見出し画像

資料室: ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか

一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。

実は、たまたま再読中の森本あんり『反知性主義』に、こんな記述を見つけたところだった。2015年2月の本で、翌年のトランプ当選を予見したとも呼ばれる、アメリカ史の名著である。

「リバー・ランズ・スルー・イット」に、とても面白いシーンがある。幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプテストさ」(Baptists who can read)と答えるのである。
 つまり、バプテストは読み書きもできないが、メソジストはもうちょっと上で、読み書きぐらいはできる、ということである。もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話で、バプテストもメソジストも同じくらいバカにした言い方である。
 実は、これは映画館で見るバージョンにしか出てこない。このシーンを確認したくてDVD版を何度も見直したのだが、確認することができなかった。しかし、わたしは映画の中のこのシーンをよく覚えている。
 というのも、わたしはこれを日本の映画館で見たのだが、ここで大笑いしてしまい、しかも笑ったのは自分だけだったので、ちょっと恥ずかしい思いをしたからである。
 アメリカの映画館なら、大喝采を受けるところである。アメリカ人は、こういうジョークが大好きである。自分がバカにされたそのバプテストやメソジストだと、いっそう喜んで大笑いする。
 そういうところで「ポリティカル・コレクトネス」を持ち出すのは野暮である。

新潮選書、149頁
強調を附し、段落を改変

初読の際に読み落とした理由は、2017年、うつからのリハビリの中で読んだこともあるけど、当時はまだ、日本に「第2次ポリコレ・ブーム」が来ていなかったのが大きい(第1次は平成初頭)。

『リバー・ランズ・スルー・イット』は、ブラッド・ピットの出世作として知られる1992年の映画で、今も人気がある(監督は昔「アメリカン・ニューシネマのブラピ」みたいな俳優だった、ロバート・レッドフォード)。

戦前とかならともかく、そんなごく最近(歴史家の感覚では)の作品でも、DVDを出す際に「はい、このシーン、いまはもうNGなんでカットで」と切り刻まれちゃうのは、結構ショックな話だ。

森本氏も「もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話」と補っているとおり、別に製作者が、メソジストやバプテストを差別しているわけではない。むしろ、かつては敬虔なクリスチャンの間でも、新興の宗派への差別があたりまえに行われる時代があった。

そうした時代の負の遺産を忘れないために「このお父さん、いいオヤジだったけど、いまから見るとやっぱ古いとこあったよ」という趣旨で、当時は自明視されていた偏見を、作中に書き込む。それがわかっているから、観客も見て笑う。歴史を踏まえた大人の鑑賞とは、そういうものだ。

ところが、今という時代の価値尺度を絶対視し、「これ差別発言じゃないスか! 差別するセリフが映画の中にあっていいんスか?」と騒ぐお子様な鑑賞者が増えると、それが通じなくなる。

結果として、かつて差別があったという史実はかき消され、痕跡が残らなくなってしまう。つまり検閲・削除型のポリコレは、その本質として歴史学の敵なのだが、頭が悪くてそれを理解できない「歴史学者」は多い。

もっと大事なのは、森本氏も書いているように、こうしたジョークは本来、セリフの中でネタにされている「かつての被差別者」の末裔にこそ、大きくウケる。「自分たちは迫害されてきた」という過去の受難の歴史が、きちんと社会に存在を認められ、承認されることに価値があるからだ。

しかしここでも、「うおおおおお差別の表現はカット!」みたいなお子様(たまに博士号を持っていたりする)が湧いてくると、そうした記憶の継承が難しくなる。もっとも、世の中には「製作者自身が差別してるんじゃないの?」と見られても仕方のない演出を、ナチュラルにやっちゃう例もあって、両者が悪魔合体すると最悪だ。

判断に迷ったら、もし自分が差別された人たちの子孫だったときに、周りからどんな風に接してもらいたいかを、考えてみるとよいと思う。

たとえば、①「昔はひどい差別があったこと、知っていますよ」という人にケアされて、先人たちがそれを乗り越えて、自分はいまこの社会で生きているんだ、と感じたいだろうか。そうした歴史を踏まえたアイデンティティの持ち方を、今後とも尊重してもらいたいだろうか。

それとも、②「差別ってホントよくないですよね、だからそんな記憶や痕跡はぜんぶ消しておきました、私たちは初めから正しくてゴージャスで最高でキラキラした世界に居たんですうおおおおおDiversity!」な人に囲まれて、一切悩みのない世界のポスターとかに載ってみたいだろうか。

「負の記憶のない多様性」って、
なぜかみんな似たイメージに
なりますよね。
マルクス史観があるだけマシかな?

まぁ、どうしても②がいいっていう人を、止められるかというと難しいんだけど、しかし彼ら彼女らが勝手にフィルムを削除してしまうようでは、①の人まで困っちゃいますよね。つまり、それは正当化しえない。

なにより「負の痕跡は全削除でOK! 私たちはゴージャス!!」な自意識って、対立しているはずの「俺たちアメリカは常にグレイトだったぜうおおおおお!」とも似てるっていうか、同じなんですな(苦笑)。

2015年の『反知性主義』の時点では、まだ見えにくかったそうした構図が、誰の目にもはっきりしたのが、トランプが返り咲きを争う2024年かなと。そんな風に現在を捉えることは、いま結構大事だと思う。

姉妹編の『不寛容論』も名著です。
私の書評はこちらから

P.S.

近年の代表的な「ポリコレ批評」の書籍と、その批判。なかなか読ませますね。こちらもそのうち書評しようかな。

いいなと思ったら応援しよう!