Y:55 【読書メモ】しあわせ仮説-古代の知恵と現代科学の知恵
【感想】
サウジに住んでいると、宗教を土台に生活が建っているな~と実感することがある(生活の上に宗教ではない)。それぐらい、人や社会が宗教に基づいて動いているように感じる。そこで疑問が浮かぶ。
宗教はどれくらい、人の行動に影響を与えるのだろうか?イスラム教に限らず、どの宗教の聖典にも、人の理想的なあるべき行動指針(困っている人は助けよう、誠実であれ、人の悪口は言わない等)はありそうだ。
もし、信心深い人が、聖典にあるような模範的な行動を実践していたら、その場所は、どんな人にとっても住みやすい場所になりそうだ。一方で、中東というスケールで眺めてみると、宗教は争いの元にも見えなくはない。
この本の著者のジョナサン・ハイトは社会心理学者で、特に道徳心理学、ポジティブ心理学の分野で研究を続けている学者だ。最初に、タイトルの「しあわせ仮説-古代の知恵と現代科学の知恵」を見たときに「しあわせ」の部分から内容を想像して、どうすればハッピーライフが送れるのかが書いてあるのかなと想像してしまったのだけど、読んでみると、もう少し視点は広くよりよい人生との向き合い方が書かれているように思えた。
また、副題である「古代の知恵と現代科学の知恵」というのは、宗教、哲学(古代)と社会学、人類学、心理学(現代)と言い換えることもできる。古代より受け継がれている偉人の名言(処世訓)を現代の科学的、学術的観点から比較・検証しているのが、この本の特徴であり、おもしろい部分だと思う。
宗教はどれくらい、人の行動に影響を与えるのだろうか?という私の疑問に対して、偶然にも第8, 9,10章が部分的に答えてくれた気がする。著者の研究の中心的な部分でもあり、読みごたえがあった。
ちなみにTed Talksには8,9章の要約的な講演がある。
この本には、こうすれば幸せになれます的なことが明示的に書かれているわけではない。昔から言われているような、私たちがこれまで、どこかできいたことがあるような人生との向き合い方(幸せになる方法)について、現代の学術的知見を分野を越えてより広く集め、検証している点が説得力があった。
以下、章ごとにまとめるつもりだったが、写経(写し)に近くなった。参考、気になった部分の抜出し。
第1章 分裂した自己
古代より、心や自己は一つではなく、いくつかに分かれていると考えられてきた。それをメタファーで表現してきた(仏陀は野生の象、プラトンは戦闘馬車)
多くの場合、それは「理性・意識」と「感情・欲望」という分けられ方で、著者は象と象使いというメタファーを使っている。
自分の意志の弱さに驚いた時私が思いついたイメージは、自分が象の背中に乗っている象使いであるというものだった。私は手綱を握る。象に指令することはできるが、それは象が自分自身の欲望を持たない時だけだ。象が本当に何かしたいと思ったら、私はもはや彼にはかなわない。(p.14)
心は四通りに分裂している。
・心 対 体
・右脳 対 左脳
・新皮質 対 旧皮質
・制御されたプロセス 対 自動化されたプロセス
象使いは意識的で制御された思考で、象は自動化システム(直感や内臓反応、情動、勘が含まれる)。
自制や行動の制御、何かを考えないようにすることは象と象使いのやり取りで説明できる。私たちが経験しているように、象を思い通りに操ることは難しく、かといって、象使いだけでは私たちの心は成立しない。象(情動)がいなければ、好き嫌いがわからず、どう行動すればよいかわからなくなる。
第2章 心を変化させる
全宇宙は変化し、人生は思考によって作られる。-マルクス・アウレリウス
私たちの今日ある姿は、私たちの昨日の思考から成り、私たちの今日の思考が明日の世界を形成する。人生は、私たちの心の創造物である。-仏陀
(p.39)
大衆心理学で最も重要視されている考えは
世の中の出来事は私たちの解釈を通じてのみ私たちに影響を及ぼすので、自分の解釈をコントロールできれば、世界をコントロールできるというもの。
