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八月の読書:『言葉の誕生を科学する』

 こんにちは! 自分で始めたことなのに夏休みの宿題を最終日にこなすような気分で今これを書いています! いえい!
 今回読んだのは『言葉の誕生を科学する』(小川洋子・岡ノ谷一夫、河出文庫)。前回から引き続き「言葉」というものへの関心から手に取りました。

感想

 人間だけが持つ言葉というものの起源(進化ではなく、誕生の瞬間)を知るために、ハダカデバネズミやジュウシマツなどの動物行動学を研究する岡ノ谷氏。本書は、彼の研究に興味を抱いた作家の小川氏が主に聞き手となり、それぞれの動物のユニークな生態から人間の言葉に通じる要素、そして人の誕生や言葉による営みなどについて、両氏が自由に語っている本だ。
 前回の『言語の本質』と異なり、研究内容の書き下ろしではないため、系統だった論述というよりは仮説やアイデアも奔放に語られる柔らかい読みものだ。その分リラックスして楽しめるし、小川、岡ノ谷両氏の心底楽しそうな様子まで伝わってくる。
 興味深いトピックはたくさんあるが、気まぐれに紹介しつつ感想を述べる。

 小鳥の歌(オスのさえずり)には、鳴き方の組み合わせを作る、他者から新しい音を学んで作る(!)、といった、人間の言葉にも通じる要素があるそうだ。そこから岡ノ谷氏は、人間もかつて歌のようなものを持っており、それが複雑になっていった結果、さまざまな状況に対応する歌の組み合わせが生まれ、単語や文法になっていったという「歌起源説」を提唱する。
 小鳥のさえずりを歌と言ってしまっていいのか? と思っていたが、動画などでジュウシマツの鳴き声を聴いてみると本当にパターンやメロディのようなものがあって、また個体によって固有の鳴き方があって面白い。同居している年上のオスの鳴き方を真似ている子も確かにいてびっくり。
 本書にはこうした好奇心をそそる話題がたくさん提供されているが、文字から受け取れる情報の限界もある。本書の内容とリンクする研究室のデータの一部など、ネット上で見られる仕組みがあればいいなあと思った。とにかく、読んで動物の習性や鳴き声に興味を持ったら、動画や実地で確かめてみるのを強く勧める(笑)。動物たちがより愛おしく感じられる。

 他にも多くの動物が歌を持っていて、その実態も面白いのだが、発声の仕方を学ぶのは鳥とヒトとクジラだけらしい。霊長類の中ではヒトだけ。それには産声をはじめとして赤ん坊のころによく泣き、その泣きかたで親を動かすことが関係するのではないかということ(サルはこんなに泣かないらしい)。天敵から身を守れるから、リスクの高いことができるのでは、ということ。
 近い外見や動作を持つ霊長類の仲間とも言葉を共有できないのはちょっと寂しいが、本書では言語を介さない、内容ではなくコミュニケーションの意図そのものを伝えるコミュニケーションについても言及されていて、それは同じ動物どうしが仲間を確認する儀式などのことなのだが、そういうコミュニケーションだったら違う動物ともある程度は可能なのではないかなあと、犬を飼っていた身としては夢見てしまう。
「意図のコミュニケーション」により、言葉の内容ではなく「つながること」だけが肥大化してしまうことを両氏は危惧していて(SNS中毒など?)、確かに言語能力の使用法としては豊かではないけど、でも内容のないコミュニケーションはやっぱり人間どうしでも大切だと思うなあ。

