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インテグレーション教育

突然ですが、インテグレーションを知っていますか。
最近の20代〜30代はほぼと言っていいほど、インテ出身の難聴者やろう者が多いのではないだろうか。自分の体感ではそう感じる。
最近の子どもたちも人工内耳装着者が増加し、インテグレーションが当たり前のようになってきている。

ー般にインテグレーションとは、障害児を一般の学校で教育することをいう。しかしながら、難聴児は健聴者め家族にも生まれ、また地域にはたくさんの聞こえる人がいる。聞こえる人と聞こえにくい人は共に生活することが自然であり、当然であり、社会的な事実でもある。その場合、聞こえる人は聞こえにくい世界を、聞こえにくい人は聞こえる世界のことを知り、理解しなければならない。従ってインテグレーションは両者の相互理解に基づく融和であり、調整といえる。難聴児が生まれた家族は、まずは家庭で相互にインテグレーションする必要がある。

厚生労働省発表Q&Aより

「難聴児が生まれた家族は、まずは家庭で相互にインテグレーションする必要がある」と説明されているように当事者である私も手話禁止教育を受けた身でありながら、幼稚園とろう学校から二重登校していた。
4歳か5歳の頃から発音の練習をさせられ、大泣きしながら文章力を伸ばす訓練を朝から晩まで親と一緒に勉強を強いられた記憶は今になって、苦い思い出となっている。
そのお陰で今の私がいるといったら、何も言えない。
その点は親に感謝しなければならない。
厳しい訓練によって、普通の人のように出来る範囲を自らの力で広げる努力を身につけたことは厳しい親がいてこそ、と受け入れなければならない。
そう思えるようになるまで、親と揉めては仲直りして繰り返すうちにお互いの間にあるわだかまりは小さくなった。15年ぐらい掛かってしまったが(笑)
私の歴史というと、健聴の小学校から健聴の中学校へ、これまでの経験から挫折し、高校は自分の選択でろう学校へ戻ったという流れである。

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聴者の善意の陰に隠れる『差別意識』が見え隠れしていると気付いたのは中学の頃だった。
聴者と聴覚障害者との間にある見えない溝は、全て善意の陰に隠れる『差別意識』から来ていると思っていた。

とその前にこのタイミングで申し訳ございませんが、念のために書いておきます。
ここまで読んでくださっている読者の皆様の中には、タグの関係で覗きに来た聴者の方や聴覚障害者への支援を行っている方々もいらっしゃるかもしれないので、ここまでつらつらと書いておいて『差別意識』に辿り着くのはいかがなものかという意見があるかもしれません。
不快な気持ちになってしまった場合は、心よりお詫びいたします。
ですが、当時の自分が感じていたことなので隠さずに綴りたいと思います。

インテグレーション教育はまるで諸刃の剣のようなものだと思っています。
そして、ろう教育は全てにおいてたった一つ、正解はないと考えています。
高校でろう学校にカムバックするひとたちが多くいます。
実際、私だけでなく同級生7人も含めてインテ出身でしたが、高校でろう学校に戻りました。
その事実から、これまで感じてきたことを多く抱えて楽になりたい場所を探し求め、ろう学校にカムバックしてきたということになります。
それぞれのろう者や難聴者が感じてきたマイノリティとマジョリティの両方の考え方や立場で感じ取ってきた、社会の中にいる一人として知ってもらいたいからです。
語弊が出てきそうなので念のため伝えますが、この記事はあくまでもこの私が『当時』感じてきたことです。

『当時の自分が感じてきたこと』とありますので、今の自分は大人になって社会に出てから様々なろう者や難聴者、聴者に出会い、色々話し合ってきて切磋琢磨し、考え方や価値観も大きく変わり、差別意識に対する思いや考えも年齢的による環境の変化によって、時間が解決し柔軟になり、変わってきているのも事実です。
また、この感情を長らく言語化することが出来ず、ずっと心の中に引っ掛かっていました。ようやく、今になって視野がクリアになり、自分を振り返る契機となりました。
そして、自らの気持ちや記憶を整理するようになり、言語化として残せるようになりました。