古代から現代にいたるまで象使いが象を訓練し直すことで物の見方を変えようとしてきた。しかし、これは簡単ではない。
象の言語で最も重要なものは「好き(接近)」か「嫌い(回避)」であるが、これらは無意識的に生じている。早く強い。
さらに「嫌い(回避)」の方が「好き」よりもより強い(Negativity Bias)。危険から身を守るために、回避システムの方が強く働く。
ある人の典型的な幸福レベルは接近システムと回避システムの間の日常の力のバランスを反映している(感情スタイル)。これは人生経験よりも遺伝的な相違による影響が大きい。
感情スタイルを変えるには意志の力だけでは難しい。最も有効な3つの手段は瞑想、認知療法、プロザック。
瞑想の目的は自動的思考プロセスを変化させることであり、象を手なずけること。仏陀は「沈黙の孤独を知り、静寂の喜びを感じた時、人は恐れや罪から解放される」と言っている。瞑想を数か月間にわたり毎日、続けることでネガティブで貪欲な思考の頻度は実質的に減り、そのゆえ自分の感情スタイルの改善に役立つ。
次の2つはうつ病などの精神疾患に対して
認知療法は象使いに、議論によって象を直接的に打ち負かす方法ではなく、象を訓練する方法を教えるから効果的。認知療法に行動主義を取り入れたものが現代の「認知行動療法」である。ただし、認知行動療法だけが効果のある心理療法というわけではなく心理療法は総じて効果があるが、結局は適合性の問題となる。
プロザックは選択的セロトニン再取り込み阻害薬のことでパキシル、ジェイゾロフト、セレクサ、レクサプロなどを含む。ただし、どのように作用しているかについては多くのことがわかっているわけではない。プロザックには2つの議論がある。一つは、プロザックの効果が近道であること。認知療法より簡単に同じような効果を簡単に得ることができる。これをどう考えるか。また、症状の緩和以上に性格を変えてしまう。これを美容整形のようなものと考えるか、進歩と考えるか。
著者は瞑想、認知療法、プロザックのすべてが広く利用されるべきだと考える立場。
第3章 報復の返報性
この章では返報性の重要性について述べられている。
「もらったら返す、やられたらやり返す」ということが自分と他者を結ぶ絆となる。
動物は血縁性利他主義の遺伝的特徴がある(自分の子どもたちのためなら、自分の命を危険にさらす)。
人の場合はしっぺ返し戦略は、相互作用の最初は親切にし、それ以降は、前のラウンドでパートナーが自分に対して行ったことをそのままパートナーに対して行うというもので、これにより血縁を超えて、見知らぬ人との協調的な関係性を形成する可能性を開いている。
復讐と感謝は、しっぺ返し戦略を増幅し強化する、道徳感情。これがコインの裏表であると認識する必要があると言っている。感謝だけだと簡単に搾取の対象とされてしまうし、復讐だけだと協調的な相手も遠ざけてしまう。例として、マフィア(ゴッドファーザー)、販売員の無料サンプル、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックの例などをあげている。
ゴシップというのは人類特有で、ロビン・ダンバー曰く、「言語はゴシップをするために進化した」と。チンパンジーの毛づくろいの代わりに、人類は言語が進化したのではないかと提言している。
人がゴシップをするとき返報性が作動する(いい情報をもらったら、いい情報を返したい)。ゴシップは失うものがなく、双方にとって利益になる。⇒この辺りの説明は日本の週刊誌やワイドショーのゴシップネタがくだらないと言いつつも、返報性の作用によって、いつまでも残っている理由になるのかなと思った。
返報性は関係性における万能薬としながらも、与えすぎても、与えなさすぎても効果がない。友人や恋人の間では、プレゼント、好意、気づかい、自己開示のバランスのとれたギブ&テイクによって関係性が最も成長する。
また、返報性の一つとして「模倣」をあげていて、ミラーリングやラインダンス、応援団、宗教儀式などの同期的活動もその一例だと言っている。
第4章 他者の過ち
