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人という字は
“人”という表記より“ひと”という表記のほうが柔らかい感じがして好きで、文章を書くときは“ひと”を使っている。
それにしても金八先生の「人という字は〜」という説教はよく出来ている、というか象形文字から至る“人”という漢字の起源すら書き換えられてしまう勢いがある。
実際、ぼくは自分の気づかないところで、絶妙なバランスでひとに支えられているのだと思う。
だから今、ぼくは無事に生きている。
でも、ふと自分ひとりになったとき、突然降りかかってきた負荷を背負いきれなくなる瞬間も訪れる。
今までぼくはその負荷を色んな方法で受け流してきた。海に行ったり、旅に出たり、寝たり、座ったり。
基本的にはあまりひとに頼るということをしない。
ぼくに降りかかってきた負荷は、あくまで自分のものだし、ひとに背負わせることは申し訳ない気持ちになってしまう。
先日、唐突な負荷がぼくに降りかかってきた。
その負荷に対して、ぼくは理不尽さを感じていた。それと同時に理不尽に思っている自分の【能力不足】への憂いもあった。負の堂々巡りだ。
帰り道にひとりで焼肉屋に寄って、お肉を食べて、食欲を満たすことで負荷を受け流そうとした。
それでもなお解決しない。
SNSで承認欲求を満たそうともした。
でも結局、投稿はしなかった。だって、不特定多数の他者に「被害者の席に座ってます」とアピールしたところで何になるか。
投稿していたら、承認欲求を満たそうとした自分への嫌悪にも陥っていた気がする。
ぼくに必要なのはひとだった。
ぼくが力を抜いて倒れても、支えてくれると信じられるひとだった。
今までぼくは、そういう視点で人間関係をあまり考えてこなかった。体重の預け方をあまり知らない。
(知らず知らず預けてる瞬間は当然ある)
ぼくは自分の想像以上にひとに支えられたいという欲求があるのだと分かったし、同じく支えられたいと願うひともいるのだと思う。
ひとつ、自分の中でやってみたいチャレンジができた。
【ひとりで生きることを放棄してみる】
ここからしばらくそれを意識してみようと思う。
自分がどれだけ他者から知らず知らずに支えられているのか、実感が持てるようになるかもしれない。
少し心が軽くなったよ。