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【掌編小説】レモンパイに連なる欲と真夏の一頁

 レモンパイが食べたい、それかレモンケーキ。というかレモン味でクリームいっぱいだったら何でもいい。口を開けばレモンレモンレモン。確認するまでもなく暑さにやられている彼女は、それが自分を救う唯一のものであるかのように繰り返す。
 この場合、『買ってくればいいじゃん』という台詞は禁句だ。行けるものならとっくに行ってるし、それが出来ないからこんなにもおもいが募るんであって、このもどかしさを分かりきった一言で片付けて欲しくない。というのが言い分らしい。
 ちなみに、外野からすれば取るに足らないと明記された抽斗に放り込めることでも、彼女にとっては時に死活問題にまで発展するのは今に始まったことじゃない。そしてそれがすっかり我が日常に組み込まれていることに気づいてしまうたび、さらりと面倒くささを感じる他に、特にどうとも思わなくなっている自分の肩を労りをもって叩いてやりたくなる。
 はー、こんな日に美味しいレモンパイがあればな。洗濯物を干し終わり、体力ゲージを大幅に削られたらしい彼女が呟いた。それはもう誰かに伝えるための言葉ではなく、単に彼女の願望が滲み出ているのに過ぎない。
 こんな日、というのはよく晴れたを通り越してガンガンと日差しが責めてくる土曜の休日に、せめてお気に入り動画を流して心穏やかに過ごす努力をしたいのに悉く動画の更新がなく、さらに楽しみにしていた映画はイマイチだった、という日のことを指している。
 ぐったりとソファに寝そべった彼女の持つリモコンが、往生際悪く配信サイトを反復横飛びしている。その執着心の一欠片でも、玄関の外に出るためのエネルギーに変換できればいいのに。彼女を見るたび思うものの、誰しも他人には推し量れない尺度で物事を捉えているものだし、その割合が多いか少ないか、共感しやすいかされにくいかの違いでしかない。
 私に関して言えば、帰省や旅行でも普段と同じように過ごしたいがために、着替えはもちろんボディソープやシャンプー、ドライヤーまで鞄に詰め込まないと気が済まず、毎回大荷物を生み出してしまうことだとか。
 対して普段使いの小ぶりなバッグひとつで事足りる彼女が私の大荷物を見ては楽しそうに笑うから、社会生活での整理整頓や要不要の選別に長年苦労してきた身としては、とてつもなく救われた気持ちになるものだ。激しい夏を乗り切るために、美味しいレモンのお菓子(クリームたっぷりだと尚良い)に彼女が救いを見出したように。
 まだ午前も早い時間から熱中症アラートの鳴る日々に、彼女でなくても外出には大きな躊躇いを伴う。たとえマンションから徒歩五分とかからない距離にスーパーがあったとしてもだ。開店直後は品出しの最中で生菓子コーナーの商品は少ないし、日が落ちてからは皆考えることは同じというやつで、客の数が多い分だけ品薄になりがちだ。
 手に入らない時間が増すごとにレモン系生菓子への思いが高まる一方で、ケーキ屋まで出向くには勇気を要する気温が彼女の語彙のほとんどをレモンで埋め尽くすに至っている。
 仕事帰りに駅前のケーキ屋へ何度か足を運びもしたが、お目当ての品には未だ出会えずじまいだ。閉店間際のショーケースが寂しいというのもあるが、あくまで彼女が欲するのはレモンクリームであって、チョコレートクリームが代打にならないことは長年の付き合いでわかりきっている。
 故にレモンパイとレモンショートケーキのスペースがきれいさっぱり歯抜けになっているのを見るにつけ、彼女の落胆が移ったようにがっかりしてしまう。
 早急に彼女にレモンクリームを与えなければ。使命感にも似た思いが込み上げるのは、彼女が呟く『レモンパイ食べたい』が呪文のように浸透してしまったからかもしれない。なんなら自分も食べたくなっている。どちらかといえば辛党なのに。レモンパイ、もしくはそれに準ずるものを食べてみたい。
 涼しくした部屋でソファに並んでふたり。ケーキの載った皿を前に、お気に入りの動画やリストに溜まっている映画を消化する休日は最高の部類に入るのでは?
 彼女の思考にリンクしたようにレモンパイへの思いが募っていく。そして求める思いが炎天下に阻まれるところまでも同じときた。
 通販という手も考えたが、焼き菓子や冷凍できるタイプのケーキならまだしも、自分たちの頭にある至って普通のレモンパイを見つけられなかったのが残念すぎる。すぎるが、このままでは終われないという思いが関連商品の海へと潜らせた。
 次々とクリックしていくうちに巡り会えたものがある。その名もレモンカード。パイでもケーキでもない、瓶に詰められたジャムの仲間のようなそれを気づけばカートに入れていた。
 翌日には届く便利さに感謝しつつ、彼女と一緒に箱を開ける。瓶を飾るお洒落ラベルに彼女の目が輝いた。庶民な我が家ではとんとお目にかかることのない品を前に、つられてテンションが上がる。
 瓶の中の鮮やかな黄色が眩い。それは二人して求め続けたものだった。美味しいレモンパイにレモンケーキ、その核となるレモンクリームの色。至高の黄金。
 何にでも合うらしいので手持ちアイテムの食パンを持ってくる。スプーンで瓶の中身を掬おうとして、全く想定外の衝撃が走った。
 黄金の沼へゆっくりと沈むスプーン。そして、もったりと柄に絡む粘度のあるクリーム。侵入者を包み込む柔さがありもしない熱を想起する。細心の注意を払ってスプーンを抜き、掬い取ったクリームをそっとパンの上に置いた。包容力が具現化したら、きっとこんな形だろうと思わせる柔さと弾力にじわりと唾液が滲む。
 なんてこった。まったりとおやつタイムを楽しむはずが、無性に恋しくなってしまった。久々に見たうきうき具合でアイスコーヒーを取りに戻った彼女の膝に手を伸ばす。
 意図を察するも、当然ながら彼女の天秤はレモンカード優勢だ。だがこちら側に傾ける自信はある。
 暑さにやられているのは自分も同じだと痛感する。普段より数段美味しさがレベルアップしただろう食パンより、彼女の温もりが欲しくてたまらない。熱と甘さに満ちた寛容な柔さはあれほど思い募らせたレモンパイを凌駕すると、この夏求めるもの第一位の座に燦然と輝いた。

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