中学の頃の自分は多感で敏感な時期…所謂、思春期でした。
そこで、『差別意識』とは何か。
聴者の世界から見放されたマイノリティとしての苦しさ。
聴者によるろう者や難聴者への合理的配慮の限界。
聴覚支援という制度の落とし穴。
インテグレーション教育という制度による脆さ。
その本質を知ってしまったうえで心に傷を負い抱えてきた私がろう学校高等部に戻るまでに強く感じてきたことを今、こうして文字を打っています。
全体的に見て、この記事に綴るマイノリティの立場から見た当事者として、聴者の世界でたった一人で戦ってきた身として、ただただ語っているだけだと流し見してくださると幸いです。さて、話を戻します。

小学校の頃は、とてもよかった。
道徳の授業で、「手話を理解しよう」というテーマでクラスのみんなと一緒にお互い手話を使って自己紹介などしてきたり手話でスピーチし合ったりなど色々やってきたからか、聴覚障害者に対する理解やイメージは整っていた。
そして、同じ学校で「聞こえの教室」という支援教室に似たような環境もちゃんと整っていたので聴覚障害者への配慮をしっかり受けているように感じた。特別支援学校教諭の方も何人かいたので、発音や言葉の訓練を受けながらろう学校と少し似ている環境の中、聴覚の小学校を卒業した。

通常の学級での学習におおむね参加できるものの、補聴器 等の使用によっても通常の話し声を十分に聞き取ることが難 しいといった、耳の聞こえが不自由な児童生徒が、よりよい 学校生活を送ることができるように支援する教室です。

町田市教育委員会PDFより

https://kosodate-machida.tokyo.jp/material/files/group/17/kikoenokyousitu2024.pdf


問題は中学に上がった頃である。
中学校に入学した時から、聴覚障害の支援や合理的配慮は全くゼロになり、先生による授業も全て口話メインになってしまった。
「私、耳が聴こませんけど〜…」といった感じで卒業するまで口酸っぱく過ごしたのである。
今思い出すと本当に辛かったとしか言えない。
先生たちも「普通よりも普通」の先生が多かったので、私に対して聴覚障害なんてあったっけ?というような感じで普通の人たちと同様な態度をされていたのがとても辛かった。
その時に「差別とは何なのか」を初めて意識するようになった。
聴覚障害を持つ自分の存在を否定する理由とは?
全てがわからなかった。当然であろう。
当時は13歳という、まだ幼かったからである。
授業でも口話で話している内容が全く分からなかったので、国語の先生にマンツーマンで話を聞くことにした。
筆談して欲しいとお願いもした。
それがダメだった。過去に戻るなら、話しかけるな、と過去の自分を止めたと思う。

「聴覚障害」を持つ自分の姿が透明になったかのように、「普通の人のように接した方があなたも嬉しいでしょう」と言った国語の先生、あなたの顔は一生忘れませんよ………。

おっと、ついつい感情的になってしまった。いけない。
今、それを思い出すだけできつい。
何度も何度も思い浮かぶあの光景は一生忘れない。
あれが自分にとって怒りとは何なのか思い知る契機になった。
そこから、善意による差別が始まった。
「善意による差別」という言葉が相応しいかどうか全体的に見ると分からない。
だが、今の時点で個人的にこれがしっくり来ている。

他にもあった、国語の授業で頻繁に行っていた作文発表会。
教壇に立って、皆の前でスピーチするのだが、発表者を総評化するのは先生ではなく、私たち生徒間で行う。
『声はしっかり出せていたか』『内容はどうだったか』をチェックするという感じでやるのだが、私の発音は100%完璧に出来る!というわけではなかった。
当時、語彙力や文章力に不安があったので、作文発表会が開く度に何度も休みたいと思っていた。
発音と文章力は当時、私のコンプレックスでもあった。
発音は完璧ではないから、発表しなくても良いかどうか聞いてもダメだった。とにかくやりなさいと一点張りだった。
おお、神よ。あなたはどこまで私を苦しめるのですか。

音楽の授業でも、リコーダーのテストや歌のテストを皆の前で披露する。
それも生徒間で評価し合う。
耳が聞こえない分、リズムや音感を披露するも限界がある私はヤケクソになって受けた覚えがある。
友達からは「練習すれば、どうにかなる」と励ましてくれた時もあったが、救いようがなかったこの気持ちは今でも忘れられない。
「練習しただけで、100%出来るわけないだろう。何言ってんだよ、こんなのでこの障害がなくなるわけがないだろ」と。

