろう。

内容を事細かに書いていける時間的余裕がないので、重要なポイントのみ触れておきたいと思う。

まず最初から最後を通じて一貫して重要だった点は、デジタルは自然をどのように転換しているのかに関する理論的リサーチだった。
デジタルはいかに生命を真似ているのか?そもそも生命とは何なのか?細胞がいかに特定の環境下において情報処理と伝達をしながら増殖し、臓器や血液などの身体の各組織へと姿を変えるのか?粘菌やキノコと私たち人間のアナロジー。知性は人間だけのものじゃない。
そんなことをメンバーたちと議論しながら、今の私たちが受けているデジタルの恩恵は過去の偉大な数学者や物理学者、生物学者に依るものだと気づく。フラクタル形状の数式化がわかりやすい例だが、他にも生物の模様を決めるチューリングパターンは様々なソフトウェアに埋め込まれているらしい。タイムリーにも去年ノーベル物理学賞を受賞された日本人の真鍋教授による気象の経年変化パターンをスパコンで叩き出した研究なども同様で、私たちがつい人智の及ばない神聖な領域と考えがちな自然現象が数と計算で説明がついてしまう現実。神はいよいよ死んでしまうのか?
とはいえこう考えると、デジタルアーティストの彼の魔法のようなテクニックも、実は私たちの身体位置座標や音を瞬時に数値化してそれを演算処理することでビジュアル化しているにすぎないということに気づく。その速さや精密さが進化したためにここまで表現が自然に近似してきているのである。
このテクニックを使えば、原理的には動きや音だけでなく匂いや湿度、CO2濃度や圧力など、数値化しうるものは全てデジタルに転換可能になるのだ。

こうなってくると、ではデジタルに転換されない有機体特有のものとは一体何なのか?そんなものあるのだろうか?とさえ疑わしく感じてくる。
その疑問に対し、現状私が持つ答えとしては非常にありきたりではあるが、肉体と意識の存在である。(ここで大学院時代に突然回帰する。)

ここでは肉体は身体と異なる概念として使用している。身体を“わたし”という精神を包括した哲学的概念とすると、肉体は単純に意思も精神も持たない物質である。肉体は塊をもった物質であるから、遅延や重量感、空間に対する限界がある。
魔法の技術が数値化しているのが身体という全体像が空間に占める座標なのだとすると、その座標と座標を本来細かく埋めているはずの肉という物質は数値化されていないことになる。そこがライブで踊るダンサーのデジタル化されない重要な特質であり、私たちにどうしようもない生っぽさや逃れることのできない重力や生命の限界を感じさせる。それはデジタルと並置されると特有の侘しさや滑稽さを放つと同時に、生まれては消えていく生命感と循環するエネルギーを際立たせていた。

もうひとつの重要なポイントは意識の問題である。ここで私が気になったことといえば、Googleが開発中の自動会話チャットAIのLaMDA(ラムダ)である。ラムダ開発代表のエンジニアが、ラムダには意識があると主張したことでGoogleが彼を職務停止処分にしたという、何とも示唆にとむ話である。

AIに意識は宿るのか?という命題はいまだに模索が続く深淵かつ哲学的な問いである。個人的には、AIに意識があると思い込ませるのは人間の意識の作用による結果だと考えている。(よってAIには意識はないと現時点では考えている。)

今回の劇場環境でのリサーチでは、デジタルグラフィックにいかに生命感を与えられるのかを重点に置いていたが、結果としてデジタルに生命感を賦与しうるものがあるとするなら、それは人間の意識であり感性であり、想像力なのだと理解した。
それらは実際、私のような舞台制作をする演出家や振付家が常に相手にしている領域なのだ。デジタルというアナログの対極とされるメディアを通じて、今一度原点に回帰するという面白い結果となったリサーチであった。そしていかに私たちの仕事が、デジタル社会で人間に残される最後の砦を扱っているかを痛感できたことは、私にこのデジタル社会でこの旧き善き仕事(?)を継続していくモチベーションを与えてくれた。
あまり時間的余裕がなく、まとまった報告には全くなっておらず恐縮ではあるが、このリサーチで浮かび上がった論点は今後のプロジェクトを通じてじっくり育てていきたい。そのための場作りをまずしなければ…。






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