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書いても書いても、書けば書くほど(『最後の物たちの国で 』、2024.11)

 こんにちは。気づけば11月も最終日。私は贔屓の野球チームのファン感謝イベントをテレビ中継でだらだらと見ていました。ここ数年何をやっても一定数のお客さんが入るのをいいことにイベントのクオリティが落ちていて、大変残念です。
 それはさておき、今月は『最後の物たちの国で』(ポール・オースター、柴田元幸訳、白水uブックス)について書いていこうと思います。

あらすじと感想(読後感)

〈ニューヨーク三部作〉に続いて発表された本作は、それまでの作品と違い架空の国が舞台。アメリカの新聞社から記者として派遣され消息を絶った兄ウィリアムを追い、この国に渡った主人公アンナの遭遇する出来事が、彼女自身の書いた長い手紙という形式で綴られる。

 この架空の国はかなり不安定で荒廃しているようだ。そのうえ手紙にはアンナの立場から見えるものや分かることしか書かれようがないので、国の成り立ちや現在の状況についてはひどく不確かなことしか読み取れない。
 しかしとにかく、公的なシステムはまともに機能していない。政権はしょっちゅう交代し、他国との交通や郵便もままならない。人々は衣食住を調えることすらままならず、そこらじゅうで死んでいく。死者は埋葬すら許されず、糞尿と並ぶエネルギー源として「変身センター」で処理されるといったありさまだ。
 人々は街に落ちているゴミを収集したり、まだ使えそうなガラクタを再生業者に売って金を稼ぐ。そうしてなんとか命をつなぐぎりぎりの生活は、数多くの悪意に取り巻かれている。お金を騙し取られたり食料を奪われたり、命の危険に晒されるのだ。

 そんな国でアンナは、「狂気に近い純粋さと善良さをたたえた」老婆イザベルや、ウィリアムに続いて派遣されたサム、ウォーバン・ハウスの面々など、さまざまな人との出会いと別れを繰り返しながら生き延びる。彼女は若さから来る行動力や、この国に染まりきっていないがゆえの(?)親切さ、時には迂闊さや偶然によって自分の道を切り拓く。
 もちろん彼女とて運命を自由自在にコントロールするような人並外れた力を持つわけではなく、この国の混乱や悪意に巻き込まれたり流されたりしているし、この国に適応したせいか自己中心的だったり疑い深かったりと、完璧で模範的な主人公というわけではない。どんな時でも希望を捨てないキラキラとしたヒロインという感じはしない。しかし兄を探し出すことやそのために生きることを諦めず、ねばり強く現実に向き合う姿はかっこいい。
 また、「出会いと別れ」と簡単に言ったが、物がどんどん失われ、何も生まれてこない国にあって、「別れ」はとてつもなく重い意味を持つ。アンナが出会う人々は必ずしも好感が持てる奴らではないが、その重みゆえに愛おしい(例外あり)。

 まるで近未来を舞台としたポストアポカリプスSF小説のようだが、オースターはこの小説を「我々の時代をめぐる本」と言っている。物語の中の出来事や、この国のシステムのディテールは、第二次世界大戦中の実際の出来事や、現実に存在するシステムに基づいて描いているというのだ。
 だが、私はそれらの描写や、そんなシステムのもとで生きる人々の姿にとても現実味を感じられなかった。こんな世界で人が生きていけると思えない。そもそも、オースターの小説は現実に近い場面を描いているときでさえもどこかリアリティに欠ける印象がある。

 それなのに不思議なことに、むしろ細かい情景をとっぱらって、アンナの立たされる想像もつかないような苦境や登場人物たちの理解しがたい行動に思いを馳せるとき、最後に残るのは「これは現代の私たちの話だ」という確かな実感なのだ。
 もちろん、現実離れした設定の小説に感情移入したり、登場人物に共感することはよくあることだし、そのように書けるのが作家の筆力というものだろう。だがそれは、少なくとも〈ニューヨーク三部作〉の時点でのオースター作品の魅力の主要な部分ではなかったように思う。
 これがオースター自身の作家としての変化なのか、それとも数ある作風のひとつなのかはよくわからない。だが、個人的にこの先の作品も続けて読んでみたいと思わせる力のひとつが、この読後感にはあると思う。

書くこと、読むこと、読まれること

 一方で、オースターの作品にはいつも同じことが書かれている、同じテーマが追求されているとも感じる。「書くこと」「読むこと」「読まれること」をめぐる思索などがそうだ。