音楽の期末テストの時も、ベートーヴェンの曲を聴いて、「この音感は何といったか」「このリズムと似たような音楽家がいましたがそれは誰ですか」という問題には悪戦苦闘した。
分かるわけねえじゃんって白紙で出した。
「他に書くところなんかあるか?バッハと書けばいいのか?いやいや、白紙で出そう」で抗議の意味を込めて出した。

何を察したのか音楽の先生が「テレビを見れば分かるのでは」と精一杯の気持ちで用意して、コンサートしている映像を見せられて、「これでわかるよね!?問題答えて!」と聞かれた。
答えは「わかりません」だった。当たり前だろう。
それだけでは判断できず、「結局音感が必要だろ!できるわけねえじゃん」と心の中で沸々と怒りがこみ上げた。
日本語字幕が全てだと説明しても、善意による善意で「ビデオを見て!見れば分かるから!」と譲ってくれなかった。
百人一首大会もそうだった。
一枚も取れず、友達に譲ってもらったのも何度か。
配慮してもらって「あ!今、これだよ!とって!」と指差してくれてみんながわたしのために待ってくれたあの場面は今も忘れられない。
私は何なんだろうか。
後ろを振り返れば、学生生活の中で残ったのは後ろめたさ、恥ずかしさ、屈辱の気持ちだった。
誰にもその苦しみを友人や先生に言わなかったし、心の中に浸し隠して耐えて、卒業を待つしかないと思いながら生活していた。
家に帰っても、親にも弱音を吐かなかった。
吐いたとしても、理解してくれるはずがないしどうしようもないだろうと思ってずっと黙っていた。
私の選択すらも無視され、自分の都合でインテグレーションさせた親でもあり、何より健聴だったからである。
勝手ながら敵視していた。あの頃は尖っていたから。
人生で最も長く感じた3年間だった。
今、社会人として普通に働いているが、一番辛かったのはどれかと聞かれたらば、必ず「学生の頃」だと答えるだろう。

さて、こういった経験から…善意による差別とは何かわかっていただけたかと思います。
合理的配慮さえも崩壊されていた環境の中でなぜ「普通の人のように接してくれた方があなたは嬉しいでしょう」という答えに辿り着くのか私には理由がわかりませんでした。
インテグレーション教育は諸刃の剣であると述べたように、私のような経験もあります。
もちろん、私だけではなく、他の人たちも似たような経験をしてきたかもしれません。
現在のインテグレーション教育は完璧ではありません。
一か八かに近い博打のようなものです。
そこの世界に自分の性格がフィットするかしないかも関係あると思います。
所謂、環境ガチャというやつです。

当然ながら、その中にはいい恩師と出会い、合理的配慮や情報保障がしっかりされている中で生活している人たちもいます。
私が知る限りだとそういう人は少ないかもしれません。

学年だけで100人もいますから、その100人+それぞれの科目の先生方に合理的配慮と情報保障を一人で求め、闘うのは不可能です。私はそこが力不足だったと強く感じています。
聴覚の学校に求める合理的配慮や情報保障、理解を市と教育委員会、そして両親。また、ろう学校や聞こえの教室など様々な連絡網をとって協力しながらバックアップを行う必要があると思います。
聴覚障害者はマイノリティですから、不可能ではないと思います。
それだけではなく、逃げ道を作ってあげて欲しいです。
逃げてもいいんだよと手を差し伸べる人も必要です。
メンタルケアはとても大事です。何よりも大事です。
メンタルケア優先です。
ですから、合理的配慮や情報保障さえも崩壊されている環境の中でただただ一人でひっそりと耐えている方もいるだろうと思います。かつて私がそうだったように。
そんな方には「他にも逃げ道はたくさんある。逃げてもいい。ろう学校に帰ってもいい」
あなたにはその権利がある。なぜなら、聴覚障害者だから。全て許してくれるよ。

【あとがき】
私のような例があったうえで同じ経験を味わってほしくないという思いからこの記事を執筆することにしました。
長文書くのは久しぶりなので、二転三転しているところがあるかもしれません。誤字脱字もあるかも…。
もしあったら指摘してくださると嬉しいです。
ろう教育やインテグレーション教育、聴覚障害者に関する知識はまだまだ勉強中です。足りないところがあるのも事実です。
知識不足なところは何卒ご容赦ください。


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