この章では、私たちは皆、偽善者であると言っていて、他者の過失には気づきやすい(軽蔑)のに、自分に関しては自己正当化をしてしまうと言っている。
心理学実験では人は利己主義であり、見つからないとわかっていれば不正を行うことがわかっている。問題は、人々は自分が何か間違っていることをしているとは考えていないこと。人は自分にとって好ましい信念や行為を支持する理由を掘り起こすために思考する。
私たちは他者を行動によって判断するが、自分については何か特別な情報を持っていると思っている。自分の将来の展望に対してポジティブな幻想を持っている人は、そうでない人に比べて、幸福で人の好かれやすいが、このバイアスにより、自分がすること以上に報われるべきであると感じるようになると、同じように考えている他人との間で争いをすることになる。例えば、夫と妻の家事分担をパーセンテージで見積もると120%になったりMBAの学生のグループワークにおける自身の貢献度を合計すると139%になるという研究がある。自己奉仕バイアスによってグループメンバーが敵意に満ちてしまう恐れもある。
悪の問題は多くの宗教を悩まし続けてきた。一般的に宗教は神と悪の「善と悪が永遠に戦い続ける」二元論、悪は私たちの感情が作り出す幻想であり、唯一神しか存在しないという一元論、そして、一元論と二元論の融合で神と悪魔の存在は究極的には調和するという3つの解答のうちのどれかを選択してきた。
邪悪であると考えられる行為をする人は、自分では間違ったことをしているとはあまり考えていない。暴力と残虐性には4つの原因があると考えられていて、「強欲・野心」、「サディズム」は悪の属性である。問題は残りの2つが善の属性を持つもので、それが「高い自尊心」と「道徳的理想主義」である。自尊心が高く非現実的で自己陶酔的である時、現実はそれを脅かす。この脅威に対する反応として、人はしばしば暴力に走る。また、人は道徳的指令を受けていると、暴力が道徳的な目的へ至るための手段であると考え暴力行為に至る。20世紀の主な残虐行為はこれらで説明できる。
それではどうするかというと、仏陀は「人生の浮き沈みに関して無関心になるように」と忠告した。⇒瞑想認知療法も有効。「~するべき」思考をやめ、共感的であれと。衝突ではなく受容することが幸福へと至る道だと言っている。
第5章 幸福の追求
この章から、著者の「幸福仮説」の検証が始まる。
仏陀やストア派の哲学者エピクテトスは、幸福は心の内側からのみ見いだせるものであり、外側に対する執着を捨てるべきだと言っている。これは2章の、人生は思考によって作られるという考え方の延長線上にある。
近年の心理学の研究から、幸福の一部は外側からも訪れることがわかってきている。重要な目標を成功した場合に得られる快楽は、目標を達成することよりも目標に向かって前進することで得られる。(目標達成前ポジティブ感情と目標達成後ポジティブ感情)目標達成によって得られる快楽は短い。シェイクスピアは「勝ったら終わり、喜びはその過程にある」という言葉を残している。
人間の心は、条件の変化に対しては極端に敏感だが、絶対的水準に対してはそれほどでもない。宝くじで高額当選したとしても、いずれは慣れてしまう。つまり幸福は長くは続かない。⇒適応の原理
現在の自分の状態に関する判断は、自分が慣れている状態よりも良いか悪いかに基づく。神経細胞は新しい刺激に対しては活発に反応するが、慣れてしまうと発火しなくなる。
これは「快楽のトレッドミル」につながる。成功の後にはさらに目標を高するようになる。期待値はどんどん高くなる。それを達成したとしても、それが以前より幸せとは限らない。同じ場所を走り続けている。逆に、大きな挫折の後には目標を低くする。
古代の幸福仮説では、幸福は内面から訪れるものとしていて、外界の財産や目標を手に入れることは刹那の幸福以上のもにはならないと主張する。古代の賢者が教える最も一貫した教訓の一つは、手放せ、追い求めるな、そして新たな道を選択せよというもの。
1990年代の幸福研究の2つの大きな発見は
