小さな螺旋
ひとは本当に成長する生き物なのだろうかと疑ってしまうような瞬間がある。
例えば子供の成長は著しいし、自分自身のギターだって始めたころから比べたら信じられないくらい上達していると思う。
だって昔、ギターを手放してしまったときに挫折したFコードを普通に弾けるようになっているし、曲を練習していても明らかに前に進んでいる感じがある。
だからぼく自身も成長はしているのだ。
でもいつまで経っても、どこまで行っても成長しないんじゃないか、変わらないんじゃないかと思う瞬間が本当にある。
演劇修行をしていたとき、同じ失敗を繰り返すなということを口酸っぱく、散々言われてきた。
稽古場はトライアンドエラーの連続だ。たくさん失敗をしてもいい。でもどうして失敗したのかを考えて、もう一度やるときには修正をして演出家、あるいは共演者に提出をする。
それがあちらこちらで行われることによって、自分の芝居も変わるし、他者の芝居も変わる。その結果、芝居のクオリティが底上げされていく。
だから同じ失敗を繰り返しては作品にとって損失であり、底上げには繋がらない。
もちろん苦しいとき、どうしても脱却できなくて同じ失敗を繰り返してしまうこともある。だから非難轟々というわけでもない。
【ひとのDNA構造は螺旋を描いている。だから身体が捻れてしまうのはある意味自然なことである。】
という話をお世話になっているトレーナーの方にしていただいた。
【歴史は螺旋階段のようなもの。3歩上がって2歩下がる。】
という話を大学受験をしたときの世界史の先生から聞いた。
ひとが生きるということと“螺旋”という形状は確実に繋がりがあるのだなとぼくは思っている。
本題に戻りたい。
ぼくはどこまで行っても、いつまで経っても“ひと付き合い”が苦手だ。
同じ失敗を繰り返し続けてしまう。本当に嫌になる。苦しい。
ぼくのひと付き合い構造は本当に螺旋になっているのだろうか。いつまでも真っ平らなところを歩き続けている気がしてならない。
人類史が証明しているように、何か劇的に歴史が変わるようなことは滅多に起きない。
劇的に何かが変わっているように見えて、実は小さな小さな変化が起こり続けている。
その小さな小さな変化が自分自身にも本当に起こっているのだろうか。
ぼくにとっては永遠に目を背け続けたいテーマなのかもしれない。
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