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答えを出そうとしないという答え
「作品を良くするために自分はどういう働きをすれば良いのだろうか」
ということをよく考える。
俳優として自分に充てがわれた役のことだけをやれば良いのだろうか。
どうすればより良い稽古になるのか、より良い作品になるのかを考えた結果、自分の責任の及んでいない部分に手を伸ばすことは“悪”なのだろうか。
ぼくは自分の責任が及んでいない部分に手を伸ばしてしまいがちになる。
きっと、もっと自分のことに一生懸命になれば良いのだろう。
自分のやるべきことを全部やっているのかと聞かれたら、答えは「まあ、やってますけど」と口を尖らせながら言うことになる気がする。
しかし、どうしても気づき、気になってしまうのだ。
稽古としてこっちの方向に進んだほうが生産性が高いのにな、とか、稽古場のパワーバランスが崩れかけているな、とか。
そしてそれを改善することは、最終的に自分に返ってくると思っている。
だからその行動は自分自身の質の向上に繋がると思っている。
と、書きながら気づいてしまった。
果たしてその行動がチームのための行動なのか。
自分のための利己的な行動になっていないか。
そう聞かれた時にぼくは再び口を尖らせるしかなくなってしまう。
施政者がなぜより強い権力を欲しがるのか。
プラトンのイデア論、そして国家論の上澄みを理解してしまった気がする。
自分の脳内に【完全なる作品】を持った“演出家”あるいは“指揮官”がトップに立ち、強烈なカリスマ性で組織を牽引すれば、意思決定が至極スムーズな演劇創作集団になれますよ、というのがプラトンの言っていることなのかもしれない。
そういう演出家はいる気がする。そしてそういうひとが相応しい現場もあるのだと思う。(オリンピックの開会式とか)
きっとそういう演出家の現場はある意味で楽なのだとは思う。
そしてぼく自身、そんな力を欲してしまっているのかもしれない。どうしてもそっちの方が楽だと思ってしまうから。
でも現実的にぼくは【完全なる作品】を持ってないし、それによって生じる“上下関係”を望んでいない。
しかもそれが多様性に繋がる気がしない。単色で、色気のない作品になりそうだ。そもそも世界の自由さが失われる。
じゃあぼくは俳優兼翻訳家としてどうするべきなのか。
まずはシンプルに自分の仕事をすること。
もう一つ。チーム力を高めたいのであれば、ひとの話を聴くこと。そして民主主義的なプロセスを踏んで
と書いたところで、安部公房の「友達」を思い出してしまった。民主主義の暴力。
きっと答えはないのだ。答えを出そうとしない。
今のぼくはそこにたどり着きました。