・遺伝との強い関連性
・環境との弱い関連性
である。となると、環境を変えることにあまり意味がないように聞こえるが遺伝子そのものは環境(外界)要因に敏感であることがわかってきている。
外界の条件は2つあって
・生活条件(人種、性別、年齢、障がい、財産、配偶者の有無、住環境)
・行っている自発的活動(瞑想、エクササイズ、新たなスキルの学習、休暇をとる等:自ら進んで選択するもののこと)
ポジティブ心理学における幸福の方程式
H=S+C+V
H: 実際に経験する幸福の水準(Happiness)
S: 生物学的な設定点(Our biological set point)
C: 生活条件(Conditions of living)
V: 自発的活動(Voluntary actions or choices we make daily)
によって決定される。ポジティブ心理学の課題はCとVがHを押し上げるのか見出すこと。
いくつかの重要な外的条件:C
・騒音
・通勤
*これらはストレスを増大させるので積極的に取り除いた方がいい。
・コントロールの欠如
*これもストレスの元。関与に対する感覚や活動性は幸福感を増大させる。
・恥:人は外見をよくすると幸福感を永続的に高める効果がある。(例:整形手術、服装)
・人間関係(次章で詳しく)
V(自発的活動)は快楽と充足の両方を増加させるように一日を過ごすとよい。
充足とは完全に没頭し、自分の強みが生かされ我を忘れさせてくれる活動⇒フロー
象は快楽に溺れやすいので、快楽の可能性を維持するために間隔をあけることが重要。過剰摂取は×
自分を甘やかす活動からよりも、親切や感謝の活動をすることからの方が、長時間にわたる気分の改善を経験する。
誇示的消費(ブランド品を買う)より、楽しめる活動(経験)を消費するために働く時間を減らし、家族との時間や休暇を増やした方がよい。
第6章 愛と愛着
この章では、心理学における愛と愛着の研究の概観にページの大半を割いている。ハーロウの赤毛ザルの研究からボウルヴィの愛着理論の背景について説明があって、親と子の愛着スタイルが成人の恋愛についても類似性(対応)があるとしている。
ボウルヴィの愛着関係を定義づける4つの特徴
1.密着維持(子どもが親の近くにいたがる)
2.分離不安
3.避難所(不安な時の安心を求める)
4.安全基地(親を基地として使い、そこから探検と成長に乗り出す)
オキシトシンは愛情いっぱいのホルモンなどと言われたが、最近の研究では女性へのストレスホルモンにもなりうることがわかってきた。愛着欲求が満たされない時に分泌される。
真実の愛が永遠の情熱であるとするなら、それは生物学的には不可能。愛には情熱愛と友愛がある。
情熱愛:激しい情動、恋に落ちる。(火のメタファー)
友愛:私たちの人生と深く結びついている人に対する感情(ぶどうの木のメタファー)
情熱愛が友愛に変化するわけではなく、二つは別々の時間的経過を有する。
情熱愛は強度が最初の数ヶ月で急激に上下するのに対し、友愛は強度は弱いがゆっくり(一生かけて)と高まっていく。
デュルケームは宗教社会と統合度を調べて、人には人生に意味と構造を与えるために、義務と束縛が必要であると結論づけた。これは、近年の研究でも証明されていて、強い社会関係を持つことは免疫システムを強め、寿命を延ばし、手術からの回復を早め、うつ病などのリスクを軽減してくれる。また、他者を世話することは援助を受けることよりも、しばしば有益であることがわかっている。
第7章 逆境の効用
この章では、どんな時、逆境が役に立ち、どんな時、有害なのか、どのようにすれば、逆境から利益を得られるのかについて書かれている。
トラウマ後成長(Post traumatic Growth)の3つの恩恵
・気づいていなかった能力を発見し、自己概念が変わる
・人間関係のフィルターとなる。本当の友人を選別し、より関係が深まる
・優先事項や哲学を現在、他者へと変化させる(今を生きる的)
⇒死に直面した人の多くが価値観や考え方の変化を経験する。
苦悩はするべきか?
