ウクライナとガザのさなかに、8月15日をどう迎えるか
年に一度の「戦争を振り返るシーズン」も、実に79回目。不幸なことに、ウクライナとガザの双方で、続く戦争が進行する中で迎える夏である。
昨秋から気にかけてきたが、ウクライナはついにロシア領内へ侵攻する冒険的な賭けに出た。またイランがイスラエルへの大規模報復に踏み切れば、文字どおりの「第五次中東戦争」となろう。
しかし、多くの人の関心は低い。誰も頼んでないのに、青黄のウクライナ旗や赤黒白緑のパレスチナ旗をSNSのプロフィールに掲げ、「参戦」気分だったアカウントの数も、少なくなる一方だ。
先日、コロナとウクライナで「専門家」が犯した失敗について、さるメディアに採り上げるよう申し入れたら、コロナはむろんウクライナも「今はホットイシューではないので」との表現で、お断りの返事が来た。当初は毎週のように同じ顔ぶれの専門家を起用し、「関心を持たないのは非国民」とばかりに煽りまくっていた媒体が、である。
無責任なセンモンカは、しめしめよかった、これで戦争の帰趨がどうなろうが「自分は言い逃げできる」と胸をなでおろすのだろうが、歴史学者だった私はそうはいかない。飽きもせぬ抗戦・抗戦・抗戦・抗戦……の無益なお喋りから遠く離れて、いま、こうした一節が耳に痛く響く。
地名がフィクションゆえに仮名となっているが、太平洋戦争のニューギニア戦線だと思ってほしい。おそらくはモデルのあるこの挿話、叺を「情報」に置き換えるなら、まさに戦後79年のわが国にもぴたりと当てはまる。
進行中の戦争を乗り切るうえで貴重な軍需物資だぞ、ありがたく頂戴せよとのお達しで、メディアから視聴者に配給が届く。ところがその中身は、石ころだ。運び手役の「専門家」も内心では、自分の喋りがばかな話だと知っている(本当のバカでなければ)。いつまでも自粛・自粛・自粛・自粛……の一つ覚えが垂れ流された、コロナをまさに典型として。
引用の出典は、1970年に結城昌治が直木賞を受けた『軍旗はためく下に』。作家になる前、東京地検の事務官として恩給問題を扱った体験を持つ結城は、軍法会議で処断されたがゆえに遺族年金を受けられない同胞への義憤から、戦後25年の節目に同書を世に問うた。
戦友会が刊行する回顧録のために、戦地での体験を聞き手が取材して回る巡礼形式で、物語は進んでゆく。その点は、誰もがご存じの百田尚樹『永遠の0』(2006年)とも重なる構成だけど、昔書いたように、あることが決定的に異なっている。
『軍旗はためく下に』で、元兵士たちはしばしば言い澱み、発言と「内面描写」とで食い違った内容を話す。『永遠の0』は、もちろんそうじゃない。まるでWikipedia の項目を読み上げるかのように、全員が饒舌かつ平板に「正しい史実」(めいたもの)を教えてくれる。
簡単には伝えられない体験があり、そこにこそ戦争の本質がある。戦争の記憶が風化するとは、そうした自覚が薄らぎ消えてゆくことを指すのであって、「いや俺は知ってるし」「戦争ものはまだ売れる」「ウクライナで新たな需要が」みたいな話は関係ない。
1927年生で、病弱な結核持ちだった結城には、徴兵された体験はない。だから執筆のために取材を申し込んでも、「われわれの話を飯のタネにされてたまるか」と、当初は拒まれた。しかしわずか一週間だが、志願して海軍に入った履歴のおかげで、ようやく証言を得られたと回想している。
2020年からのコロナ禍では、お安い「戦争」の比喩がメディアに飛び交い、22年にウクライナで始まった(本物の)戦争でも、シャンパン片手のお気軽な解説をセンモンカが配信していた。それらのほとんどは、後で振り返られもしない無価値な内容で、そこだけはかつての戦争に似ている。
……もう、いいでしょ。いま戦争を扱う上で必要なのは、むしろいちど黙ることだと思う。自分はほんとうに「わかっていた(いる)のか?」と問い直さずには、語るに値する議論は生まれまい。
今月出ている『文藝春秋』9月号の、連載「「保守」と「リベラル」のための教科書」で、『軍旗はためく下に』を採り上げた。途中まではオンラインの無料版でも読めるけど、できれば有料の部分にある、この一節から後を読んでくれたらうれしい。
(ヘッダー写真は1972年の映画版を、国立映画アーカイブのFBより。深作欣二と新藤兼人が共作したシナリオも、「脚色」という営みの最高峰をなすものでした)