 読んでいるとなんだか人間よりも動物の生態や行動に興味が湧いてしまうが、それでもやっぱり人間の自己意識(心)の発生や神の概念について語られる部分が本書のハイライトだと思う。
「心の理論」によって他者に内面があることを想定し、ミラーニューロンによってそれを自分に反射して、置き換えて考えることで自己意識ができるのでは(つまり他者の心が先にある)、という話は面白かった。
 そこまでは言葉抜きでも可能だけど、言葉によって自己意識が定着し、さまざまな表現が可能になり、数字やら時間やら死やらを見つけていく(『時間と自己』じゃん!)。そしてそういったものへの恐怖を慰めるために言葉による物語が必要なのだとしたら、なんかすごい。
 この辺りの話になると岡ノ谷氏よりもむしろ小川氏の領分だ。聞き手としても鋭くチャーミングな指摘をたくさんしている小川氏だが、ここでは彼女の小説論も垣間見ることができて、彼女の小説のファンとして嬉しかった。

 ところで、動物にとって歌っていうのは本質的には繁殖や求愛のためにあるんですよねー。でも、言葉を持ったときに人間はそのほかの目的を持って生きることができる存在になってしまった。だから、彼らの営みを擬人的に想像したり、人間の営みを動物のそれと重ね合わせて考えるのは面白いけど、それを完全にイコールと考えてしまったら危ないし辛いと思う。
 だって無駄なことのできるエネルギーのあるオスがモテるとかさ、赤ちゃんの泣き声を真似たり天敵のフリをしてメスを脅かして交尾するオスとかさ……人間に当てはめたら地獄じゃん。
 歌が求愛のためのもので元々オスしか持っていなかった機能だったとしても(そしてその要素がいくらか残っているとしても)、人間はそういう制限を乗り越えたし、性別の枠だって変えていける。それが人間なりの創造性で、人間らしさなんだと思う。

『言語の本質』とのつながり

 二冊の本は言語の発生と進化、別の部分を扱っているとはいえ、共通する要素も登場する。特に大きな意味を持つと思われるのが『言語の本質』でいうところの「対称性推論」の問題で、これについて本書では「刺激等価性」という言葉で、ほぼ同じ内容のことが言及されている。
「aならばb」と「bならばa」は、論理的には同じことではないが、他の動物と違って人間はそれを同じと推論するバイアスを持っており、それが記号(名前)と物の対応を学ぶことにつながる。対称性推論を駆使することで刺激等価性を理解する、ということでいいのかな?
 自分も含め人間がごく当たり前に使ってしまうこの推論を、他の霊長類も、歌を歌える小鳥も使うことができない。やはりここが言語の発生のキーポイントで、歌と言葉を分かつものでもあるのだろう。不思議だ。

余談

私小説的労働と協働--柳田國男と神の言語」(大澤信亮、新潮社『神的批評』収録)はタイトル通り柳田國男の文学者、農政官僚、民俗学者といったさまざまな肩書きの中での仕事に通底する根本的な問題意識を分析する評論だ。
 貧困問題を解消するために官僚として訪れた山村での観察から、柳田は「労働の前に「歌」があった」、歌が協働労働を可能にしたという視点を獲得する。それを基に、この評論は古今東西の文献を引用して歌の発生や言葉、その状況を変化させる「力」について論じている。
 だから、評論の主題は言葉そのものではないのだが、本書とは違うアプローチで「歌から人の営みが始まった」とする視点を検証している点や、言葉に対する鋭い問題意識、言葉と情動の関係性など、併せて読むと面白いポイントがたくさんあると思う。

 またこの評論では話し言葉だけではなく書き文字についての考察がある。「文字とは「神」のためにあった」というのだが、その「神」とは何なのだろう。言葉について考えると結局神のところに辿り着いちゃうんですね。
 ロマンも身もふたもない説になってしまうが、ここで文字を必要とする「神」とは「その場に一緒にいない人」のことだと私は思う。既に死んでしまった人やこれから生まれる人、共に生きているが隣にいない人に何かを残すために、文字、というか言葉の器はきっとあるのだろう。

 ただ、この評論では言葉、というか歌の機能と繁殖の関係性が全く論じられていない。それが評論の欠点になるわけでは全くないし、私も読み比べて初めて気づいたくらいだ。とはいえ、柳田の「性的なものに対する潔癖性」が、彼の学問に影響した可能性はないのかなあと、ふと気になったのだった。

さらに余談

 クーラー修理しました。

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