強い逆境仮説においては、成長するには逆境が必要とされるが、逆境による性格変化の報告はない。
ダン・マクアダムスの性格の三層モデルだと
第一層(基本的特性):Big Five⇒ 部分的には遺伝子が影響する
第二層(性格的適応):役割や分野で成功するために発達させる部分⇒基本的特性の影響は受けるものの、環境やライフステージと絡み合う⇒変化する
第三層(ライフストーリー):自身の行動を自ら解釈し作り出される⇒変化する
従来の研究では第一層の変化を見ていたが、逆境は第二層においては人生の目標を自分が本当に行きたい場所に変えさせる。第三層においては、ストーリーを魅力的なものにするのが「逆境」。
三層モデルのそれぞれの性格が一貫することが大事で、逆境は第二、三層を変化(再構築)させる機会になり、一貫性を持たせることができる。この点において逆境が重要。
悲観主義者の場合には、逆境にぶち当たる前に、瞑想や認知療法、プロザックも考慮に入れる。次の段階として、社会的サポートのネットワークを構築する。さらに、宗教の信仰や実践は心の中の葛藤を告白して開示するという点で有効。困難にぶつかった時は心の準備ができていようがいまいが数か月後のある時点で、何が起こったか、どのように感じたか紙を取り出して書き始めてみる。
⇒このあたり、宗教的な習慣が薄い日本人が、スピリチュアルや新興宗教にはまってしまう原因のようにも思える。
逆境のタイムリミット:子どもにおいては、大きな逆境は好ましくない。子どもは守られるべきであるが、甘やかされるべきではない。10代はライフストーリー(第三層)の大きな影響を与える時期。10代の終わりから20代の初めが逆境の恩恵を受けやすい。20代に逆境を乗り越えた人たちにとっては、逆境はそれがなかった場合よりも、彼らをより強く、幸せにしてくれたと言うことができる。
知恵に関する研究において:知恵は「暗黙知」に基づく。「暗黙知」は手続的な(「それを知っている」というより、「どのようにするか知っている」)もので、他者の直接的な援助なしに身につき、その人が価値を置いている目標に関係する。状況に依存するため、普遍的で最善の方法は存在しない。
スタンバーグは知恵とは二つの物事のバランスをとるための暗黙知と言っている。
・自身の欲求、他者の欲求、直接的な相互作用のない人々の欲求や物事のバランス
・適応(環境に適合するよう自己を変化させる)、形成(環境を変化させる)、選択(新たな環境に移動することを選ぶ)のバランス
第8章 徳の至福
この章では徳について、古代(東洋)の徳のとらえ方と、西洋(近代哲学)におけるとらえ方を概観して、ポジティブ心理学における徳の研究から、過去の徳仮説について検討されている。
古代より賢者や年長者は「徳」の重要性を強調している。しかし、徳を高めるのは簡単ではない。
理論上の信念だけで過失を防ぐことは到底できない。そのためには、徳に反する習慣を打破し、良い習慣を作って身につけなければならない。
どの文化でも書物を残している文化なら道徳への考え方を示す記述を見出すことができる。類似点としては徳の多く(誠実さ、公正さ、勇気、博愛心、自制、権威の尊重等)は共通していて、徳の点から、行為の善し悪しについて特定している。実践的なものが多い。証明や論理よりも格言や模範を多用している。事実的な知識よりも実践や習慣を強調している。
徳はよく訓練された象に宿る。訓練には日々の実践と数多くの繰り返しを要する。象使いは訓練に参加しなければならないが、道徳的教示が明示的な知識だけでは象に何も効果がない。古代人にとっては、道徳とは、ある種の実践的な知恵であった。
西洋の道徳:科学は世界の莫大な数の出来事を説明できる最小限の法則を探し求めるのに対し、徳の理論は、全く倹約的ではなかった。また、哲学の理性崇拝は徳の基礎を習慣や感情に置くことと相性が悪かった。ギリシア人が人の人格に焦点を当て、どのような人になることを目指すべきかを問いかけたの対し、現代の倫理は行為に焦点を当て、ある特定の行為がどんな時に正しく、どんな時に間違っているかを問いかける(例:トロッコ問題)道徳教育は、徳から離れて道徳的推論へと変わってしまった。これは深刻な誤りである。
ポジティブ心理学における徳:ピーターソンとセリグマンは、主要な宗教の聖典からボーイスカウトの宣誓書にいたるまで調べ、徳のリストを作成した。
1. 知恵
2.勇気
3.人間性
4.正義
5.節制
6.超越性
これらを24の主要な人格の強みに通じるとした。従来の心理学と違い、強みに対して取り組もうという考え方。
徳というと、何かしら努力しなければいけないように聞こえるし、実際にそうであることが多い。しかし、徳とは人格のいくつかの強みを実践することによって達成される長所であるとしている。
徳が示す利他主義は死後の審判や返報性の報酬がなかった場合にも報われるのか?