 たとえば物語の終盤、ある出来事をきっかけに、アンナは持っていた青いノートにアメリカにいる昔馴染みの人物に向けた長い手紙を書きはじめる。最初に言ったように、その手紙の内容こそがこの小説の文章を成している。
 ノートというアイテム自体、オースターの作品にたびたび出てくる。作品によってその位置付けは異なり、本作のように内容が小説の一部を成していたり、逆に登場人物が作中で破ってしまい、読者には内容が分からないこともある。
 何度も登場するということは、オースターにとって大切な何かを象徴しているのだろう。それは人の内面やコミュニケーションに関わるものではないかと私は思う。

 ノートというのは個人的なメモや文章の下書きなど、(出版される本と違って)まずは書き手が自分のために何かを書くものだ。そこでは自分以外の読み手が想定されない、頭の中のようなもの。
 それが他の人の手に渡ると、その人が読み手となる可能性が生まれる。読むか読まないかはその人次第だし、読んだとして何を読み取るのかも書き手にはコントロールできない。
 この不確かさは私たちの通常のコミュニケーションや、読書という行為を通しても日常的に発生している。そもそもノートを誰かに渡したいかどうか、受け取ってもらえるかどうかの段階も含めて。

 ところで、本作の序盤には「……と彼女は書いていた」「……と彼女の手紙は続いていた」という表現が見られる(読者が文章に没頭するころになると、いつの間にかそれは消えている)。つまり、この小説は彼女の手紙の本文そのものではないということで、小説を読んでいる私たちより前に彼女のメッセージを読んで、それをこちらに伝える人物が物語の世界にいるのだ。
 ここには希望がある。なんといってもこれは、郵便事業が混乱し、送ったものが届くかどうかさえわからない国からの手紙なのだから。

 また、本作に関してはアンナがノートを手に入れる経緯も重要だと思う。ノートは本来、他の人物のためにどうしても必要なものだった。しかもまっさらなノートは貴重品だ。諸々の事情でノートが手に入らなければ、アンナが手紙を書きたくても叶わなかったかもしれないし、書くことを思い立ったかどうかもわからないのだ。
 だから、誰かへメッセージを伝えたいと思えること、そのメッセージが伝達可能な状態になること、それ自体がきっと奇跡みたいに凄いことなのだ、普段はそう思えなくても。
 
 オースターは、登場人物が全てを失う(あるいは失いそうになる)という境遇を好んで書く。その地点から彼らがどうするのか、何を見出すのか。あるいはそうなってもなお残るものは何なのか、に作家としての関心があるようだ。
 アンナもそのような境遇に置かれる人物のひとりだ。だが、財産どころかアイデンティティも剥ぎ取られて転落していく他作品の人物に比べると、そこには彼女の生まれ直しからの成長物語のような要素も感じられる。庇護者とともに、「臍の緒」と呼ばれる紐で繋いでいた街漁り用のカートを失うところが特に象徴的だが、作中で彼女は何度も何かを失ったり死の淵に立たされ、その度に新たな出会いを経験し、よみがえる。
 月並みな言いかただが、ここまで劇的ではないにしても、私たちもこの繰り返しで生きているのではないか。何もかも失った、一度死んでしまったと思うような経験は、自分を見つめ直すきっかけでもあるのだ(当事者はなかなかそう思えないが……)。

 さて、ノートの終わりがこの小説の、この物語の終わりでもある。小説が幕を下ろすとともに、登場人物たちの人生のひとコマにもひと区切り。オースターの小説のこういう構成が私は好きだ。
 ノートの終わりに近づくと、アンナは切迫した調子で綴る。

(前略)はじめのうちは、まさかこんなに長くなるとは思っていませんでした。二、三日あれば要点はすべて伝えられるだろう、と高をくくっていました。それがいまや、ノート一冊をほぼ埋めつくし、それでもまだ、表面をなぞった程度でしかないのです。書き進んでいくうちに筆跡がだんだん小さくなってきたのもそのためです。何とかして全部を詰め込もう、手遅れにならないうちに何とか終わりにたどり着こう、そう念じて書いてきました。けれどいまでは、どれだけ自分をごまかしていたかがよくわかります。言葉はそんなことを許しはしません。終わりに近づけば近づくほど、言うべきことは増えていきます。終わりは想像のなかにしかありません。それは先へ進みつづける気力を奮い起こすために捏造される目標にすぎないのです。いずれはきっと、そんな目標には絶対にたどり着けないことを思い知らされるのです。書くのをやめねばならない時が訪れるとしても、それは単に、時間がなくなってしまったからにすぎません。やめるとしても、終わりにたどり着いたとは限らないのです。

『最後の物たちの国で』、白水uブックス、p216

 今私もまさにそうだよ、アンナ! それに、書けば書くほど書きたかったことからかけ離れていくし、最初は思ってもいなかった言葉が出てくるんだよね。

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