実験では幸福な人は、より親切でより人を助けようとした。ボランティア活動がその人の生活の一部である限りにおいて、人はボランティア活動を増やすと、その後、幸福感や満足感が増加する。老人は他の成人よりもさらに効果がある。
第9章 神の許の神聖性、あるいは神無き神聖性
この章では神聖さ、嫌悪、高揚などの概念について著者の研究を中心に述べられている。
人類の文化において、社会世界は2つの明白な次元を持っている。
・親密さや好き嫌いの水平次元(X軸)
・社会階層や地位といった垂直次元(Y軸)
この2つとは別の垂直方向の3次元(Z軸)があり、著者はそれを「神聖性」と呼び道徳的次元としている。
人類の心は神がいると信じる・信じないにかかわらず単純に、神聖性や神々しさを感受する。多くの文化の道徳律では食べ物、性、月経、死体処理について非常に留意している。著者はこの背景を嫌悪の論理と結びつける。嫌悪される物事は接触によって感染する。嫌悪は人々が何を食べるかを決定するのに役立つ進化的な起源がある。しかし、それは口を守るだけではなく体の守護のもつながる。嫌悪は欲望を消し、清浄、分離、清掃に関心を持つよう仕向ける。人類は肉体的な接触によって広がる細菌や寄生生物の被害にさらされることが多かった。嫌悪のおかげで接触にもっと注意深くなる(外見のみに有効)。⇒2020年のコロナ禍で読むと、今も昔も大きく変わっていないと感じる。
多くの文化では人類と動物の間にはっきりと線を引き、人は他の動物よりも何かしら上で、より良く、神に近いと主張する。にもかかわらず、人間はほとんど、動物と同じ行為をする。生物的な行為(食べること、排泄、性交、血を流す、死ぬこと等)は正しい方法で実行されなければならず、嫌悪はその正しさの守護者となる。
神聖性(純潔)ー 人 ー 嫌悪(汚れ)
科学技術の発展に伴い西洋世界は「非神聖化」された。宗教歴史学者のミルチャ・エルアーデは神聖性の知覚は人類の普遍的特性であるとし、すべての宗教はそれぞれ相違点があるにもかかわらず、超俗的で純潔な何かと接触し、コミュニケーションをする場所や時間や活動があることでは一致する。聖と区別するために、それ以外の時間、場所、活動は俗と定義している。
西洋社会は聖なる時間と空間をはぎ取り実用的で効率的な俗な世界を生み出している。ただ、それでも神聖さは抑えきれないものであるため「秘密宗教」が繰り返し侵入するし、無神論者でさえも、その人の故郷や初恋の風景、若い時に初めて訪れた外国の町などは、例外的に特別な性質を持っていて、それは彼だけの世界における「聖域」なのだと言う。
高揚:人は本当に道徳的に美しい行為に対して感情的に反応していた。これらの感情反応は胸の暖かで心地よい感覚と、他者を助けたいという欲望やより良い人になりたいという欲望に関わっていた。
高揚はより穏やかな感覚であり、心理的興奮とは結びつかない。高揚の瞬間にはオキシトシンが分泌されている可能性があり、高揚は人々を愛情や信頼、寛大さの感情で見たし、新たな関係性に対してより受容的にするかもしれない。しかし、リラックスした受動的な感情を引き起こすのであり、見知らぬ人に対する積極的な利他性を引き起こすわけではなさそう。多くの人々にとって教会に行く喜びの一つは集合的な高揚を体験することである。
畏敬:自己超越の感情である。人が何か広大なもの(概念、名声、権力でもよい)に出会うことと、その人の現在の精神構造ではその広大な何かに順応できないこと、これらが畏敬の感情が生じる条件。
畏敬は自分が小さく、無力で、受容的であると感じ認知的な追及をやめてしまう。だから、畏敬は改宗の数多くの物語に一役買う。
第10章 幸福は「あいだ」から訪れる
この章では「人生の意味とは何か」という問いについて、著者の心理学的答えが展開される。
上の質問を「人生における目的は何か」と設定し話を進めていく。まずは人生における目的の感覚を生じさせる要因について。
人をコンピューターのメタファーで考えることがあるが、人はコンピューターではなく、自分に起こった出来事のほとんどから自力で回復する。この点において、人は植物のようなものであるというメタファーがより適切と考える。
第5章の幸福の方程式であげた
H(幸福)=S(設定点)+C(生活条件)+V(自発的活動)の
Cの最大の部分は愛である。次に重要なのが仕事(これは学生や育児等も含まれる)でフローや没頭をしている状態を作り出すための適切な目標となる。人にとって愛と仕事は植物にとっての日光と水と類似している。
愛については、先人たちがすべてを言っていると。
健全な人は何がうまくできなければならないか、という問いに対してフロイトは「愛し、働くこと」と答えた。
マズローの有名な欲求にヒエラルキーでは、生理的欲求が満たされると、欲求は愛へ、そして尊敬へと移行する。
レフ・トルストイは「どのように働くかを知り、どのように愛するかを知り、愛する人のために働き、自分の仕事を愛しているなら、その人はこの世界で豊かに生きることができる」と書いている。
仕事については、ポジティブ心理学における研究からの楽観的な結論としては、ほとんどの人が自分の仕事からより多くの満足を得ることができるということ。最初のステップとしては、自分の強みを知ること。強みを日常的に使うことができる仕事を選択すれば、少なくとも随所でフローの瞬間を得ることができる。仕事の最高の状態は、絆、従事、コミットメントに関係する。
バイタル・エンゲージメント:フローの瞬間を経て、人間関係や練習や価値観が長年かけて深められ、それによりさらにフローの期間を長引かせる、フロー体験と人生の意味付けの両方の特徴を持つ世界との関係。
これは、人(自分)か環境(仕事)かのどちらかに属するものではなく二つの間の関係の中に存在する。バイタル・エンゲージメントを得るのが困難な職業もある。良いことをする(他者に対して役立つものを生産する、質の高い仕事をする)ことが良い結果(富の達成や専門家としての向上)に結びつく時、その分野は健全である。
階層間コヒーレンス(coherence):多階層あるシステムの階層間の一貫性。性格三階層において、下層である性格が、対処メカニズムとうまく調和し、それがライフヒストリーと一貫している場合、性格はうまく統合されており、日常生活をうまくこなしていくことができる。一致しないと、内部矛盾とその神経症的な葛藤に引き裂かれがちになる。
人は別の面でも多階層なシステムと言える。
・物理的なもの(肉体と脳)
・心(肉体や脳から出現する)
・社会や文化(心から形成される)
人生が、その人の存在の三層間でコヒーレントである時、人生の意味が感じられる。(p.327)
例えば、私たちがヒンズー教の純潔や汚れの論理について明示的に理解していたとして、日常生活で汚れを感じることはない。(心理層においてのみ、つまり象使いが把握している事柄として理解しているだけ)
しかし、実際にインドのヒンズー教の中で育ち、毎日の生活の中で聖と俗を意識して暮らしていれば、ヒンズー教の儀式に対する理解は直感的なものになる。明示的な理解は何百もの身体感覚に裏付けられる。概念的な層と直感的な層が結合した時、その儀式は正しいものと感じられる。儀式の理解は上層の社会文化層へも広がる。身体感覚と意識的思考は行動とコヒーレントであり、属する文化の中ですべてが道理にかなったものになる。
宗教はコヒーレンスの創出という点では本当に大きな役割を果たしている。
道徳性と宗教はどちらも、人類文化に何らかの形態で生じ、ほぼ常に文化の価値やアイデンティティや日常生活と結びついている。人生における目的と意味をどのように見出すかについて説明するならば、道徳性と宗教について知られていることとコヒーレントでなければならない。
進化論の観点(適者生存が進化のすべてであるなら)から見れば、利他的であることを求める道徳は問題である。しかし、集団の利益という点で見れば利他的であることに合理性はある。ハチの巣やアリのコロニーは単一の有機体で個々のハチやアリはコロニーのために自分の命を犠牲にできる。
進化生物学者のデビッド・スローン・ウィルソンは人類は遺伝と文化の二つのレベルで同時に進化したと指摘している。人の行動は、遺伝子だけでなく文化の影響も受け、その文化もまた進化する。文化の要素は、多様性を持ち、淘汰もするので、身体的な特性と同じように、文化的な特性もダーウィン主義の枠組みの中で分析することができる。文化的な特性は種族や国家を超えて広がる。文化と遺伝の進化は互いに結びついている。互いに学び合い、教え合い、習ったことを積み重ねていくという強い傾向という文化に対する人間の能力は、それ自体が、この数百万年の諸段階で起こった遺伝的な革新である。
ウィルソンは、世界中の宗教は、多様性に富んでいるにもかかわらず、常にお互いやグループに対して、人の行動を調和し方向づける役割を果たすことを示した。
ルールが神聖性の要素を持ち、超自然的な制裁やゴシップ、村八分によって裏付けられる時、そのルールへの尊重が強化される。それらの信念を社会的な協調装置(恥、恐れ、罪、愛のような感情と結びつけることによって)活用したグループはただ乗り問題(利他的なメンバーを利用する利己的なメンバーの存在)に対する文化的解決を見出し、信頼と協力の多大な恩恵を受けることができた。
宗教は、(個人を利己主義にする)個人淘汰の影響を減じ、(個人をグループの利のために働くよようにするようにする)群淘汰の力が働くようにしたのである。(中略)人類の性質は極端な利己主義にも極端な利他主義にも調整された複雑な混合物なのである(p.336)
ウィルソンの観点では、神秘体験は自己の「オフ」ボタンである。自己がオフになると、人は大きな体の中のただ一つの細胞、または大きな巣の中の一匹のハチとなる。
動きや詠唱が繰り返されるような儀式、軍隊における密集体隊形を組んで何百時間も更新する基礎訓練などは参加者の脳の中に「共鳴パターン」を起こりやすくし、神秘体験を引き起こすとしている。
自己よりも大きい何か、そのためなら死んでもいいという目的意識をもたらすこともできる。
幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えたうえで、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物が成長するために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。
結論 バランスの上に
・万物は、相反するものの戦いから生じる。
-ヘラクレイトス、紀元前500年
・反対がなければ、進歩はない。魅惑と嫌悪、動機と実行、愛と憎悪は人間が存在するために必要なものだ。
-ウィリアム・ブレイク、1790年
この章ではタイトルにもあるように、バランスの中に知恵を見出せと言っている。私たちは、「科学(現代)と宗教(古代)」、「西洋(努力と個人主義)と東洋(需要と集団主義)」、「リベラルと保守」は対立的であると考えがちだが、打開できない相違の領域は見逃して、互いに学び合おうと同意することで利益が得られ、それが重要であるとしている。
著者は知恵を探すなら、決して見つけられないと思うような場所、つまり自分に相反する精神の中に探すべきであると言い、バランスのとれた知恵を利用することによって、満足で、幸福で、意味を感じられる人生への方向を選択できるとしている。
象使いは、それほど多くの権限を持っていない。しかし人間性の偉大な思想や最善の科学を利用することによって、私たちは象を訓練し、自身の可能性と限界を知ることで、賢く生きることができるのだ。(p.345)